根小屋ねごや

諏訪神社

  「諏訪神社」の祭神は建御名方命(たけみながたのみこと)で、旧社社格は村社であった。宝ヶ峰山麓の西南、中野と根小屋を結ぶ町道沿に面積2617m2を有する境内がある。針葉樹、杉等数百年を経た巨木にて森をなしている。
  建久3年(1192年)に津久井領主津久井太郎次郎義胤が宝ヶ峰在城の時に勧請したと伝えられている。十間四面を社地に付け置かれ、その御数世を経て小田原北条氏の旗下、内藤左近将藍景定同峰の城主の時、大永7年(1527年)に当社へ五十間四面の地を寄進せられた。また、徳川氏に至り、慶長9年(1604年)の彦坂小刑部御縄入の節、石高三石六斗に相改め先規の通り除地に付け置かれた。天文5年(1536年)7月に本殿を造営したとの記録がある。享和2年(1802年)に神?管領ト部朝臣連に願って7月6日扁額の奉納を受け現存する。
  扁額 根小屋神社 正一位諏訪大明神
境内の建造物を以下に記す。

  本殿 木造流造 2.2m2 明治26年(1893年)頃修理
  拝殿 木造亜鉛葺 33.4m2 昭和35年(1960年)8月新築
  覆殿 木造亜鉛葺 25.2m2
  鳥居 石造明新型 高さ4.60m 幅4.30m 昭和23年(1948年)建設
  灯篭 自然石 高さ1.6m
  石造 高さ2.5m 文政4年(1821年)7月建
  石造 高さ2.5m 嘉永2年(1849年)7月建
  手水鉢 自然石 高さ0.9m 嘉永3年(1850年)
  社標 石造 高さ2.8m 昭和12年(1937年)8月建
  石造塔 安永7年(1778年)11月建
  神楽殿 木造亜鉛葺 198.0m2
  社務所 木造 271.4m2

  昭和59年(1984年)12月に神奈川県の名木百選に樹高40m、胸高周囲6.3mの杉が選ばれた。境内社は「金丸稲荷神社(祭神:宇迦之魂命)」が祀られている。

諏訪神社社号柱
石碑道祖神?
掲示板鳥居
祠・石像参道改修記念碑
 
物置手水舎
おみくじ掛け・水鉢石階段
燈籠燈籠
社殿社殿
石像
水道根小屋の諏訪神社のスギ
境内境内


例祭

  8月26日



根小屋の歴史

  天保年間(1831〜45年)の『新編相模国風土記稿』によると、根小屋村は村高二六七石六斗四升(9位)、広袤東西二一町・南北一里一一町(4位)、江戸より一四里であった。東を小倉村に、西を長竹村、南を愛甲郡三増村(相川町)に、北を太井村に接している。根小屋の名称に示されるように、戦国時代は津久井城の麓に作られた根小屋で、城主や兵士たちが生活していた集落である。もとは長竹村に含まれていたが、元和2年(1616年)の検地で分村した。
  根小屋村は「本根小屋(もとねごや)・金原(かなはら)・荒工(あらく)・下平井(しもひらい)・明日原(あしたばら)・中野(なかの)・土沢(つちざわ)・寺沢(てらさわ)・谷戸(やと)」の9集落からなり、村の中央を流れる串川とその支流の尻久保(しりくぼ)川周辺に位置する。村の北東部にある旧津久井城の城山は近世には御林となり、慶安3年(1650年)の『津久井領絵図』では「古城山御林」とあり、慶応4年(1868年)の『村差出明細帳』では反別五六町歩とし、ほかに志田山(しださん)御林反別三七九町歩があった。
  近世前期の津久井領の行政は根小屋村が中心で、根小屋の根本に代官守屋佐太夫行広・行吉が陣屋を設置し、ここから津久井領とともに相模国内や武蔵国府中領に広がる幕領を支配した。冒頭で記した村高のうち、二五六石余は村の曹洞宗功雲寺領である。功雲寺は津久井城主内藤氏の菩提寺で、朱印地五〇石を与えられている。この功雲寺領は村の全耕地五五町歩の71%を占める三九町歩に当たる。寺領は寺領代官と称される村の北島織部・山本久左衛門によって管理され、北島氏には五石余、山本氏には四石余の給米を功雲寺から与えられている。
  根小屋村には他村と異なり、元禄5年(1692年)に代官山川貞清によって新検地が実施されている。ここで検地された新畑を根小屋村城山新畑と称し、高三八石余・反別一四町余が打ち出された。



津久井城

  津久井城は城山に築かれた山城で、戦国時代には小田原北条氏に仕えた内藤氏が城主を勤めた。天正18年(1590年)6月24日の明け方、徳川家康の夜襲によって陥落した。そして2日目の26日に徳川氏の勇将本多忠勝・平岩親吉・戸田忠次・鳥居元忠と松平康眞の5名は家康の名によって津久井城を撤収し、津久井城はここに廃城となった。江戸時代初頭には麓に陣屋が置かれた。
  近世後期の文化13年(1816年)11月に城山山頂に「築井古城記」の石碑が建てられた。建立者は村の名主島崎律直(ただなお)で、島崎氏は戦国時代には城主内藤氏の代官を務めたと伝える。その子孫宗蔵直孝が古城記碑の作成を策案、寛政元年(1789年)の直孝の死により長子律直がこれを継いで完成させた。これより以前に律直は天明飢饉に際して窮民を救済し、寛政12年(1800年)に代官大貫光豊から賞されて金五〇〇疋(金一両一分)が与えられた。また、島崎家は代々名主として古文書を保管し、村に陣屋を持った代官守屋氏の関係文書も保管して今に伝えた。

囃子

  



神輿

  

 


飯縄神社 根小屋(城山)370

  建立津久井湖山城公園の敷地内に鎮座する「飯縄(いいづな)神社」の祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)で、境内の面積は458m2、宝ヶ峰の東丘にあって周囲は雑木林となっている。
  建久8年(1197年)鎌倉幕府の頃に領主築井太郎次郎義胤が本郡を所領し、当時該所に城塞を築き、守護神として飯縄神社を建立したと伝えられている。その後、文亀年間(1501〜03年)に北条氏が関東を領するにおよび、その臣内藤左将藍景定がこの城に居住し、同神社を守護神とした。しかし、天正18年(1590年)に北条氏が没落するとともに根小屋・太井両村の鎮守として受け継がれた。相模国風土記稿に曰く「祠後に坎井(かんせい)あり。在城のころは日用の井水と見えたり。浅くして底を見る。水堪へて清渫土人是を御手洗神水と唱う。早乾(かんかん)水?の年と云へども常に異ならず」とある。
  昭和41年(1966年)の台風により本殿が倒壊したため、新たに社殿の造営がなされた。別当は寿性院である。例祭日は3月24日。境内の建造物を下記に記す。
  本殿 木造流造 4.6m2 明治39年(1906年)建立
  覆殿 鉄骨造亜鉛葺 17.4m2
  鳥居 鉄製八幡型 高さ2.6m 巾2.5m
  狛犬 石造一対 大正15年(1926年)建立
  記念碑 再建記念石造 高さ1.9m 昭和42年(1967年)7月造
  灯篭 石造一対

飯縄神社鳥居
水鉢飯縄神社再建記念碑
狛犬狛犬
社殿石像
境内県立津久井湖城山公園


飯縄神社 根小屋1313

  「飯縄(いいづな)神社」の祭神は飯縄大権現(いいづなだいごんげん)で、根小屋東中野、県道長竹川尻線左側上に位置する築井家左横を石段70段を登ると、右に鐘楼平地、その奥に拝殿と本殿がある。面積は161m2で周囲は樹齢80年位の杉と銀杏の林となっている。新編相模国風土記稿には「修験賢太郎坊持 神亀2年(725年)剏建の神社なりと云う。縁起棟札等なければ事跡詳ならず 元和9年(1623年)の洪鐘を掛く」とある。
  昭和初年まで当地の築井家の守護神として祀られ、後に根小屋中野部落へ(津久井三十三ヶ所三番札所)中野堂十一面観音とともに遷座された。本殿の造営は本殿扁額に「飯縄宮、功雲一山」の銘があり、これは功雲寺第二十三世、一山元浄和尚(寛政11年(1799年)11月17日化)の書である。覆殿、鐘楼は昭和3年(1928年)茅葺の建物を現在の木造亜鉛葺に再建する。元和9年(1623年)の銘入の洪鐘は第二次大戦に拠出した。例祭日は3月26日。境内の建造物を以下に記載する。
  本殿 木造流造板葺 5.4m2
  覆殿 木造流造 33.4m2
  鐘楼4.4m2
  鳥居 鉄造 明神型
  灯篭 石造一対 高さ2.64m 昭和3年(1928年)12月建立(御大典記念) 寄付者49名 石工鳥屋小島勝蔵

飯縄神社鳥居
参道燈籠
鐘楼社殿
石像
石像
石像境内

境内社を下記に記す。
  蚕影神社・・・木造2.2m2 棟札に大正十一年(1922年)三月二十六日 奉建築天市千魂姫大神鎮座 祠掌大熊文次郎とある。
  賢太郎坊社・・・石造0.9m2 当飯縄神社別当賢太郎坊 (慶長三年(1598年)九月二十四日没) 維時昭和十一年一月二十四日建立。
  天神社・・・覆殿内右側にある。 棟札に天下泰平五穀成就 奉再建天神社村内幸賜 願主中野組明治十二年(1879年)第五月六日 大工統(棟)梁菊池原孫蔵 他に天神社一宇 昭和三年(1928年)十二月二十六日とある。
  稲荷神社・・・覆殿内左側にある。 棟札に稲荷社一宇昭和三年(1928年)十二月二十六日とある。
  観世音塔・・・石造 高さ0.76m 巾0.30m 寛文十年(1670年)四月 帰命(きみょう)日天体本地観世音

  本殿の右の地に回り馬場があり、江戸時代には近郷近在の馬が集まり、例祭日3月26日に競馬会が催されたと言う。また築井家の庭に舞台をかけ、昭和初年まで歌舞伎(地芝居)が行われたという。後に部落の鎮守となり、昭和30年頃まで地芝居や青年団の演芸などが催された。



古峯神社

  

古峯神社水鉢
社殿境内


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