相模原さがみはら市の祭礼

相模原市

  相模原市は神奈川県の北西部に位置し、旧相模原市と旧津久井郡の四町が合併して出来た都市で、西は山梨県と境を接するようになった。平成18年(2006年)に津久井町と相模湖町が、翌平成19年(2007年)に城山町と藤野町が旧相模原市に編入された。合併後の相模原市は人口70万人を超え、面積では横浜市に次いで神奈川県下で二番目に広く、人口は県下で三番目に多い都市になった。更に平成22年(2010年)には政令指定都市となり、旧四町は相模原市緑区の一部になった。



旧相模原市

  旧相模原市は昭和29年(1954年)11月に市制を施工した。平坦な相模原台地に立地する市域は畑作を中心とする農村地帯であったが、昭和10年代(1935年)に陸軍諸施設が市域に移転し、これに伴って軍事都市を目指した大規模な区画整理事業が実施され、その後の急速な都市化の基盤となった。



旧津久井郡(旧津久井県)

  日本の国郡制は皇極天皇4年(645年)の大化の改新によって実施されたが、以来、津久井は愛甲郡・高座郡に含まれ、独自の行政単位とはならず続いた。これが戦国時代頃から津久井・津久井領という地域の集合体としての表現がとられはじめ、小田原北条氏治下の永禄2年(1559年)の『小田原衆所領役帳』では、津久井城主内藤氏を頂点として村々に在地する武士たちが「津久井衆」という人を中心とした集団で把握された。
  津久井領が一つの行政単位となるのは近世になってからで、慶長9年(1604年)に江戸幕府は津久井総検地を実施し、この時の検地帳によると相州の内津久井とか津久井領としている。ここでは郡などという単位は用いていないが、この時の検地実施範囲やその検地基準を見ると津久井の村々だけが他の村々と違い、土地の面積表示に畝歩制を使わず、銭の表示である貫文の単位=永高制を用いている。これは明らかに幕府が津久井を一行政単位とみなした最初の行為といえるが、この時点では郡名となっていない。
  寛文4年(1664年)4月に津久井領は幕府の老中久世大和守広之の所領となった。この時幕府が久世に与えた領地目録によると、津久井領27か村のうち町域の上川尻村・下川尻村・中沢村と三井村(津久井町)が高座郡とされ、残る23か村が全て愛甲郡とされた。津久井領北部の相模川左岸4か村を高座郡に含め、他を全て愛甲郡へ編入するという大きな変革である。町域の小倉村・葉山島村も愛甲郡である。幕府行政によりこうした大きな変革が行われ、津久井領としての独自性が失われたようになるが、久世の行政を通してみるとその根底には津久井領が続いている。
  天和3年(1683年)8月に久世氏は備中国(岡山県)庭瀬に転封、津久井領は幕府領に代わったが群制はなお継続した。元禄4年(1691年)2月に代官が山川三左衛門貞則から山川金右衛門貞清に交代した。この時、代官山川氏は群制を廃して津久井領を以降「津久井県」と称することを命じ、ここに全国で唯一の行政単位の名称である津久井県が成立した。以降、津久井県は明治3年に至るまでの約180年間続いた。ここで山川貞清がどうして県なる単位を採用したかは不明だが、中国における郡県制、郡より小規模な単位としての県、これがが山川氏の脳裏にあったのかもしれない。いずれにしても、近世における津久井は行政単位として幾つかの変遷をたどり、最終的には全国でも例外的な津久井県という公称になった。
  明治3年(1870年)2月27日に津久井県が津久井郡に改正された。



旧津久井町

  旧津久井町(以降は津久井町と表記)は相模原市の西部に位置し、その東部は愛甲郡愛川町、南部は愛甲郡清川村や足柄上郡山北町に、西武は山梨県南都留郡道志村に接している。山梨県との境には大室山が聳え、その東には県下最高峰の蛭ヶ岳を始めとする丹沢の山々が連なっている。山林が津久井町の面積の82%を占め、相模川や道志川流域に形成された河岸丘上に集落が展開している。
  津久井町の範囲には近世に12の村があり、それらは三井村・太井村・中野村・又野村・三ヶ木村・青山村・上長竹村・下長竹村・根小屋村・鳥屋村・青野原村・青根村である。明治22年(1899年)には町村制が施行され、津久井地域では県の方針の合併とは異なり、組合村の形で発足したところも多かった。明治42年(1909年)5月には根小屋・長竹・青山の三か村が合併して串川村を設立、大正14年(1925年)1月には中野村が町制を施行して中野町となり、同年7月には太井・又野・三ヶ木の各村と合併して新たに中野町とした。
  津久井町は昭和30年(1955年)4月に町村合併促進法に基づき、中野町・串川村・鳥屋村・青野原村・青根村・三沢村三井地区の一町五村が合併して成立した。合併当時の面積は118km2余り、人口は約15,000人であった。その後人口は急増し、一時は30,000人を超えたが、相模原市との合併直前には約28,700人になった。
  津久井町の特色は「水源文化都市・津久井」の宣言に象徴されるように、津久井湖・宮ケ瀬湖・奥相模湖(道志ダム)の三つのダム湖を有し、「水源地」として大きな役割を担ってきた点にある。明治20年(1887年)に横浜水道が解説されて相模川(後に道志川)の水が横浜に送水され、昭和40年(1965年)3月には相模川総合開発事業により計画された城山ダム(津久井湖)が完成した。湛水した水は上水道、工業用水として横浜、川崎を始め県下に送水されている。

旧相模湖町

  



旧城山町

  



旧藤野町

  

1.旧相模原市
地区名神社名鎮座地例祭日神輿山車備考取材年
1


2.旧津久井町
地区名神社名鎮座地例祭日神輿山車備考取材年
1太井諏訪神社緑区太井506-3
1川尻川尻八幡宮緑区川尻(小松)4171-1
1谷ケ原八坂神社谷ケ原
1長竹春日神社長竹(奈良)1748/1?
1根小屋諏訪神社根小屋(根本)1288/26?


3.旧相模湖町
地区名神社名鎮座地例祭日神輿山車備考取材年
1


4.旧城山町
地区名神社名鎮座地例祭日神輿山車備考取材年
1


5.旧藤野町
地区名神社名鎮座地例祭日神輿山車備考取材年
1



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参考文献
タイトル著者/編集出版/発行出版年
津久井郡文化財 神社編津久井郡文化財調査研究会津久井郡広域行政組合1987(昭62)
城山町史 4 資料編 民族城山町同左1988(昭63)
平成 さがみはら風土記稿 −神社編−相模原市教育委員会同左1993(平5)
城山町 6 通史編 近世城山町同左1997(平9)
相模原市史 民族編相模原市総務局総務課市史編さん室同左2010(平22)
津久井町史 通史編 近世・近代・現代相模原市教育員会教育局生涯学習部博物館相模原市2015(平27)

  ※上記の文献は他のページでも引用していることがあります。