鶴巻つるまき中部・下部

神社の紹介

  落幡神社の祭神は「大己貴命(おおなむちのみこと)」で、相殿の「吾妻社」には「橘姫命(おとたちばなひめのみこと)」を祀る。境内社は「護国社(祭神:大宣都姫命)」と「多賀社(伊邪那岐命)」がある。
  元本社明神と称し当郷創草以来当村の産土神として厚く氏子村民の崇拝を受け来る。また、当初の地頭は年々初穂米を献じ武運長久を祈ったと伝えられ、社殿を修復する度に宮繕の費として分米を納めた。明治4年に境内上地、明治9年に落幡神社と改称し、明治44年には相殿配祀の神社を合祀した。大正の大地震によって社殿が倒壊したが、氏子一同が協力して社殿を再建して現在に至る。

社号石鳥居
手水舎神楽殿
拝殿覆殿
 石碑
石碑境内


地神社

  秦野市鶴巻南4-1534
  地神社(じじんじゃ)の祭神は「埴安姫命」である。古来農耕の守護神として太古より祀ってきた神社であるが、古来社殿はなく、大榎を神木、即ち神籬として祭祀を執行してきた。前に石の碑を立て神明を刻す。是を通称祠と唱え風土記稿にも祠の傍らに榎の老樹ありと記されている。祠は寛政4年(1792年)の再建である。
  鶴巻の落幡にあるケヤキは「鶴巻の大ケヤキ」と呼ばれ、昭和28年に神奈川県の天然記念物に指定された。指定当時の根回りは12.5m、目通り幹囲10m、樹高30mの巨木であった。別名「大エノキ」とも呼ばれ、豊作と生活を祈り大切に護られてきた。



例大祭

  4月9日

太鼓

●中部
  鶴巻の中部に伝わる祭り囃子は「鶴巻中部太鼓保存会」によって伝承され、戦前から受け継がれている。
  囃子は「大太鼓1」・「締太鼓2」で構成され、曲目は「バカッパヤシ」がある。落幡神社の春祭りではトラックに太鼓をのせて「鶴巻」・「第1」・「第2」・「中部」の町内を巡行する。

●下部
  鶴巻の下部に伝わる祭ばやしは「鶴巻下部太鼓保存会」によって伝承され、明治の頃から行われているという。
  囃子は「大太鼓1」・「締太鼓4」で構成され、「宮聖天」・「ハヤ」がある。落幡神社の春祭りでは山車(トラック)で地区内を巡行する。

神輿

  



落幡の歴史

  鶴巻地区はもと落幡村であり、天保5年(1834年)の戸数は119である。昭和30年(1955年)に大根村を秦野市に合併した際に鶴巻と改称したが、鶴巻という小字地名は貞享の頃には既に存在していた。落幡村内の地名を古文書で見ていくと、慶長8年(1603年)の「検地帳」には見られないが、貞享頃(1685年頃)には「つるまき田」、元禄頃(1700年頃)には「鶴巻田」、享保頃(1720年)には「鶴巻」の地名が記載されている。落幡の地名伝説については次のようなものがあげられる。

@善波太郎重氏が善波山の頂上から強弓を放ち、空中に舞い上がった白旗を射落としたが、旗の落ちた所が落幡であった。
A善波太郎が幡曼陀羅(マンダラ)を強弓で射落とそうとしたが、場所が悪くて弓が引けなかった。そこで場所を替えて射落としたので、旗の落ちた所が落幡、弓の弦を巻いた所が鶴巻、弓を引かなかった所が弓不引という地名になった。
B鶴巻は昔は落幡といったが、それ以前は米がよく取れることから「稲取りの里」といった。善波太郎の射落とした旗がひらひらと遠くに舞い落ちるのを取りに追ったので、それ以後稲取りの里が追旗の里となり、追旗がいつの頃か落幡になった。


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