南金目みなみかなめ

南金目神社

  坪之内の高台にある「南金目神社」は南金目の鎮守で、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると「雷電社」を府の鎮守とし、神体は木造、別当は寂静寺であった。慶安2年(1649年)8月に社領二石の御朱印を賜わり、神楽殿があった。南金目村にはこの他に村持ちの「辨天社」・「牛頭天王社」・「春日社」、村民持ちの「熊野社」・「若宮八幡宮」・「稲荷社×2」・「疱瘡神社」があった。
  『中郡勢誌』には元「雷電神社」とあり、明治9年(1876年)1月3日に村内鎮座の「熊野神社」・「潮神社」・「疱瘡社」・「春日神社」・「八幡神社」・「八坂神社」を合祀して今の社名に改め、後(大正年間か?)に「若宮八幡神社」を合祀したと記されている。さらに、祭神は「別雷命(わけいかつちのかみ)」、配神は「伊邪那美命(いざなみのみこと)」・「速玉之男命」・「予母津事解之命(よもつことときのみこと)」・「弥都波能売命(やつはのめみこと)」・「少名彦命(すくなひこのみこと)」・「誉田別命」・「須佐之男命(すさのおのみこと)」としている。
  当社は金目川に面していて側にある取水堰の守り神とも、また雨乞いの神でもあるという。平成天皇の御大典を記念して社務所を作り、その後は本殿も改修している。本殿内の御神体は1m程の神像(木彫)だといわれる。

南金目神社社号柱
鳥居社務所
拝殿覆殿・幣殿
狛犬燈籠
神楽殿石碑・小祠
忠魂碑神社由緒
御大典記念碑社殿改修事業奉賛者芳名
倉庫境内


南金目の歴史と地区区分

  大化の改新以降の郷制によれば、千須谷と南金目の一部が「和田郷」、北金目と南金目の沖積低地を含む一部が「金目郷」に属していた。弦弘の乱以後の北条氏滅亡後、建武2年(1334年)に足利尊氏は後醍醐天皇の命を受け、北条高時を始め戦乱で死亡した人々の霊を慰めるため、高時の邸址に宝戒寺を建立して寺領とし、二階堂伊勢入道の領地を分別して南半分を寄進した。また、北半分は二階堂氏の遺領により二階堂氏に関係ある瑞泉寺領とした。金目村の南北分村の時期については不詳であるが、これ以後に金目郷は南北の称を生じることとなり、完全に分村するに至った。
  南金目村は初め幕府領であったが、寛永15年(1591年)に御書院番頭青山宗俊加増の地に割かれ、残余の幕府領は寛文3年(1663年)に稲葉正則(小田原藩)の加封の地となった。青山宗俊の知行地は宗俊が小諸城主、そして延宝6年(1678年)に浜松へ転封されるに及び、金目の地は幕府領に復した。また、稲葉正則の領地は正則の子である正征が京都所司代になる天和3年(1683年)に転封され、この領地も幕府領に復すこととなった。元禄10年(1697年)に幕府領は旗本曽谷玄鳳、同中條直景、同船橋玄恂の3給の地となり明治に至る。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』の戸数は94で、小名には「青柳」・「坪之内」・「堀之内」・「根下」・「大門」・「蔵ヶ谷」が記載されているが、現在は青柳・坪之内・堀之内・根下・大田の5区分が用いられることが多い。青柳・坪之内・堀之内は『風土記稿』記載のとおりで、大田は『風土記稿』の大門に相当すると思われる。なお、当時の南金目の呼び方は「ミナミカナイ」であった。南金目は範囲が広いためかつては各地区毎に社会生活が行われ、南金目のまとまりは村の鎮守である南金目神社の祭礼と、金目観音堂光明寺の祭礼に見ることが出来る。現在はそれぞれが自治会を作っており、自治会はお互いに独立している。

●青柳
  青柳は街道を秦野市の方に行って秦野境の集落で、青柳の中には西方の秦野境付近に「西久保」という集落があり、それぞれで道祖神を祀っている。

坪之内
  金目川を南に越えて南金目神社近くの集落で、南金目全体の鎮守である金目神社を含む。部落の内部は4つに分かれていて、「東組」・「西組」・「南組」・「北組」と名前がついている。

堀之内
  金目地区のうち南金目の堀之内は他と性格が異なり、金目観音の門前町的な要素を持っている。県道平塚・秦野線に沿ってある家々は商業を営む家が多く、古くから平塚市西北部の中心地となっていた。堀之内を「町内」ともいうが、今はそのまとまりが自治会となっている。昔は自治会を「戸主会」といっていて、戸主会はアキンド(商人)が主だったというから、その時代には農家と商人とでは分かれていたものと思われる。戸主会はその後「部落会」となった。

川前(大田・根下)
  大田の内部は「モンゼン(門前)」・「オイリ」・「ダイモン(大門)/オオタともいう)」・「タコ」・「コシマキ」の組みに分かれており、それぞれの組が道祖神祭祀の単位になっていた。根下は「根下」と「蔵ヶ谷」に分かれ、それぞれ道祖神を祀る。大田と根下を合わせて「川前」と呼び、「大田自治会」と「根下自治会」の範囲をいう(金目観音堂を含む)。大田と根下は共同していることがあり、青年団は別であったが、青年会は一緒であった。元は一緒の地域集団であったかどうかは不明であるが、自治会になる前の部落会時代から別だったという。



金目観音堂

  正式には「金目山光明寺(宝樹院)」といい、天台宗の寺である。金目観音堂の縁起によると、奈良時代の大宝2年(702年)に相州小磯の浜で感得されたという観音金像を安置し、僧侶の道儀によって建立されたとあり、奈良時代には既に金目川流域の自然堤防上に集落が発生していたことを裏付けさせるものである。永延2年(988年)には花山天皇によって坂東三十三所観音霊場の第七番札所に定められ、源頼朝の崇敬を得て、足利尊氏や関東公方(鎌倉府)の保護を受けてきた。近年においても坂東の札所巡りの人々が多く参詣に訪れるが、市域では安産祈願のお堂としても知られている。ここには堂宇(どうう)を管理する光明寺のほかに、仁王門・鐘楼・歓喜(かんき)堂・文殊普賢菩薩(もんじゅふげんぼさつ)堂があり、庚申塔や地蔵、万句碑などの石仏・石塔も多く建立されている。

●本堂(神奈川県指定重要文化財)
  本堂である「観音堂(金目観音堂)」は明応年間(1492〜1501年)に造立され、神奈川県の重要文化財に指定されている。元禄9〜10年(1696〜97年)に大修理を行い、昭和58〜61年(1983〜86年)の解体修理により建立当初の形に復元された。秘仏である観音像は本堂内の厨子に安置され、ご開帳は60年に一度である(次は2034年)。
●本堂内厨子(国指定重要文化財)
  厨子は国の重要文化財に指定されており、様式は鎌倉地方に見られる室町時代後期の典型的な禅宗様である。安置されている像(前立)の高さは85.5cmで、その胎内の墨書銘から厨子の造立が明応7年(1498年)であることが推定されている。
●山門(平塚市指定重要文化財)と金剛力士像(県指定重要文化財)
  朱塗りの木造八脚門である「山門(仁王門)」は平塚市指定の重要文化財で、両脇に神奈川県指定の重要文化財である金剛力士像(仁王像)を安置している。この金剛力士像は二体一対で関東では最も古く、正面向かって右が「阿形像(284cm)」、左が「吽形像(292cm)」である。釈迦如来の守護神とされ、金剛杵を手にして守護するといわれる。
●銅鐘(神奈川県指定重要文化財)
  銅鐘の銘文には正平7年(1352年)、光明寺の住職である沙門空忍が勧請し、法願、智国と結縁(仏道に縁を結び付けたい人)が願主となって、鋳造大工の清原国吉が造ったことが記されている。

  人々の間では次のような伝説が言い伝えられている。今から千年余りも前に一人の信心深い魚師(海士)が、小磯の浜で汐を汲んでいる際にキラキラと輝く観音像を砂辺から拾い上げた。観音像は長さ七寸ばかりの木像で、魚師は家に持ち帰ると戸外で祭祀していた。ある日、魚師の夢枕に観音さんが立たれて「かない(家内)に祀れ」と言ったのを、「金目(かなひ)に祀れ」と思い違えて金目の地に持ってきた。魚師は金目の地に小庵を構えていた道儀上人のもとに観音像を持って行くと、道儀上人はその観音像を安置するために金目に観音堂を建てたという。
  その後、僧行基が観音像を彫り、その体内に浜に流れ着いた小観音を収めたと伝えられている。木彫りの像の高さは約1.7mで「お腹ごもりの観音像」といわれ、現在これが金目観音といわれる本尊になっている。『吾妻鏡』にはお腹ごもりの観音像として広く知られるようになったことで、源頼朝の夫人政子が実朝出産の折に安産祈願したことが記されている。

囃子

  



山車

  祭りの時には各部落から山車を出した。何台も並べて南金目中を引き回し太鼓を競った。青柳では坪之内の山車が途中まで迎えに来たといい、堀之内・根下と一緒になって神社に繰り込んだという。昔は山車に人形を付けたが、電線が邪魔になって止めたという。



神輿

  



例大祭

  例祭日は『風土記稿』によると旧暦の9月29日であった。その後は4月4日であったが、金目はよく洪水に見舞われるので、秋の取れ高を見てから祭りをしようといい10月10日に変えた。その後は4月10になり、平成12年(2000年)にハッピーマンデー法で体育の日が10月第2月曜日に制定されてからは、10月第2日曜日になっている。
  神社の世話人は堀之内・坪之内・川前・青柳に、大世話人1人と小世話人2人ずつがあり、氏子総代と会計などはその中から出した。祭りに必要なお金は村中の家々から集めた。本祭の他に7月中にムシオクリ、12月にお札配りなどがあった。



青年会・青年団

  かつては官制の「青年団」と伝統的な「青年会」があり、青年団は金目青年団の支部になっていた。堀之内青年団支部・青柳青年団支部・川前青年団支部の支部同士の秋季運動会などを行った。また、青年会は35歳位までの男で作っていて、高等小学校を出れば入った。祭りの後のハチハライや秋の月見、春の花見などをして酒を飲んだが、主として祭礼のことを受け持ち、南金目神社の祭りにはこの青年会が活躍した。
  部落の集会所を今は自治会館というが、以前は「青年会」といった。青柳では大正末か昭和初期に部落で作った物で、管理はずっと青年会でしていて(地所は借地)、この建物が出来る前は会長にあたる人の家が青年の集まる場所であった。坪之内の西組にある部落の公民館は元は別の場所にあったが、「青年会」と呼ぶ。大田と根下では共同で使う集会所があって、これも「青年会」といい、青年会の管理するものだった。南金目神社の祭りに上がったハナで屋根を葺いたり畳を替えたりし、祭りの山車の準備もここでやった。今は狭くなって別々にして建て替えようということになった。



信仰

  『風土記稿』に記された南金目の小祠は、村持ちが「弁天社」・「牛頭天王社」、村民持ちとして「春日社」・「熊野社」・「若宮八幡宮」・「稲荷社二」・「疱瘡神社」であり、この多くが明治9年(1876年)に南金目神社へ合祀されたことになっている。弁天社・熊野社は不詳、稲荷二社については『南金目村明細取調書上帳』に「稲穂稲荷 壱社 組頭喜兵衛持」と、「正一位稲荷 壱社 名主文左衛門持」と記されている。

●牛頭天王社・若宮八幡宮(川前)
  「牛頭天王社」は慶応4年(1868年)の『南金目村明細取調書上帳』(南金目 宮田元範氏蔵)に「牛頭天王 壱社 村内蔵ヶ谷根下大門持」とあり、現在の区分でいえば川前に相当する範囲で祀っていた神社となる。同社は『中郡勢誌』にも「八坂神社」とあり、金目観音境内には「牛頭天王」と刻む石塔がある。
  「若宮八幡宮」は大田のコシマキ裏の若宮という所にあり、コシマキの人が祀っていたが、南金目神社に合祀されて今はない。

●春日社・八幡社(青柳)
  青柳の西の方である「西久保」には「春日社」があり、東の方に「八幡社(八幡神社)」がある。春日社は青柳の氏神のようだが、『風土記稿』に村民持ちとあるように柏木家(青柳の旧家)が中心に祀る神社である。一方、八幡社は柏木家の分家の地続きにあり、同屋の屋敷神のようなふうにある。八幡社は春日社の分かれといい、春日社の祭りは10(9?)月15日で、八幡社はその1ヶ月遅れである。
  明治の神社合祀の時に2社とも(?)南金目神社に合祀されたが、その時に財産も持って行かれるというので、春日社の釣鐘は穴を掘って埋めたそうである。南金目神社の境内にある小さい鳥居は春日社のもので、社殿は合祀後もそのままにしておいた。坪之内にあっては祭りの時に行くのが遠いので、こちらに引き取って2〜3年続けたところ、よその部落から祭りが寂しくなるといわれたそうである。その後、部落の清水某氏に悪いことが続くので、祈?をする人に見てもらったところ、春日さんが帰りたがっているからだと言われ、担いで持ってきてしまった。ところが、戦後に御神体を塗り直しに出し、出来上がって納めたばかりを盗まれた。
  社殿右手にある庚申塔(こうしんとう)は寛文12年(1672年)の造立で、重厚な笠をつけ、正面左右に1体ずつの三猿が刻像された平塚市でも最も古い庚申塔の一つである。

●疱瘡社(坪之内)
  坪ノ内の西組の中には「疱瘡社(疱瘡大明神)」という社があり、「カサガミサン」とよばれる。これは『風土記稿』に載る「疱瘡神社」で、現在は坪之内公民館に付属した小さな社である。昔、カサの病にかかった女性が金目川を渡って死んだのでその死体を焼いた跡だといわれ、疱瘡講ができるなど疱瘡・皮膚病・麻疹の神として近郷近在の人々が集まり、祭礼の日はたいそうな賑わいを見せたという。文化9年(1812年)の燈籠があり、「坪之内 堀之内 題目講」とある。現在も毎年10(9?)月17日の祭礼には施主の藤間家のもと、御神体を開陳している。

2007.11.17
坪之内公民館疱瘡大明神

●御嶽神社(堀之内)
  「御嶽神社」は堀之内町内全体で祀り、昔はこの町内で火災が多かったことから、明治18年(1885年)に火伏せの為に武州(武蔵国)御嶽神社を勧請したという。例祭日は2月10日。昔は代参に行ってお籠もりをしたと言われ、現在は4月29日に武蔵御嶽神社に代参し、お札を会員に配って町内の安全を祈願している。

2008.2.172008.2.17
御嶽神社鳥居
2008.2.172008.2.17
社号碑水鉢
2008.2.172008.2.17
社殿金目学校跡(境内東側)


取材

堀之内・・・平成29年(2017年)10月7日(土)、8日(日)
坪之内・・・平成30年(2018年)10月6日(土)、7日(日)



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