中吉沢なかきさわ

神社の紹介

  昔は、吉沢小学校の上に「八坂神社」があったが、明治の頃に氏神の「八剣神社」に合祀した。
  中吉沢として上吉沢の「八坂神社」とは別に祭礼を行っている。また、10月の第1日曜日には上吉沢の総鎮守である八剣神社の例大祭に参加する。

中吉沢自治会館倉庫
 

  上吉沢と中吉沢は江戸時代は一つの村であったが、現在では自治会の組織として2分されている。地図上でも上吉沢と下吉沢の2つしか存在せず、中吉沢は上吉沢に含まれている。中吉沢は神戸・新宿・寺前・宮下・向田の各部落を合わせたもので、神戸・新宿・寺前・宮下を部落あるいはクボとよび、向田は人家のない所へ新しく出現した住宅地である。



例大祭

  以前は7月15日が例祭日であったが、現在は7月第2土曜日である。昔は三之宮の神職が来て祝詞をあげていたが、現在は神事を行っていない。
  昼食をとり終えた氏子は14時過ぎに自治会館に集合し、自治会長や役員の挨拶の後にお神酒で乾杯をし、祭りが始まる。巡行途中には休憩所が4箇所設けてあり、ジュースやアイスなどを配る。また、途中の民家ではおにぎりやコロッケなど軽い食事を取る。
  祭りが終了すると直ちに後片付けをし、19時頃から直会が始まる。また、8月か9月頃には別途反省会を行う。

日の丸
自治会長の挨拶お神酒で乾杯
 
休憩所にて子供達にアイスを配る
民家にて食事直会で乾杯


故鈴木氏

  中吉沢にはかつて太鼓に情熱を注いだ1人の氏子がいた。その名は「鈴木政二(まさじ)」といい、「鈴木建具店」を営んでいた。
  鈴木氏は自ら太鼓の胴を製作したり、大胴の革を買って来て自分で張ったという。太鼓の胴の作り方は太鼓屋へ行って教えてもらえるように頼んだが何度も断られた。しかし、それでも太鼓屋へ出向き、見よう見まねで作り方を習得したという。
  鈴木氏の太鼓への情熱ぶりは、押入れの中に残されている附革から感じ取ることができる。現在でも太鼓の革を強く張る地域にとって革が破れることは悩みの種だが、鈴木氏はそれを少しでも克服するために縫い目付近に接着剤を塗った。これは平塚の豊田中原でも見られ吉沢から伝わった。この他にはロープ締めの工具もここから伝わった。
  圧巻なのは、附革の表と裏の革に穴を貫通させ、ボルトで固定していることである。革は外周の鉄のリングを包む形で縫われており、革はこの縫い目から切れることが殆どである。その縫い目に力が掛からないように、縫い目の内側で革を固定すれば破れ難くなるという考えである。実際にどの程度の効果があるかは分らないが、その発想と実行力はよほどの太鼓好きであったと言わざるを得ない。また、鈴木氏が製作した胴は通常のものよりも径が小さく、これはできるだけ早く高音域の音を得るために工夫されたものである。
  鈴木氏は平成2年(1990年)1月に他界されたが、太鼓への貢献は中吉沢だけではなく周辺の部落へも影響を与えている。伊勢原市笠窪には鈴木氏が寄贈した附胴が今でも使われており、胴の径が通常よりも小さいことから鈴木氏のものと分かる。鈴木氏が亡くなった際には、笠窪から感謝の意を込めて時計が贈られた。鈴木氏は笠窪以外にも胴を寄贈していたらしく、各地の太鼓の復活に貢献していたようである。また、葬式には上吉沢の叩き手が集まり、泣きながら太鼓を叩いて見送ったという。

鈴木氏製作の附け胴縫い目に接着剤を塗る
ボルトで革を固定ワッシャーは両面使用
今はなき「鳴保証」の文字ロープ締めの道具
戦時中に吹いたラッパか?倉庫にしまわれた太鼓

  また、現在では全く見られなくなってしまったロープ締めにも研究を重ねていたようで、押入れには太鼓をロープで締めるための道具が残されている。



青年会

  青年会?は中吉沢で1つの組で、15歳で加入して35歳までの者が仲間に入れた。対象になって制度が変わり、新しい組織を「改造青年」と呼んだ。明治38年(1905年)生まれの山田一男氏が加入した青年は古いほうだったといい、父親から入るときの挨拶を一応教えてもらって、酒を一升下げて出掛けたという。
  青年のたまり場は寺前の妙覚寺の大門のそばにあった観音堂で、ここは中吉沢の集会所になっていて堂守がいた。お月見や花見と称する毎年決まった酒飲みの会があって、各自米を持ち寄っておにぎりを作って酒を飲んだ。青年に入るのは4月の花見の時で、長男はムラに残るので当然加入したが、次三男の多くは他所に行ったので入らなかった。
  改造青年との関係はよく分からないが、「青年団」と呼ばれた時代もあった。土沢村青年団の中吉沢支部となっていて、支部長1名、評議員1名、監事(幹事?)3名程の役があった。新しい組織になってからは村・郡・県単位の運動会が盛んで、他に弁論大会なども行った。雪の降ったときは道路の雪かき奉仕などもやった。また、レクレーションとして縄ないなどをやって金を貯めておき、熱海までの遠足などをやった。片道は歩いたそうで、早朝出て夕方着いた。改造青年になってからは「女子青年」も組織された。

太鼓

  中吉沢では一時期太鼓は中断していたが、経験者らにより「中吉沢太鼓保存会」として復活させた。現在演奏される曲目は「ハヤシ」・「ミヤショウデン」・「ジショウデン」の3曲で、昔は「キザミ」・「カンダマル」・「シチョウメ」なども演奏していたが、全てを子供達に教えるのは難しいようである。また、大正時代には笛と鉦があったとう。
  太鼓の練習は大祭前に5回程度行う。ハヤシの大胴は子供がまだ叩けないため、大人がいないときはミヤショウデンのみ叩く。太鼓に使うバチは全て手作りで、材質は「ネブタ」・「マツ」・「サクラ」など色々なものを使っている。
  現在のトラックに載せる山車は昭和50年代に製作されたものであるが、かつては人の手で引張る山車があったという。山車に使われる木製の車輪は、乾燥で割れが生じることを防ぐため、近くの川に浸けてあった。
  大祭当日は神輿と一緒に町内を巡幸し、宵宮の夜は太鼓だけで町内を巡回する。本来ならば締太鼓の横に大胴を設置したいところだが、スペースがないため後ろの柱にしばりつけ、締太鼓と反対方向を向いて叩いているという。

中吉沢の山車締太鼓を取り付ける
大胴を縛り付ける
大胴は後ろで叩く自治会館を出発
譜面町内を巡幸
自治会館に到着締太鼓をゆるめる
大胴を外す山車をばらす
囃子


神輿

  大神輿は200年ぐらい前のものではないかと言われているが定かではない。かつて、神輿の重量を2つの計りで計測したときには100貫(約375kg)であったという。また、子供神輿は平成に入ってから約250万円で浅草で購入したものである。
  現在は神輿の御霊入れはなく、お神酒で乾杯すると神輿は14時30頃に自治会館を出発し、町内を渡御する。神輿の担ぎ手は殆どが中吉沢の氏子が中心である。途中民家の少ない県道は前の輿棒を軽トラックに載せ、後ろの輿棒のみ担いで渡御するが、トラックに載せるのは全コースの4分の1程度である。
  中吉沢の祭りは時期的に雨が多く、08年度も途中で土砂降りに見舞われたが、大神輿にビニールシートをかぶせ、ずぶ濡れになりながらも勢いよく担ぐ姿は印象的である。また、中沢橋の交差点を右折する際には、警察官が信号を全て赤にして、車を止めてから神輿を誘導する。

大神輿子供神輿
出発前の2基の神輿私の酒使ってもらえました ^^;
子供神輿が出発大神輿が出発
貫を打ち鳴らす町内を渡御
神輿にビニールシートを掛ける土砂降りでも担ぐ
前の輿棒をトラックに載せる輿棒を縛り付ける
後の輿棒のみ担ぐしっかりと固定
トラックから降ろす再び担ぐ
中沢橋では信号を赤に自治会館に向かう
掛け声

  神輿は17時40分頃に自治会館に到着し、5分程度練った後に倉庫前に納められる。最後は自治会長の三本締めで渡御が無事終了する。
  祭りが終ると子供達にはお菓子を配り、大神輿はサラシと金具類、輿棒を外して倉庫にしまわれる。

子供神輿が到着大神輿が到着
自治会館前で練る三本締めで祭りが終わる
子供達にお菓子を配るサラシと金具を外す
鳳凰を抜く装飾がない神輿
倉庫にしまう輿棒は自治会館へしまう
子供神輿も倉庫へ金具類はサラシを巻いて保管

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