出縄いでなわ

神社の紹介

  「粟津神社」は出縄の鎮守で、下久保の集落を見下ろす丘陵上に鎮座している。古来、出縄の地は山下と坂間の集落を結ぶ交通の要所であったらしく、鎌倉時代には手縄(出縄)の砦が築かれたという。そして城主矢野氏が砦の鎮護のため、「淡洲大明神」を勧請したと伝えられている。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると出縄村の鎮守をは「粟津明神社(祭神詳ならず)」としており、甲冑具足の像を神体としていた。末社としては「三島」があった。また、同村には「稲荷」を合祀した「子神社」と、「?天社」があった。
  粟津神社の「粟津」はかつて「粟須」であったとも伝えられていることから、「淡洲」→「粟須」→「粟津」と社名が変遷したものと思われる。現在、最新は「日本武尊」とされている。

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粟津神社鳥居
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鐘楼狛犬
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拝殿覆殿
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 水鉢

  出縄は「下久保(シモクボ)」・「上久保(カミクボ)」・「根岸(ネギシ)クボ」・「額田(ヌカタ)クボ」の4つの「クボ」から構成される。出縄で最も早く人が住み着いたのは下久保だといわれ、次が上久保または根岸クボで、額クボは最も新しいという。



ヨミヤ

  14日が大祭であった頃は祭りの準備が前日の13日に行われ、幟立てをし、祭りの余興として催される芝居のために舞台が作られ、部落中からその材料(縄・板・丸太・梯・ヨシズ・小道具)が集められた。祭りの前日1日だけでこの舞台は作り上げられ、祭りの翌日の午前中には片付けられたという。役者は平塚市内の本宿や茅ヶ崎の円蔵あたりから呼んできたという。役者の手配、食事や風呂の世話なども含めて、祭りの準備・執行は青年団(青年会)が中心に行った。
  この日に宮当番が祭典費を各家から徴収した。また、役員(世話人)は自宅で餅をついて例大祭の供物となる鏡餅を作ったという。お供え餅は「三飾り」といって、粟津神社とその右手に祀っている「三峰権現」、左手の「三島明神」の3ヶ所に供えた。
  かつては青年会が「オコモリ」と称してヨミヤの番をし、昭和の初め頃にはお灯明料として10円ぐらいを出した。



例大祭

  例祭日は『風土記稿』によると旧暦の6月15日であったが、第二次世界大戦後から4月14日となった。そして1980年代前半頃から4月の第2日曜日になったという。そのため他の地区と祭りが重なるとことが多くなり、祭りの時の親戚同士での行き来がなくなったという。
  14日の本祭には六所神社(国府村)からやってきた神主がご神体を祀ってあるトビラを開けて、部落の発展・五穀豊穣を祈る祝詞をあげた。式が終わると宮当番の家がヤドとなって神主をもてなしたという。戦前は午後から夜にかけてに余興が始まり、青年会が主催する歌舞伎の田舎芝居が催され、お宮で太鼓が叩かれていた。境内附近にはオモチャ屋・トモエ(金ツバ)焼きなどの露天が11〜12店ぐらい出たという。青年団は部落の各戸を回り、米一合位ずつ集めていた。テレビが各家庭に普及するようになってから、余興などは廃れてしまった。
  本祭の式典が終了すると供物の鏡餅が役員から組長、組長から各戸へという順で部落中に配られる。鏡餅は上の部分(二升)を4等分、下の部分を(三升)を5等分し、合計9片が各地区の世話人2人ずつによって分配されていた。さらに末社(三峰権現と三島明神)に供えた餅は神主と青年会に分配したといい、氏子の人々はこの餅を持ち帰って焼いて食べた。しかし、部落の戸数が増加したために鏡餅は世話人にのみ分配され、各戸には菓子を配るようになった。この日には各家々に親戚が大勢集まり、赤飯・お煮しめなどのご馳走を出したという。
  昭和42年(1967年)当時は毎年4月14日が御祭礼で、境内の女坂寄りに舞台が組まれ、御神楽が奉納された。男坂(今の石段)の下の狭い道には「カンテラ」を灯けた夜店が並んだものであった。14日には国府村馬場の神主さんが抽宅に参り、当家代々保管して来た鉄の大きな鍵を受け取り、屋敷続きの粟津神社に参って扉を開き、恭しく祭典の儀式があってから本祭礼が始まった。
  祭りの翌日の15日は青年会が幟倒しといって、幟を片付けたり舞台をこわして各家に借りたものを返したという。そして午後からは祭礼の準備や執行を請け負った青年団(青年会?)をねぎらうため「ハチハライ」が行われ、その費用はハナ(賽銭)代の余りでまかなった。また、各戸へ割り当てられた以外の例大祭への寄付は、翌年の例大祭まで粟津神社の社殿内に張り出された。

太鼓

  以前は青年会が太鼓連を結成して、宵宮には3名を1組にして一晩中交替で太鼓を叩いていた。出縄は万田と根坂間とでお互いの祭りへ太鼓を叩きに行きし、櫓に太鼓を2カラ並べて万田と出縄で叩き合いをしていたこともあった。また明治の頃には笛もあったという。
  戦後になると芝居が行われなくなり、青年団が車に太鼓をのせて部落中を回るようになった。車が近所に来ると気持ちのある家は通りに出て「ハナ(賽銭)」をあげる。また、大正12年(1923年)の関東大震災頃までは山車と神輿が神社に置かれ、これらは明治末から大正初め頃まで使われていたという。その後は各久保を山車だけが回った。



神輿

  1990年頃に神輿を担ぐ「縄友会」が結成され(前身は青年会)、結成後3年くらいは大磯町虫窪の個人持ちの神輿を借りて担いでいた。平成4年(1992年)に釣鐘と鐘楼、大神輿と小神輿を購入するための実行委員を設立し、地元から寄附を集めて平成6年(1994年)に虫窪の神輿を購入した。



青年団と青年会

  出縄では尋常小学校の高等科を出た14・15歳から25・26歳までは「青年団」に入っていて、青年団に入るには酒を一升持って頭を下げに行ったという。青年団は月に1回程度の集会を行っていたが、活動の中心は「青年会」の下働きであった。
  その後、25・26歳になると青年会へ移行し、二・三男の入会は比較的自由であったが、長男は必ず入会することになっていた。青年会の活動は村全体のための様々な勤労奉仕が中心で、雪かき・道普請・カヤ刈りや湘南平の植林などを行ったりした。台風の時には金目川の決壊を食い止めるために土嚢を積んだり、震災直後は後片付けも行った。平塚市への合併前には青年会員は全員「消防団」に入っていたが、合併後は25〜30歳の中から6人程の団員を選ぶようになった。また、「警防団」も青年会員によって受け持たれており、年末には公民館に徹夜でつめて警戒を行っていた。
  粟津神社の祭りの時も青年会は重要な役割を果たし、当日に幟を立てたり、前もって囃子太鼓を練習しておいて、当日の夕方4時頃まで太鼓を叩きながら村中を回った。また、青年会は「蓮大寺」で集会を行っていたが、素人芝居の流行した頃は青年会の者が寺でどたばたするのはよくないと、檀家が寺の使用に反対したことがあった。青年会の人々は村で自分達を邪魔者扱いするようなら出初式には出ないと青年会長の所へ言いに行った。そこで会長は公民館を建てるように尽力して、昭和22年(1947年)に公民館を建てた。その後の集会は公民館で行うようになった。47歳を過ぎて青年会をやめると、その後は講や行事の中での付き合いに変わっていった。
  戦前に女性たちは高等科を終えてから結婚するまでに「女子青年」に入っていて、月に1〜2回蓮大寺に集まって裁縫・花などを習っていた。青年会と共に素人芝居をやったこともあり、青年会の夏のカヤ刈りの時は弁当を差し入れしたりしたが、あまり入っている人はいなかった。


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