川尻かわじり

川尻八幡宮

  天保年間(1831〜45年)の『新編相模国風土記稿』によると「若宮八幡宮(川尻八幡宮) 別当浄光坊、上・下川尻村の鎮守なり、一つの華表より社頭までおよそ八丁(約872m)、髪のような直線の参道の並木はすべて松・蒼々として天にそびえ、社頭の周囲長松老杉あるいは椎木の老幹に囲まれる。神体木立像 相州鎌倉郡扇ヶ谷運慶法印の末葉後藤左近藤原義貴作と記す。例祭7月28日、湯華・相撲興行し、近隣の郷里郡参するもの多し、県中に名高き神社にて並木八幡と呼べり」
  八幡神社には三石七斗一合の除地があり、当社については近世初期の『八まんめん野帳』によりその除地の様子を詳細に知ることができる。
  畑 宮林一六筆 にか窪一筆 計八反五畝七歩 耕作者 勘右衛門ら12名
  田 ふたごの沢 三ノ沢 一一筆 一反四畝七歩半 耕作者 藤蔵 藤兵衛
  合計九反畝七歩半
  これが除地三石七斗一合の内容である。これから上る収益で社殿の修復や祭礼の費用の一部を賄ってきた。畑を耕作する12人のうち1名は「作人」とあり、禰宜の太左衛門である。この太左衛門だけが八幡社南の「にがくぼ」下畑一反畝を耕作していた。太左衛門を除く11名と水田の耕作社2名の計13名が八幡社領を開拓した。このことは元禄8年(1695年)の『相州津久井県下川尻村寺社御除地書上留』に「宮林を切り開いたのは草切百姓、上川尻村の者」とあり、八幡社領御除地の儀は古来より上川尻村にこれあり、草切の百姓13人の者共寛永7午の年(1630年)に守屋左太夫様御地を請け御除地になっているという。これらの百姓13人は年貢を領主ではなく八幡宮に納めた。その年貢は「名主、年寄立会いで保管し宮修復などに使ってきた」などとある。

一の鳥居(原宿)神額「八幡神社」
川尻八幡宮看板
掲示板・燈籠燈籠・社号柱
鳥居幟ポール
一之鳥居再建並拝殿修復社殿修改築寄付者芳名
燈籠鳥居
神楽殿おみくじ掛け
社務所
石碑
お神札返納所手水舎
燈籠燈籠
狛犬狛犬
社殿社殿
八坂神社春日神社
御神木 椎の木社号標
絵馬掛け扇塚
不動明王祖霊社
天満宮稲荷社
金毘羅社?境内
境内境内
車祓所

囃子

  6組の祭囃子はすべて五人囃子というもので、太鼓1・締太鼓2・笛1・鉦1(原宿のみ拍子木が加わる)の五人編成で、江戸の神田や葛西を源流としているが東京近郊は皆この系統の囃子で、獅子舞・おかめ・ひょっとこ等の笑面踊りがつく。曲目は次のとおりである。

原宿、町屋・・・屋台(獅子舞)-聖天(しょうてん)-神田丸-鎌倉-四丁目(ひょっとこおどり)-ねんねこ(おかめ踊)-因幡(いんば)-屋台-車切(しゃぎり)
城北、小松・・・屋台-聖天-因幡-鎌倉-神田丸-子守-四丁目-車切
久保沢・・・屋台-因幡-大魔聖天-四丁目-車切り
都畑・・・屋台-聖天-因幡-鎌倉-神田丸-子守-四丁目-車切



神輿

  

御輿庫


川尻八幡宮の祭礼

  『新編相模国風土記稿』の上川尻村の条に「若宮八幡宮、別当浄光坊、並木山と号す、本山修験高座郡上溝村南学院配下、本尊不動明王、上下川尻村の鎮守なり(中略)例祭7月28日、湯華及び相撲を興行し、近隣の郷里群参するもの多くいと賑はしき体勢なり、県中に名高き神社にて、或は並木八幡と呼べり」とある。興行があって近隣近在から群集することでこれも特別に記載されたようである。
  湯花とは「湯立て」のことで、神前で湯を沸かし、巫女や神職がその熱湯に笹の葉を浸して自分の身や参詣人にふりかける神事の一種である。湯立てについては小倉村の鎮守諏訪社や八幡社でも行われていた。湯立てには湯立神楽・湯立獅子舞など湯立ての釜の前で舞うものもあるが、これらがどのように行われていたのかは不明である。相撲興行についてもいつ頃からどの様に行われていたか分からないが、文久元年(1861年)8月の文書に次のようなものがある。
  上川尻村の村役人惣代弥五左衛門が、地頭所役人に伺いを出した。八幡宮の祭礼には例年角力(すもう)を興行してきた。従来から「縁合をもって角力振り分け」今回は忠蔵殿が特別に願かけいたし、八幡宮社内で奉納角力を挙行いたしたい旨申し出てきたが、時節柄につき断った。しかし中蔵殿とその隣村の者共から再度の申し出があったので「拠(よんどころ)なき場合に相なり」御伺い申し上げる。
  また、祭りには見世物小屋なども建ち賑わったところもある。川尻八幡社にかかわることでは、厚木(厚木市)におど子の興行主がおり、享保13年(1728年)の山本利雄氏蔵の文書には「八幡宮祭礼に厚木おどり呼びたくにつき」の文書がある。なお、祭りには神輿の渡御が行われ、川尻八幡社では早朝暗い中で御神体(神像)を神輿に移し、社殿を三回廻ってから久保沢を経て向原の別当寺浄光坊まで担いだ。現在のように旧川尻村内の各所を廻るようになったのは明治末の村内小社の合祀以後といわれている。
  例祭は8月27日・28日で、27日には朝7時に八幡神社に集まった白丁(白い着物)に身を清めた若衆(消防団員が主力)が神体を入れた大小二基の神輿を担ぎ出す。神輿は神殿を3回周り、原宿にある一の鳥居から川尻各地区へと順々に渡御されていく。その様子は実に勇壮で、神奈川のまつり50選に選ばれたことで実証される(28日は不動明王の縁日)。参道を南北に分け、南が早番(午前)、北が遅番(午後)、翌年はその逆で行い、夜10時まで神輿が担がれる。昔は27日および18日の夜のみ今の道順で行われ、長い行列が続いたという。
  28日は例大祭の式典が午前10時から斎行され、境内でいろいろな演芸がくり拡げられ、夜は町内6つの山車が参道に集まりお囃子の競演がされる。さらに200軒以上の夜店にも明かりが入り、祭り独特の雰囲気を醸し出し、町中全体が祭り一色となる。



川尻の歴史

  川尻村は津久井領の東端に位置し、いわば津久井領の入口的存在である。村は南側を相模川が流れ深い渓谷を形成し、北側には村内を水源とする境川が流れ、この両河川に南北を挟まれるように位置している。地形は村の東半分は相模台地の北端が入り込み比較的平坦な地形で、近世の初頭には大半は荒涼とした原野であった。そして村の西半分は津久井領の山々の東端に位置しており、ここより発する小河川により刻まれた沢や谷に中世より谷田が作られ、中世の集落の多くがここに営まれていた。この川尻村は平地と山地の結節地であり津久井の中でも特異な地域である。そして天保年間(1831〜45年)の『新編相模国風土記稿』にも「県の東偏に在て頗る打ち明けたる村柄なり、人物も亦西偏、山村の風俗とは異なり」とされ、津久井の村々とは区別して記されている。
  寛永7年(1630年)の新田検地により上・下に分村するが、これ以前の慶長期には津久井の中でも最大規模の村である。



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