長竹ながたけ

春日神社

  伝承によると明応3年(1494年)に南部の人、奈良大炊介(おおいのすけ)、同縫殿(ぬい)の兄弟が大和国(奈良県)春日社から勧請して神鏡を鋳造して祀ったという。初めは奈良一族の氏神として祀られ、地名も奈良と称し大和国を偲ぶとともにその地になぞらえた郷を建設したものと伝えられている。明和3年(1766年)に神鏡と棟札が紛失したことにより、改めて神鏡と棟札を奉納しているという(『津久井町郷土誌』)。
  天保年間(1831〜45年)の『新編相模国風土記稿』によると、村内の神社は鎮守である別当寿性院持ちの「春日社」と村民持ちの「山王社」の2社のみであるが、宝暦8年(1758年)の『津久井県長竹村差出帳』によると、この2社に加えて「蔵王権現(修験)」と村民持ちの「白山大権現」・「山王大権現」・「白髪明神」・「第六天宮」・「山王宮」があった。
  明治以降は春日神社であるが、近世の文書では全て春日明神である。津久井町域の鎮守は諏訪社または八幡社であるが、長竹村だけが春日明神となっている。

春日神社鳥居
石階段春日神社
鳥居石鳥居建立記念
燈籠燈籠
手水舎凱旋記念
春日神社由緒石階段
燈籠燈籠
狛犬狛犬
社殿社殿
詣願成就祈願天満宮
水波能賣神石祠
物置物置
稲荷社社務所(奈良子春日堂)
境内境内

囃子

  



神輿

  



長竹の歴史

  戦国時代の長竹村は津久井城の麓にあり、いわば城下町めく性格を持っていたであろう。「小田原衆所領役帳」では「三貫文 長竹村 井上帯刀左衛門」とあるが、これは長竹村の一部を意味していると思われる。徳川家康の関東入国によって徳川氏の直轄地となり、慶長3年(1598年)に代官頭彦坂元正によって一円検地が実施された。当時の津久井領で慶長3年検地は長竹村のみで、これは長竹村の位置するところによるものであろうし、この検地は来るべき慶長9年(1604年)の津久井領総検地の先駆けをなしたと考えられる。
  元和2年(1616年)の検地によって長竹村から根小屋村が分村し、その後、長竹村には寛永7年(1630年)と寛永15年(1638年)に新検地が実施されている。7年の検地では畑永三貫五五七文が新開として、また15年の検地では下田二反二畝二二歩・下畑三反六歩・下々畑旧反四畝二五歩の計一町四反七畝二三歩が新開として帳付けされた。ここでも農民たちの積極的な田畑の開発が確認される。
  江戸時代の寛文4年(1664年)に津久井一帯は久世広之領に編入された。同年久世氏は新領地に検地を実施し、これをきっかけに長竹村は上・下に分村した。上長竹村には韮尾根(にろおね)・長竹・沼、下長竹村には石ヶ沢(いしかざわ)・稲生(いのお)・北尾附(きとおづく)・立山(たちやま)の地区を含み、西部は上長竹村、東部は下長竹村に分けられた。天保年間(1830〜43年)の『風土記稿』によればこの両村について、田畑・山林・民家までが複雑に入り組み村境も確定できないとしている。行政組織としては上分・下分に分けられたが、村の境界が確定されないままの分村だったらしい。なぜこのような村が生まれたのかはっきりしないが、津久井の中では上中沢村・下中沢村(旧城山町)も同じ寛文4年検地をきっかけに久世氏によって分村し、同様に境界が確定できない状況になっている。
  『風土記稿』によると上長竹村は村高三七二石四斗三升二合(5位)、下長竹村は村高一六三石七斗ニ升六合(12位)、上・下長竹村広袤東西二六町・南北二四町(6位)、江戸より一六里とある。東と北を根小屋村、西を青山村、南は愛甲郡半原村・田代村・三増村に接する。集落は「二郎根(にろうね)・稲生(いのお)・沼(ぬま)・石ヶ沢(いしかざわ)・喜登宇豆久(きとうずく)」など5か所からなり、このうち『慶安津久井領絵図』では「長竹之内にろふ称(ね)」・「長竹の内いのふ」と別記がみられ、村の中央を流れる串川に沿った稲生地区とその支流の韮尾根沢に沿って形成している。
  明治政府の方針は町村の維持体制強化のために小村に対して合併を奨励した。明治8年(1875年)11月22日に上長竹村と下長竹村は足柄県令柏木忠俊宛に合併願を提出した。これには両村の旧高・反別・戸数・人員を記しており、人員を除くと上長竹村は下長竹村の倍以上の規模であった。合併理由も挙げているが、家並・田畑・山林など一切が複雑に入り混じって不都合なこと、二か村では冗費がかさむこととしている。ちょうど進められていた地租改正事業などの影響もあったかもしれない。そして合併後の村名は長竹村にしたいとしている。願書の文末には上長竹村里長長本本多七兵衛と村民137人、下長竹村里長宮城愛之助と村民78人が連名し、合併が両村民の総意によることを示している。明治9年(1876年)1月10日に上長竹村と下長竹村の合併願は足柄県に正式に承認され、長竹村が始動することになり、里長には本多七兵衛が就任した。



天王社の勧化

  上長竹村字久保の天王山にある神社で、社殿の建立あるいは修繕に伴う寄付を募った(勧化)記録があり、文久3年(1863年)の『天王宮様勧化連名帳』である。これによると、上長竹村の又蔵組、源吉組、八兵衛組の村内三組から寄付を募り、総計金四四両二分三朱・銭三四三文を集めた。このほかに、この年の春先御輿の屋根を替えた費用(「当春御こし屋根かえ入」)約一両二分も加えた。このことからこの勧化は太井村や青野原村の天王社の創建のためではなく、修築のためのもののようである。勧化に応じたのは上長竹村の55人と「金二両二分也 是ハ若者前々より預り置候分」とあり若者組からの参加もあった。
  上長竹村の家数は元禄年間(1688〜1704年)の『津久井領諸色覚書』によれば89戸、この勧化連名帳の文久3年(1863)にはおそらく100戸を超えたと思われるが、村内55人が寄付に応じたことはこの天王宮の祭事が鎮守の祭に次ぐものであったと思われる。幕末異国船の渡来で騒然とし、続いて自然災害、コレラの大流行となる。疫病退散への願いが勧化に応ずる心情へと通じたのであろう。
  勧化に応じた個々の金額では最高は津久井亦次郎で金五両、三両以上五両未満は5人で、名字を見ると奈良姓2人、山口姓3人である。金額で最も多いのは金一両から二両未満が15人、二分から一両未満が9人、全体の44%はこの金額に集中している。最少は銭200文の6人である。募金は7月と9月の二度に分けて行われたが、55人中40人が再度分割で納入に応じている。なお、百姓にも名字があって、宗教的な行動にはその名字を名乗ったといわれているが、この『勧化連名帳』にも店借の者一人を除く全員が名字と名を記している。紹介すると山口18人、奈良15人、佐藤9人、落合6人、市川4人、神谷1人、津久井1人である。



春日明神の梵鐘

  明和3年(1766年)4月の『上長竹村春日明神新造梵鐘銘文出入内済証文』を要約すると次のようである。

「  鎮守春日明神の社地に世話人によって梵鐘を建立したことろ、鐘に彫付けた名前を巡って出入(もめごと)がった。百姓清兵衛を筆頭に総百姓連判して建立した梵鐘を打ち砕くと斧などを持参し、その上境内の古石灯篭を打砕した。これに対して春日明神とその別当泉乗院が出訴し、4月2日に双方役所へ出頭を命ぜられた。しかし、この出入について泉乗院側より内済(訴訟に持ち込まず和解すること)にしたいと和解の申し出があった。内済申し入れの理由は、梵鐘を破砕したといっても、村内4か寺からなる同出入の扱人によると、破砕したようには見えない。古灯篭についても以前の欠損のように見えることから、この一件は扱人の責任において内済と決めて双方が同意をした。
  去る3月、春日明神の社殿の扉、外板の破損、神鏡、棟札の紛失については、村方に怪しいところはない。紛失の時期も不明につき、別当泉乗院において棟札を勧請し神鏡も調えることで双方が了承した。内済が成立したので、旦那村中残らず前々の通り春日明神の氏子に相違なく、全ての氏子残らず相互睦まじく、取扱人連印をもって済口証文を差し上げる。
  明和3年4月
  訴訟人同差添泉乗院、相手同村惣百姓名代清兵衛他二名、扱人来迎寺他三ヶ寺 同村名主彦左衛門捺院 江川太郎左衛門代官役所宛」

  上記の済口証文の文中にある紛失した棟札については、別当泉乗院が神鏡とともに改めて奉納し、その写しが残されている(『津久井町郷土誌』)。この出入りは梵鐘に刻まれた氏名を巡る論争である。鎮守を維持管理する別当泉乗院が訴えを起こした当事者であるが、一村の鎮守の氏子との紛争、分裂を極力避け、ひたすら融合第一に努めた様子から、一村における村人の暮らしと鎮守の精神的な存在の重さが読み取れる出来事のように思われる。
  なお、前記『津久井町郷土誌』第5集にはこの出入りの原因となった春日明神梵鐘の銘文が紹介されている。この梵鐘は明治初年に取り除かれたと伝えられ、境内にはその礎石のみが散見されているというが、安政3年(1856年)に上長竹村名主亦次郎が小田原藩寺社奉行に提出した『津久井県上長竹村梵鐘御取調書上帳』に梵鐘名が記録されていた。梵鐘の大きさ三尺一寸五分・差渡二尺六寸・目方六五貫、明和元年(1764年)甲申年十二月、製作武州横川加藤与兵衛他、「本願」として亦次郎、又兵衛、源右衛門、長左衛門、彦左衛門(上長竹村名主)の奈良姓5人の名があり、続いて長竹村惣氏子として奈良2人、宇多田1人、山口2人、斎藤1人、池上1人、小室1人、落合1人、宮城1人、畑野1人、鈴木1人、内藤1人の計13人の名が刻されている。



戻る(相模原市の祭礼)