上古沢かみふるさわ

諏訪神社

  上古沢の鎮守である「諏訪神社」は小字「宮下」の丘陵中腹にあり、創立については不詳だが、口伝によれば元亀・天正の頃(1570〜1593年)に武田信玄(現山梨県)の配下であった監物兵庫の属僚がこの土地に土着し、当社を勧請したといわれている。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると鎮守である「諏訪社」が上下二社あり、ともに村持ちであった。上古沢村のこの他の神社・小祠には村持ちの「聖天社」と「蔵王権現社」が記載されている。
  現在当所永島家所蔵の古文書『諏訪神社記録抜書』によると永島家の先祖(武内監物、慶長年中改名)が元甲州武田の家臣で、慶長12年(1607年)に本国信州の鎮守「上ノ諏方明神」を氏神として山之内江勧請し、弟の源七郎は山之内村の鬼門除として「下ノ諏訪明神」を勧請した。上古沢村は元和5年(1619年)以来、旗本小笠原氏の支配下であり、元和6年(1620年)に小笠原左門が上古沢を所領する頃、上古沢、下古沢の鎮守は「三島大明神」で、古沢村上分に手前(永島氏)氏神の「諏訪明神」を勧請、社殿を建立した。明暦4年(1658年)4月には地頭の小笠原左門の寄進にて社殿が再建され、万治3年(1660年)5月には同家より「小笠原栄太郎 源朝臣元次敬白」と彫る鰐口が奉納された。同家では更に宝永年間(1704〜1710年)に内宮を再建しており、棟札には「小笠原主馬源満孝」と彫られている。
  明治初期に村社「諏訪神社」と改称し、「建御名方命」を祭神に祀った。現在の社殿は明治5年(1872年)に改築されており、拝殿は木造寄棟造(間口、奥行共に3間4方)で、それに続き幣殿(2坪余)があり、内宮は木造流造板葺向拝付である。神楽殿は木造切妻形(間口5間、奥行3間)にて更に下屋(9尺)がある。屋根は元は茅葺であったが昭和40年(1965年)頃に亜鉛板に葺き替えられている。当社の末社として社殿向かって右側に市道(いちどう)集落にあった「蔵王権現社」を祀り、本殿の左側には「諏訪大明神」や「稲倉魂命」・「天満宮」の三体を祀る。また、当社にある安政6年(1859年)再鋳の鰐口は、万治3年(1660年)に小笠原元次が寄進したものである。

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諏訪神社社号柱
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鳥居
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狛犬狛犬
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拝殿覆殿・幣殿
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下諏訪社蔵王権現社
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神楽殿
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境内

上古沢太鼓

  「上古沢太鼓」は上古沢地区の「上古沢太鼓連若草保存会」によって伝承され、江戸時代に長野方面から伝わってきたものらしいが、詳細は不明である。昭和35年(1960年)に復活した際には、近郊の屋根葺きや家の修理等のアルバイトをして活動資金を補ったという。その後、青年団が「上古沢太鼓連」として活動し、昭和46年(1971年)に現名称に改めた。
  囃子は「大太鼓1」・「締太鼓6」で構成され、「四丁目」・「ばかめん」・「鎌倉」・「きざみ」がある。
  以前は芝居なども掛かったが、幕間には囃子太鼓が鳴ってうるさくて話も出来ないくらいだった。



神輿

  



例大祭

  昔は8月27日に行っていたが、現在は27日に近い土or日?曜日である。実施者は宮総代で、上古沢の5つのヤトが順番に役員となり執り行う。
  平成13年は一週間前に幟の竿を立て、宵宮に幟を揚げた。大祭当日は飯屋神官によって10時から神事が行われる。子供神輿お祓いのあとに中央の諏訪社で神事を行い、その後左側に祀られている矢崎集落の下諏訪社、最後に右側の市道集落の権現社で神事を行う。
  昔は梨を売る店が出て、はしりの梨で珍しかった。



上古沢の歴史

  旧上古沢村は厚木市域の西部に位置し、村域のほとんどは白山丘陵と高松山丘陵にあり、中央部から北東部にかかる鞍部は上古沢盆地と呼ばれる台地である。これらの丘陵からは幾筋もの小河川がこの台地を刻んで流れ、合流して恩曽川となって北西に流れている。順礼道が村域を北東から南西に貫いている。周辺は、東側は下古沢村・愛名村、南側は小野村、西側は七沢村・煤ヶ谷村、北側は飯山村に接している。
  中世の頃は永禄2年(1559年)の『所領役帳』に「地頭方上古沢共」と記載されている。旧集落は小河川によって開析された丘陵鞍部、ところどころにある台地上にある。山林が村域の1/2を占めているが、小河川に沿っていわゆる谷田(ヤトダ)が多く開かれてきた。『風土記稿』には小名として「矢崎谷」・「一道谷」・「野竹沢谷」・「堀ノ内」・「細田谷」・「南沢谷」を載せ、伝承調査でもこれらと同じ集落名が確認された。
  近世の支配は前期から旗本領で、『風土記稿』によると幕末の戸数は80戸、『地誌草稿』によると明治初期の戸数は96戸であった。明治22年(1889年)に飯山村と下古沢村と合併して小鮎村大字上古沢となり、昭和30年(1955年)の合併により厚木市大字上古沢となる。昭和40年代後半に南西部のの丘陵一帯で、南の小野にかけて「厚木パークシティ」開発が行われ、上古沢分は主として住宅地となった。昭和60年(1985年)に「森の里」の住居表示が実施され、ここは玉川地区に含まれている。


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