大祭たいさい(例祭れいさい)

大祭

  例大祭は現在の比々多神社の行事の中で国府祭と並ぶ最大規模のもので、氏子を中心とした地域住民にとって最も関心のある神社行事といえる。祭日には子供、大人を問わず多くの参詣者が訪れ、植木・農具市、陶器・干物・飲食物の販売が境内やその周辺で行われ、たいへんな賑わいとなる。かつては競馬も行われ人気を呼んだという。特に行事の中心となる供奉行列には山車等が出され多くの見物客を呼ぶが、それらを尚一層活気あるものとしているのは神輿渡御やちまき神事における青年達の参加とその役割の大きさといえるだろう。
  天保12年(1841年)完成の『風土記稿』によると大祭は旧暦の5月5日で、小祭が6月16日であった。明治維新後の明治6年(1873年)には郷社に社格を定められるが、これを契機に神社行事はかなり改変されたようである。それまで例大祭の位置付けであった国府祭が中絶され、神輿渡御の範囲も現在の氏子地域に限定されている。更に明治41年(1908年)には「神饌幣帛共神神社」に指定されるが、それまで6月16日に行われていた個人的祈願と行疫神信仰に強く関係した「小祭」はその後10月17日に移され、忠魂式、軍隊勅諭読式を付随させる内容へと面目を新たにした。大正2年(1913年)の『比々多村史』では祭日が4月22日(大祭)と10月17日(小祭)になっている。その後大正13年(1924年)に国府祭が復活し、大祭と平行して行われるようになっている。
  このように、4月22日という祭日と氏子地域内における神輿渡御という現在の形式が決まったのは、明治6年(1873年)の郷社化とそれと表裏をなす国府祭の廃止の結果で、現在の比々多神社から神戸の行在所までの神輿渡御は国府祭における巡行の一部が残ったものと解すことができる。ちまき行事、化粧塚等の国府祭と共通する要素が例大祭に見られるのはこのためである。つまり、現在の例大祭は国府祭の要素を残しながらも、明治以降地域社会の祭りとして新たに編成し直されたものである。もちろんその後に幾度かの変化を被ったのも事実であるが、その基本的枠組みに変わりはないといってよいだろう。



祭祀組織と準備

  現在の祭祀組織はおおまかに3つのグループに分けられる。ひとつは宮司をはじめとする「神職」のグループであるが、祭祀の運営指導及びその決定はこのグループを欠いて行うことはできない。もうひとつは氏子集団であるが、都市化の進んでいる当地域においては全ての住民が氏子になっているわけではない。三ノ宮・栗原・神戸の各地区の氏子から総代を2名(ただし三ノ宮地区の飛び地である木津根橋からもこれとは別に1名選ぶ)、大総代を1名選ぶ。これらの神社役員は任期が2年で、大祭を初めとして年40回ほどに及ぶ行事とその準備に参加し、実際の行事の実務運営を担当する。第3のグループは「青年会」であり、各地区から正副会長が選ばれ、大祭の神輿渡御等の重要な役割を果たす。これらのグループの他に総代の経験者を中心に結成された「榊会」があり、主に国府祭に参加している。
  比々多神社の行事の年度初めは4月1日であるが、この日に選出された氏子総代ら神社役員と宮司は比々多神社社務所において会合を開き、年間の神社行事の打ち合わせを行うと共に例大祭の運営業務の担当を各区に割り当てる。なお、神社行事は各地区の一年交代の輪番制で責任当番の役を担当することになっている。例大祭に伴う業務は大まかに(1)駐車場・案内標示・餅捲きといった祭典の準備と、(2)祭典における各行事の統括に分けられる。前者は比々多少学校や比々多農協に一般駐車場を設置するのに伴う案内標示板作成および、参列者用の神社駐車場の案内標示板の作成がある。餅搗きと杖つくりは4月20日の午前7時から行うことになっており、杖は竹を1m程に切って先端に和紙を巻き付けたものである。これを50本作り、国府祭においても使われる。
  一方、後者の祭典統括には天幕設営や露天商ととの折衝、ちまき行事担当、神楽殿担当、受付、行列担当、道路使用関係担当、山車担当、猿田彦担当、弁当担当などがある。このうち主なものについて述べることにする。露天商との折衝は境内内外に非常に多くの露店が出されるために必要なもので、設置場所の許容範囲を決める。ちまき行事担当者はちまきの受け渡し方法の確認と前日のリハーサルを担当する。神楽殿担当は設営と神楽社中の接待で、当番区が行う。受付けは参列者を受付け、神社から出された奉納帳への記載を行い、責任者は大総代2名が担当する。行列責任者は行列の割り振りと運行を担当し、大総代と区長が当たる。道路使用関係担当は供奉行列が一般道を通るため、その許可申請を担当する。行列の人数・種類や山車の形状、通行系路、時間について例大祭までに伊勢原警察署と折衝を行い、大総代が担当する。山車は各地区の所有となっているため、各区長が担当する。以下に例大祭の時間表を記す。

例大祭時間表(平成19年)
行事時間備考
4月21日
動座祭19:00
4月22日
例祭式10:00
三ノ宮青年宮詰12:50
栗原青年宮詰12:55
神戸青年宮詰13:00
行列出立13:10
神輿御立13:15
神戸渡し・振奉幣14:00柳川氏宅前
行在所着・御着の式14:25鍛代工務店
御立の式15:00
神輿御立15:20
三ノ宮渡し16:00柳川氏宅前
神社着17:05鳥居
17:10拝殿
鎮座際
ちまき行事

  以上のような役割分担が決められたあと本格的な準備は4月20日から行われ、この日は餅搗きや杖つくりのほかに注連縄張り、標示板づくり、天幕張りなどが昼から行われる。
  21日には幟立てや神輿洗い、行列用の飾り物の準備、俵の渡し方のリハーサルなどが行われる。幟立ては朝8時半から栗原・神戸・三ノ宮の3ヶ所で各区氏子総出で行われ、三ノ宮は比々多神社境内入口寄りの参道脇に「三の宮比々多神社」と墨書きされた幟を立て、栗原は神社から見て境内の池裏側に日の丸を、神戸は行在所と比々多小学校の間に日の丸を立てる。すべての準備は17時までに終了させ、関係者は一旦解散する。



動座祭

  「動座祭」とは神輿渡御に伴い比々多神社の神体を移す次第である。4月21日の18時30分に解散していた神社役員は再び社務所に正装で参集し、19時に社務所前に整列する。総代が打ち鳴らす宮鐘を合図に行列となって出発し、鳥居を通って拝殿へ向かい、拝殿で整列し神事を執行した後に宮司より白い幌に隠された神体が神輿へと移される。



例祭式と宮詰め

  4月22日の10時から例大祭の式典が行われ、参道脇の祓所で修祓の後に拝殿において執行される。次第は一拝、開扉、献饌、奉幣、祝詞奏上、献幣使祭詞奏上、浦安の舞、玉串奉典、撤饌、閉扉、一拝という内容で、浦安の舞は伊勢山皇大神宮の巫女の奉仕による。
  午後になると神楽殿において里神楽の奉納が始まり、これは厚木市の相模里神楽垣沢社中によるもので、主な演目は国譲りや天磐戸開きであるが、奉納三番叟以外は毎年同じものにならないように気を付けているとのことである。神楽殿正面には奉納を記した半紙が貼り出されるが、平成2年(1990年)の場合20数件ほどであった。正午頃になると境内に各地区の山車が入ってきて、太鼓囃子を打ち鳴らし始める。
  昼過ぎになると社務所から各地区の総代が青年を各詰所まで迎えに出る。青年たちは清め火と呼ばれる焚火を跳び越えてから神社へ向かい、この火には潔斎の意味があるという。12時50分に三ノ宮の青年が神社に到着し、鳥居から駆け出し拝殿まで一旦上がってから降りて参道両脇に並ぶ。同様のことを栗原の青年会が12時55分に、神戸の青年会が13時に行い、これを「宮詰め」と呼んでいる。
  この後は、供奉行列の巡行が行われる。

供奉(ぐぶ)行列

  三ノ宮と栗原の青年が神輿を拝殿から降ろすが、このとき三ノ宮と栗原の青年は地区が別だからということで前後に分かれ背中合わせになる。このあと参道に行列が次のように整列する。

@高張提灯・・・比々多神社という墨書と陽紋・陰紋の三ツ巴が付けられたもので、各区の氏子が持つ。行列に加わる氏子は襟に三宮比々多神社と染め付けられた白い半天を着用する。
A錦旗・・・錦地に金地の菊紋と比々多神社の文字が縫い付けられた旗を、先端に榊葉の付けた竹に結んだもので氏子が持つ。
B猿田彦・・・赤ら顔に白髭の生えた鼻高面で鳥兜を被り、錦地の水干着用し高下駄を履き、右手には榊の付いた槍を持つ。
C大旗・・白地に赤の三ツ巴で、氏子が持つ。
D五色付御剣・五色付曲玉・・・剣と曲玉それぞれに五色の布と榊を付けたもので、氏子が持つ。
E大榊・・・氏子4人で担ぐ。この榊を手に入れると無病息災・五穀豊穣になるといって、家の前を通るときなどに盛んに取る見物客がいるので、神社へ帰るまでに随分枝ぶりが寂しくなってしまう。ただし行在所へ向かうお下りのときはあまりよくなく、神社へ帰るお上りのほうがよいという。榊は床の間等に供えておく。
F辛櫃・・・長持ちである。本来は幣帛・神饌を入れるべきものであるが、中身は空である。氏子2人で持つ。
G大鉾・・・鉾に錦旗が付いたもので、氏子4人で持つ。
H御幣持ち・・・衣冠の神官が御幣を左肩に担ぐ。
I大麻・・・衣冠の神官が大麻を持つ。
J社名旗・・・白地に三宮冠大明神と墨書きされた旗を氏子が持つ。
K太刀・・・衣冠の神官が持つ。
L祭主・・・宮司である。
M傘掛・・・白丁姿の者(氏子)が祭主に赤い日傘を差す。
N金棒(鉄棒)・・・所謂錫杖で、これは神輿が人や壁などに突き当たりそうになるとこの棒で地面を叩きつけて鳴らし、神輿を方向転換させる役割がある。新入会の青年が各地区から2名ずつ出し、赤い片だすきを掛け背中に花笠を付け、氏子中安全・天下泰平と墨書された紙を垂らす。
O神輿・・・祭半天姿の青年らが担ぎ、前後には警固として竹杖を持った総代や区長らが正装でつく。
P山車・・・並ぶ順番は輪番となっている。

  以上が行列の概要であるが、かつては鞍の上に幣束を立てた御神馬も加わっていた。
  13時10分になると行列が出発し、神輿は境内でしばらく練ってから13時15分頃に御立する。行列は鳥居を出ると右折して忠魂碑前を通って化粧塚へ向かい、神輿はこの途中に大型トラックへ載せられる。化粧塚は2m程の高さの塚で、2m四方ほどに竹を立てて注連縄を張り、行列はこの塚を通り抜けていくが、このとき高張提灯は両側に立って待ち行列を迎える。昔は神輿を一旦化粧塚の上に置くことになっていた。化粧塚は国府祭においても行列が通行する場所であるが、かつてはここで神官が衣冠束帯を旅装に、帰還においては旅装を正装にかえたという。延享2年(1745年)の日付を持つ比々多神社所蔵の『三之宮明神祭礼掟之事』には「一、惣役人警固御供之面ゝ弐行二並立、尤自勝寺勘兵衛殿祢き方迄茂化粧塚迄ハ大社着同前ニ可仕候、尤神輿化粧塚迄ハねりニ可仕候事、」とある。一方、『風土記稿』神戸村の項では化粧塚に「高さ七尺許、三の宮村三宮明神祭禮の時、神輿を此上に居、修飾を加ふ、」と割註を入れ、神輿を化粧することに名称の由来を求めている。なお、かつては神輿が化粧塚に着くと神戸からお迎え神輿を化粧塚まで出し、この先導で神輿は行在所へ向かうことになっていた。
  化粧塚を過ぎると神輿は行列の後を畑に挟まれた道を練りながら進み、高速道路高架を越えて神戸の注連が張られている柳川氏宅前までたどり着くと、道路に台を出して神輿を置く。この後、三ノ宮・栗原の青年の代表・総代が神戸の青年が控えている神戸公民館まで引き継ぎの挨拶に向かい、両者挨拶をして酒を酌み交わした後に神戸の青年達は「めでた、めでたの若松様よー」と歌い、太鼓を打ち鳴らす。
  14時になると神輿の前まで神戸の青年達が出て、神輿を挟んで三ノ宮・栗原の青年と向かい合う。まず、三ノ宮・栗原の青年が神輿に一礼し、鉢巻を頭上に突き上げて歓声を上げ、続いて神戸の青年が同様のことを行い神輿を担ぎ始める。担ぎ手はこれまでと異なり正面に向かって同一方向を向くが、これは一地区だけで担ぐからであるという。以上で三ノ宮・栗原から神戸への神輿の引き渡しが終了し、これを「神戸渡し」と呼んでいる。神輿は再び盛んに練りながら国道246号線手前の比々多派出所まで行くと、そこから行在所のある鍛代工務店まで戻り、14時25分頃に行在所へ到着すると神輿を安置して一礼し歓声を上げる。行在所が鍛代工務店に移されたのは国道の通行量が増えてからで、昭和38年(1963年)以前の行列は国道246号線を西に曲がり、行在所も国道沿いの藤屋に置かれていた。また、以前はここでの下りは21日の宵宮に行われており、神輿は行在所で一晩を過ごすことになっていた。神輿が安置されると行在所では宮司・総代ら関係者により大祓・献具・祝詞奏上・玉串奉典・一拝の「御着の式」が行われ、その後しばらくの間行列参加者は行在所及びその周辺宅で休息する。
  15時になると「御立の式」が行われ、総代が再び青年詰所公民館まで迎えに行く。酒が出され、行在所での神事が滞りなく終わったことを告げる。挨拶が終わると太鼓が打ち鳴らされ、青年たちは互いに押し合いながら神輿を迎えに行き、先ほどと同様に一礼して歓声を上げた後神輿を担ぎ始める。整列していた行列は15時20分に出発し、16時に再び柳川氏宅前で神輿の引渡しが神戸渡しが行われ、これを「三ノ宮渡し」と呼んでいる。行列は化粧塚を下りのときと同様に通って神社へ向かう。17時5分頃に行列は鳥居を潜り神社に帰着して列を解くが、神輿はなおも境内で練る。17時10分頃になると宮鐘が鳴り拝殿の大太鼓が打たれると、神輿を担いだ青年はそのまま拝殿へ駆け上がり神輿を安置する。青年は拝殿下へ降りると一礼し、鉢巻をつきあげて歓声を上げる。この後は、鎮座祭が行われる。



鎮座祭

  17時10分頃から「鎮座祭」が行われ、拝殿に大総代・総代等が着座し、奥に宮司をはじめとする神官が着座する。このとき青年は参道両脇に社殿から順に三ノ宮・栗原・神戸の順で並び、また金棒は拝殿階段下に3人ずつ両脇に並び、3本の金棒を一点で交差させるようにしておく。鎮座祭は神輿に移してあった神体を再び社殿の中へ戻す次第であり、動座祭と同様に宮司の手により神体を白い幌に隠しながら行われる。



ちまき行事

  鎮座祭が終了すると「ちまき行事」に移る。ちまきが入った俵が総代から青年に手渡され、なかのしときを四方へ投げるという内容である。俵は長さ約60cm、直径30cmほどの大きさのものが3個用意され、神戸・栗原・三ノ宮の順で手渡される。拝殿において神官から総代へ、総代から更に総代へと頭上でささげ渡された俵は、まずはじめに三地区の一番後方にいた神戸の青年会長に拝殿階段の最下段において渡される。青年会長はこれを頭上でささげ持ったまま両側に青年の居並ぶ参道を通って元の位置に戻る。次に栗原の青年会長が同じように受け取るが、階段の位置が中段に上がっている。最後に三ノ宮の青年会長が受け取るが階段の位置は上段に上がり、俵には御幣が差してある。
  三ノ宮の青年会長が元の位置に戻り3人がささげ持って並ぶと、それぞれの青年が俵のもとへ集まり俵を胴上げのようにして投げ上げ始める。俵が壊れ始めると頃合いを見計らってしときを取り出して四方八方へと投げ始めると、観客は競ってしときを拾いあう。このしときを食べると無病息災でいられるという。すべてのしときを投げ尽してしまうと、それぞれの青年会長の胴上げが行われる。神社ではこの行事を白鳳4年(653年)以来の神明鎮座を祝う行事だとしている。以前は例大祭が終わると青年会の最年長のものが抜ける習わしであったという。
  胴上げが終わる頃には鎮座祭のときから途絶えていた山車の太鼓が再び打ち鳴らされてる。三ノ宮の青年は拝殿下で一礼し神輿を降ろして再び境内で練るが、しばらくすると拝殿寄りの幟の側に置き一礼して完成を上げる。拝殿では宮司・神官・総代ら神社役員と正副青年会長が着座して神事が執行される。全てが終了し17時40分頃に終了の挨拶が行われると太鼓が打ち出され、ほぼ同時に神楽殿で神楽が始められる。
  現在のちまき行事で使う餅は普通に餅米を搗いたものであるが、以前はうるちの粉を蒸かして搗いたもので、これを飴棒のようにしてから指先でちぎり片手で握って作ったものであった。しときは杉の小枝を内側にまわした俵の中に入れる。この作業は当番地区の総代が行うことになっているが、総代の任期が短いこともあって要領を得ないため宮司の家人が手伝っている。



取材

栗原・・・平成30年(2018年)4月21日、22日



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