白根しらね

神社の紹介

  白根は明治初年まで三ノ宮、栗原、神戸とともに比々多神社の氏子であり、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると村持の神社として「神明宮」・「辻宮明神」・「箱根権現」・「八王子権現」・「稲荷社(2社)」・「立石権現」があった。寺院には三之宮村臨済宗能満寺末の「貞晃寺」があり、もとは「宗源寺」と号していたが、元禄13年(1700年)に地頭小笠原貞晃(さだあき)が修理料を寄進して寺号を「貞晃寺(じょうこうじ)」と改称したものである。この他には村持の「大日堂」があった。
  明治5年(1872年)に比々多神社の祭祀から離脱し、翌明治6年(1873年)に村内にあった祠を改修して現在の「神明社」を鎮守とした。祭神は「天照大神」で、末社は「金比羅様(木造)」・「天王社(石造)」・「水神(石造)」・「地神(石造)」・「山神(石造)」・「辻の宮明神(石造)」・「稲荷社(石造)」・「箱根権現(石造)」・「八王子権現(石造)」・「神武天皇(石造)」である。
  神明社(神明宮)は以前から古墳の上に建てられていると言われていたが、昭和62年(1987年)11月に本殿改築のため古い建物を取り払って整地を行った際に、大きな石がいくつか出現したため言い伝えの通り古墳があったのではないかと想像される。

神明社昭和61年建の鳥居
社殿神楽殿


白根の歴史

  白根村は糟屋庄、白根郷に属し、当地はその本郷であったという。暦応(1338〜1341年)の頃、鎌倉・浄光明寺文書に「白根郷」と見える。北条早雲(1432又は1456〜1519年)が子安・西富岡と同様に当地を箱根権現に寄進し、幼息菊寿丸(玄庵)の知行としたため、その後も後北条氏縁の者や家臣が知行した。当村に箱根権現社が勧請されているのはこの所以といわれる。
  『風土記稿』は当地と後北条氏直の臣遠山新次郎直吉の実績に筆を割いており、天正18年(1590年)の小田原城落成の後に氏直が高野山に赴くとき、遠山直吉がこれに随従したいと徳川家康に言上した。家康は自身の家臣になるように勧めたが、北条氏譜代の臣であり随従すべき身であると断ったところ、帰山の後に仕えるように命じて妻子を白根郷に置くことを許した。その妻子を当地に安居させることを証した本多正純の添状があったと紹介している。
  当地ははじめ直轄領であったが、寛永10年(1633年)に小笠原貞信と蒔田定正の所領となり、蒔田領は同18年(1641年)に蒔田定則に分知された。小笠原領は延享元年(1744年)に幕領に支配替えがあったが、寛政元年(1789年)に再び小笠原氏に復した。検地は慶長8年(1603年)である。延享元年(1744年)の「白根村・神戸村明細帳」では白根村の反別は、田二四町四反余、畑一八町二畝余であるので、やや田方の多い村柄であったと考えられる。また、同帳に当村の肥やしは大磯で干鰯(ほしか)等、栗原・三之宮村等の近隣から草肥を買い求めているとある。
  当村に淘綾(ゆるぎ)郡国府(大磯村)の六所明神祭礼に神事を勤める、江戸浅草田村八太夫配下の神事舞太夫渡辺佐兵衛(しんじまいたゆうわたなべさへ)と同金兵衛(きんべえ)の2人が居住していた。六所明神祭礼は三之宮明神の神輿などが参集する古式祭儀で、この時の神事芸に神事舞太夫が係わっていた。この2人は六所明神の社領のうちを配当され、神事の神賑わいに神事舞を奉ずる職分にあった。伊勢原市域には沼目村と上糟屋村にも神事舞太夫の居住が見える。神事舞太夫は祭礼の宮々で舞音曲(まいおんぎょく)を行う外に、月待(つきまち)・日待(ひまち)に幣帛を切ったり、符守の配布や祈祷、大黒天像の配札などを行い、その妻は梓神子(あずさみこ)と称し口寄せや祈祷を行う者が多かった。
  かつての白根村中央には幅2間の矢倉沢往還が村の西北を貫通しており、村の西北にも幅9尺の八王子道が通っていた。小名は「谷戸」・「神明前」があり、『風土記稿』には高札場が1ヶ所とある。子易村に他村と入会で秣場を持ち、農間稼業(江戸中期)は縄ない・莚織・木綿機織などであった。
  明治の初頭まで三ノ宮比々多神社の神輿の出御や還御作法は白根の氏子が勤めており、比々多神社覆殿周囲の玉垣には白根氏子22名の寄進表柱が残されている。白根村が比々多神社の氏子村から離脱した経緯については、確たる資料がないためその原因は不明であるが、古老より聞き取りした二つの伝承がある。その一つは、明治5年(1872年)5月5日の前夜に氏子村の若者連が「三之宮」と書かれてある高張提灯を先頭にして社頭に参集する慣しであるところ、白根村の若者組のみが「白根村若者連中」と書いた提灯を持って来たので、口論の末喧嘩になったという。
  その二つは、比々多神社の神輿を収納してある御蔵の鍵は従来白根村が保管してあったところ、三ノ宮村がその鍵を預かりたいと引渡しを要求して、喧嘩して物別れになったという。その頃、三ノ宮と神戸の境には三角のまきが喧嘩の準備としていけてあったという。
  かつて中央公園のところに「大日堂」という大日如来を本尊とするお堂があり、会場(会所)と呼んで集会の場に使っていたが、狭く古い建物のために壊されることになった。部落(時の区長越地寿)は近藤蔦次郎氏より一反歩八百五十円の割で六百二十四円にて買い受け、昭和11年(1936年)に公民館を新築することにし、部落ではその土地代金全額を当時あった報徳社より借り入れた。そしてその代金返済のため部落は5年間に渡り祭典の余興を中止し、経費の節約をして年百円の積み立てを申し合わせた。買った敷地は部落名義で登記が出来ないため神社名義にて登記した。
  昭和12年(1937年)に養蚕組合の稚蚕室(蚕が小さい時に共同飼育に使用する場所)として補助金にて公民館を新築し、その後昭和48〜49年(1973〜1974年)に大改築をしている。報徳社は昭和16年(1941年)に戦争などのために活動を止め、昭和49年(1974年)に所有していた株を処分して解散したこともあり、部落が報徳社に土地代金を返済したかどうかは記録がない。

太鼓

  白根には太鼓がなかったが、平成20年(2008年)に太鼓一カラが寄付され、同年の納涼大会にて初披露された。初めての練習は同年7月19日で、小中学生を集め自治会館にて行われた。また、トラックに載せる屋台も同年に新調した。

白根の屋台町内を巡行


神輿

  樽神輿が平成19年(2007年)に寄付され、同年の納涼大会にて初披露された。

樽神輿自治会館を出発
町内を渡御無事宮付け


例大祭

  例祭日は大正2年(1913年)の『比々多村史』によると9月20日であったが、現在は4月2日である。かつては氏子が集まる一年中で最も盛大な行事であった。この時に限り本殿奥の院の扉を開き祭りを報告し、国家安泰、氏子繁栄を祈願する。神様をお慰めするために神楽を奉納し、家庭内では御馳走を作り親戚が大勢集まり談合した。しかし、年代の経緯と共に氏子達の慰安に変わり、近年は食生活や娯楽の多様化に伴い祭典は神事のみで余興は行われていない。
  祭典の余興については明治23年(1890年)10月9日に御遷宮にて歌舞伎芝居奉納という記録がある。毎年の余興は区域内の氏子から祭典費(昭和5,6年頃は1戸1円より5円位まで)を徴収し、その内余興費(神楽:15円位、芝居:30円位)として青年会に渡した。ちなみに、御遷宮とは20年に1回社をを建て替える行事であり、年代により宮以外の付属である鳥居やその他の建物で済ませたときもあるというが、近年は節目には行われていない。
  現在は例大祭に神輿や太鼓の巡行は行われないが、その代わりに7月の第4土曜日に行われる「納涼大会」にて、子供の樽神輿と太鼓が町内を巡行する。納涼大会での巡行は15時に自治会館を出発し、18時頃に宮入りする。また、宮入り後は神楽殿にて歌や踊りが披露され、境内中央に設置された櫓を囲み盆踊りも行われる。21時になると恒例の大抽選会が行われ、豪華商品を求め多くの氏子が境内に溢れる。



青年会

  かつて存在した青年会は、小学校を卒業した年から25歳位の若衆で組織されていた。毎年の余興については神社総代と話し合って決め、神楽・芝居共に地方の親方に申し込みそれぞれの道具を車で運んだ。氏子は祭りの前日より旗幟立てや舞台掛けなど祭りの準備をした。ちなみに、旧公民館の鴨居上にあった彫り物は当時の幟枠正面に飾ったものである。
  若衆は当日になると芸人および青年会の食事(赤飯むすび、煮物)を氏子から集め、また灯籠に紙を張り長い参道の脇に立て、前の晩から拝殿に泊まり夜番もした。このように、昔の祭りは娯楽の無い時期で唯一社交の場でも、修練の機会でもあった。



白根国府説

  相模の国府(国司が相模の国の行政を行った場所)は最初国分寺が造られた海老名市に置かれたが、その後元慶2年(878年)9月29日の大地震で建物が倒壊したため当時の大住郡に移されたとう説がある。地震後約50年の『倭名抄』には「相模国府大住郡にあり」と明記されているが、大住郡のどこかは未だにはっきりしていない。「三ノ宮」・「八幡台」・「平塚市」など諸説が郷土史家によって発表されたが、故川口清氏は国府が白根に置かれたと主張した。その論拠は次のような点である。
  @足柄峠から東方への重要な交通路に沿っている。
  A白根の小字「執柄戸」というのは政治を統った所という意味がある。
  B登り道、辻の宮明神の社などは国府の市街のあった事を想像させる。
  C神明社は国府にとって重要だった「印」・「鍵」を納めた印鑰神社の跡ではないか
  その後、1150年に平安時代が終わり鎌倉時代の始まろうとする頃、箱根を越えた海沿いの道が主要交通路になって国府は大磯町国府本郷に移ったものと思われる。


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