日向ひなた

白髯神社

  日向の鎮守である「白髯神社」はかつて「熊野白髭神社」の合社で、日向の中心的神社であり旧社格は村社であった。「白髭社」には延奇(?)2年12月吉日、「熊野社」には同2年3月吉日造成と彫られてある。御神体は「白髯明神」と呼ばれる神で、長いあごひげをたくわえ異国の冠をつけた木造の姿で祀られている。
  天智天皇7年(668年)に朝鮮半島北部にあった高句麗は唐に滅ぼされ、「高麗王若光(こまおうじゃっこう)」に率いられた一団は海路日本へ亡命し、大磯の浜に上陸すると「もろこしが原(現在大磯町と平塚市にこの名が残っている)」に居住した。当時、高句麗人は高い文化を持っていたので、このあたりには早くから高度な大陸文化が開くこととなった。この高麗王若光こそが白髯明神であり、白髯明神とは若光が美しい白髯の持ち主であったことからつけられた呼び名と伝えられている。また、日向薬師の開創にあたって行基(ぎょうき)が日向山に登り薬師を彫刻するとき、行基に霊木を与えたのもこの白髯明神であるといわれる。天正19年(1591年)朱印社領四石を与えられる。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると日向村は中世まで村内全て日向薬師領であり、村鎮守の「熊野白髭合社」はともに木像の神体を祀り、日向薬師を本地仏としていた。このほかの神社には慶長6年(1601年)勧請の「飯綱社」と、寛文年中(1661〜72年)勧請の「諏訪社」があった。寺院には天台宗上野東叡山(寛永寺)凌雲院末の「浄発願寺」があり、同寺は弾誓を開山とした常念仏道場として知られた。浄発願寺は弾誓が修行したという岩窟があり、塔頭に当寺中興の但唱が居した庵があった。天正19年に朱印五石を賜った曹洞宗足柄上郡塚原村長泉寺末の「石雲寺」と石雲寺末の曹洞宗「洞向寺」があり、石雲寺の大門近くにある「御所の塔」という石造の五重塔については、『風土記稿』は貴人の墳墓かとし壬申の乱に敗れた大友皇子の墓かとも記している。この他には臨済宗愛甲郡小野村聞修寺末の「観音寺」、天台宗の「常照庵」、古義真言宗の「霊山寺」があり、霊山寺の薬師堂は日向薬師として知られる。
  鳥居のそばに松の古木があるが、この松に藤づるなどで火の玉をつるし、それをぐるぐる廻し火の粉を四散させ、村人は争って火の粉をあびたという。台風よけの火祭風祭であったと伝えられている。

白髯神社鳥居
水鉢燈籠
拝殿覆殿
狛犬神楽殿
境内


例大祭

  『風土記稿』によると熊野白髭合社の例祭日は旧暦の8月4日であり、

太鼓

  



日向の歴史

  当地は市域の北端に位置し、大山の東を源流とする日向川沿いに社寺及び集落を形成していた。日向村は日向庄、日向郷に属し、『和名類聚鈔』の日田郷に比定される。村名は行基菩薩が薬師如来を彫像安置して一宇を構え、日向山霊山寺と号しそれに因むという。また、比々多郷の郷名からの転化などの諸説がある。『皇国地誌』の同村の地目反別は、田二六町一反余、畑八三町四反余・秣場一二二町七反余などとあり、西富岡村に飛地が4ヶ所あった。
  古くから全村が日向薬師堂領であったといい、後北条氏の頃も同寺領であったという。徳川家康は天正19年(1591年)に薬師堂領に朱印60石を寄進し、残余は直轄領となった。その後、寛永11年(1634年)に幕領の一部は小林正玄の知行となったが、承応元年(1652年)にその一部が正玄の弟正平に分知された。さらに元禄10年(1697年)に残余の幕領は中条氏・船橋氏・曾谷氏に分給され、以降幕末まで薬師堂領と旗本四給が続いた。検地は寛文4年(1664年)に成瀬五左衛門重治、同9年(1669年)に成瀬八左衛門などが施行した。寄場組合は伊勢原村外二四ヶ村のうちに組み込まれた。
  大山山塊の中腹にあたるため山が険しく山林が多い土地で、山名のあるものは尾高・梅ヶ尾・カミハナ(カナハミ)・三之沢・鍵取(鍵掛)・屏風沢・大沢・サム沢・不動滝など9つの山があった。日向薬師の裏山より尾根伝いに大山を経て丹沢―青根に至る道があり、修験の峯入コースであった。玉川は村内の用水・飲料水を摂取して愛甲郡へ東流、六橋の土橋が架かっていた。渋田川は幅六尺で村内の南方を流れていた。
  往還はニ条で、一条は薬師堂道といい、薬師堂への道と大山に通じる道に分岐し、大山への道は九十九曲、日向越道と呼称されていた。もう一条は幅九尺の津久井道で、日向越に峠があり、字新道と唱えていた。また、オトラ坂、一ノ木戸坂と呼ぶ坂があった。小名には「坊中(ぼうじゅう)」・「高橋(たかはし)」・「藤野(ふじの)」・「落合(おちあい)」・「実蒔原(さねまきばら)」・「馬場(ばんば)」・「渋田(しぶた)」・「新田(しんでん)」があり、高札場は4ヶ所であった。小名の実蒔原は山内上杉家の上杉顕正(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正の、長享の乱の合戦場と伝承され、西富岡村に跨っていた。



日向薬師

  「日向薬師(ひなたやくし)」は本尊を薬師三尊とする仏教寺院で、現在の宗派は高野山真言宗である。日向薬師はかつて日向山「霊山寺(りょうぜんじ)」と号した薬師堂で、霊亀2年(716年)に行基が開創したとの縁起がある。広大な境内と領地を有し日向山中に八ヶ坊があったほか、『風土記稿』では諸堂が見え、承仕・候人も居住し、什宝類も多数残されていて古刹の寺観が窺える。しかし、廃仏毀釈により多くの堂舎が失われ、現在は霊山寺の別当坊であった古義真言宗高野山無量寿院末の「宝城坊(ほうじょうぼう)」が寺籍を継いでる。毀釈以前の寺号は霊山寺、以後は宝城坊と称するが、中世以来薬師如来の霊場として信仰を集めていることから日向薬師の名で知られている。
  古来は多くの参詣者があり、眼病を患った平安中期の女流歌人相模もここに参籠したといわれ、「さして来し日向の山を頼む身は目も明らかに見えざらめやは」の歌が残されている(相模集)。鎌倉時代なると将軍家の信仰を得、『吾妻鏡』の建久3年(1192年)8月9日の条には政子の実朝出産に際し、神馬を奉納して安産祈願の誦経を依頼した相模国の社寺の中に「霊山寺 日向」の名がみえる。また、建久5年(1194年)8月8日の条には源頼朝が娘の病気回復を願って多数の錚々たる家来を随えて、ここへ参詣したことが記されている(このためか高部屋地区には頼朝伝説が多い)。この他にも、京都聖護院門跡道興はその著『廻国雑記』の中に、文明18年(1486年)冬の日向薬師参詣のことを記している。
  このように日向は中央にもよく知られた地であり、同時に早くから修験の霊場としても栄えた。聖護院門跡の参籠はそのためであろうか、多くの修験者が出入りしたのである。この傾向は近世においても同じで、多くの一般参詣者をも集めていた。



日向薬師の大太鼓

  日向薬師の宝城坊本堂にある大太鼓は神奈川県の重要文化財に指定され、胴の内部には天文9年(1540年)に革の張り替えをしたことが記されている。現在は革が張られておらずその音を聞くことはできないが、この大太鼓には次のような伝説が残されている。
  『むかしむかし、坪之内村と善波村の境には大きな楠があった。あまりにもおおきくそびえ立ち、村中の陽が陰ってしまうので、村人は困ったあげくこの楠を切り倒してしまった。近くの笠窪村ではこの楠で作った一枚板を橋の変りに使い、現在でも笠窪には魚板橋という地名が残っている。日向薬師の大太鼓の胴もこの楠で作ったといわれ、源頼朝が富士の巻き狩りに使っていた。この大太鼓は娘の大病が治るように祈って、頼朝が薬師さんに奉納したそうである。
  ところが困ったことに、日向山で薬師さんのお祭りにこの大太鼓を叩くと、その音は山鳴りのように麓の村々を越えて平塚の須賀の海辺まで響き渡り、魚がすっかり寄りつかなくなってしまった。困った須賀の漁師たちはみんなで薬師へ押しかけ、大太鼓の皮を破ってしまった。それからこの大太鼓には再び革を張らなくなったという。』


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