太井おおい

諏訪神社

  太井地区の鎮守である「諏訪神社」の祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)で、建久4年(1193年)の創立と伝えられる。天保6年(1835年)の村明細帳に「諏訪宮 縦七尺(2.3m)、横四尺(1.32m)、覆殿三間四方(29.7m2)、拝殿無御座候、勧請の年月相知れ不申候、祭礼毎年七月二十三日、湯花執行仕候」とある。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には「諏訪社 例祭七月二十三日 別当泉蔵寺」とある。
  津久井郡神社誌には「寛政2年(1790年)の手水鉢、同12年(1800年)献上の石灯篭があり、また、嘉永4年(1851年)に神殿彩色、拝殿再建、覆殿屋根替、慶応2年(1866年)修理の棟札が残る」とある。
  太井村には北根小屋組に諏訪大明神、荒川組に八幡大神、小網組に第六天が鎮座していた。こられは村内の寺院で真言宗泉蔵寺の住職だった隆英が別当として管理していた。明治維新の神仏分離令により神社を管理していた僧侶が継続して勤める場合には、僧籍を離れて復飾・改名して神職に変わることが命じられた。太井村では引き続き隆英が管理するのであれば還俗して神職になる必要があったが、泉蔵寺には檀家もあってこれはできなかった。代わりに神職を務める者が求められ、荒川組で名主を勤めていた角田六郎兵衛の息子である慎之助に白羽の矢が立てられた。明治2年(1869年)2月に太井村は神奈川県に慎之助の神職就任願書を提出して8月に許可され、角田大炊(つのだおおい)と改名して諏訪神社の宮司になり、他の村内神社も兼務した。一応、大炊は泉蔵寺で新務をしていたとしているが、翌明治3年(1870年)12月の太井村『戸籍簿』によれば年齢は11歳としており、当面の対策として仕立てられた。
  明治6年(1873年)7月30日に村社となり、昭和27年(1952年)12月22日に宗教法人の神社として登記された。また、天王社が合祀されている。
  諏訪神社は当初太井555番地に位置していたが、津久井湖建設による県道つけかえのために昭和38年(1963年)に現在地に遷座した。境内には遷座碑があり、その碑文は次の通りである。

  諏訪神社遷座碑
  この諏訪神社は今から約七八四年前の建久四年(1193年)に築井太郎二郎義胤が城山に在城のとき建御名方命をお祭りして津久井町太井五五五番地に建てられたものといわれています。その後太井の鎮守として住民に親しまれてきました。ところが神奈川県が相模川総合開発事業の一環として城山ダムを建設することになり水没する県道の付けかえのため神社も移転することになりました。そこで昭和三十八年(1963年)五月に現在地津久井町太井五〇六番地に新たに造営して祭神を遷座したものです。
  昭和五十二年(1977年)七月二十三日建立
  小網自治会
  諏訪神社氏子中

  現在の境内は西斜面に1881m2の面積を有し、東は城山の自然林、西方は住宅地の小網と北根小屋地区を一望できる。次に境内の建造物を記す。

  本殿 流造柿葺 1.6m2
  拝殿 入母屋造鉄板葺 26.4m2
  覆殿 鉄板葺 29.7m2
  鳥居 石造 昭和三十八年(1963年)三月吉日 太井氏子中

  社殿に向かって右側に第六天社が祀られ、この社は水没地にあって遷座されたものである。社殿向かって左側には次の石仏等がある。

  秋葉大権現灯篭 文化八年(1811年)辛未七月吉祥日
  廿三夜塔 明治十三年(1880年)
  道祖神塔 昭和十七年(1942年)一月十四日
  灯篭 石造一対 昭和三十八年(1963年)三月太井氏子中
  諏訪神社遷座碑
  手水鉢 年代不詳

諏訪神社掲示板
水鉢山車小屋
物置鳥居
社号標鳥居
社殿本殿
石像第六天社
境内境内

囃子

  太井地区の囃子は首長ばやしと伝えられ、笛1・鉦1・締太鼓2・大太鼓1の五人囃子である。「小網飯縄囃子保存会」によって伝承され、曲目は「いんば」・「四丁目」・「屋台」・「なかぬきり」・「しょうでん」があり、かつては「かまくら」が入っていたが、現在は残っていない。明治初年頃から山車の巡行が始まり、現在の山車は昭和8、9年(1933、34年)頃に西川小一氏により製作されたものである。
  太井地区では囃子の練習を一年を通して毎週火曜日の19〜22時に小網地域センターで行っており、諏訪神社の例大祭がある7月に入ると日曜日、月曜日、祝日以外は、大祭前まで毎日練習が行われる。

笛は立って後方で演奏太鼓は座布団に座って叩きます
小太鼓の角度はかなりきつい子供たちはタイヤで練習
後半に向けて徐々に熱が入る最後に太鼓を緩めて解散です


神輿

  神輿の製作年代や渡御の始められた年代は不明である。お浜降りは津久井湖が建設されるまでは元第六天社のあった近くの相模川で行われていた。現在は津久井湖の側で行われている。



祭礼の歴史

  諏訪神社の例祭日は江戸時代後期には7月23日であったが、近年は7月23日近くの土・日曜日に行っている。太井地区では現在、3つの神社の祭礼が執り行われ、下記に令和5年(2023年)度の日程を記載する。

  諏訪神社例大祭・・・令和5年7月22日(土) 神事 午後1時
  第六天社祭礼・・・令和5年9月3日(日) 神事 午前11時
  飯縄神社祭礼・・・令和6年6月23日(土) 神事 午前11時 当番(小網地区)

  太井村の天明5年(1785年)の『荒川牛頭天王初(始)まり』によると、鎮守とは別に村を挙げての祭りを執り行うこともあった。

「  天明3年(1783年)不作、4年(1784年)春凶作、米価高騰、夏より大役(疫)病はやり、白岩坂に杉の葉で厚板に屋根をふいて牛頭天王を祀った。しかし疫病おさまらず、村中が煩ったので、荒川八幡宮に宮を移し、天明5年初めて祭礼を始める。6月11日、御仮屋へ移し村中一軒ずつ天王様をお廻りし、祇園ばやしで廻った。15日夜は御浜下り、又祇園ばやしでお宮にお入れした。
  天明6年(1786年)から軒別のお廻りは取りやめ、大通りを11日にお廻り、これを例に年々祭礼を行う。御祭礼6月11日、村中祇園ばやしにて廻る。御仮屋は15日まで、15日は御浜下り、元の御宮の御入れする。6月15日より年々湯の花を行う。
  右は村中安全悪病を除け、子孫長久のため長く仕るべく候、以上
  天明5年6月 荒川 角田六郎兵衛 定め置く」

  上記のような天王社祭礼の行事を定め、夏祭として受け継がれ、勇壮な御浜降りは城山ダムができるまで行われてきた。牛頭天王は祇園天神ともよばれ京都祇園社の祭神であった。津久井県内各地にある「天王様」は疫病除けの神として祀られてきた。太井村で天王社の祭礼が定着した3年後に、似たような天王社勧請の動きが青野原村にもあった。



太井の歴史

  太井村の慶長9年(1604年)の総検地では田畑屋敷永四一貫六二六文が打ち出され、定納高永四〇貫六〇〇文、除地文として寿性院と泉蔵院がそれぞれ一間(軒)と確定した。名請人は永二貫文台の玄蕃を最高として計60人、うち屋敷名請人が36人となる。太井村は相模川舟運の基点であり、元禄2年(1689年)には相模川河口の須賀浦(平塚市)へ上下する高瀬舟七艘の他に、漁船の唐網船10艘があった。
  太井村の荒川組は中沢村から中野村に至る津久井道の相模川渡河点にあり、村行政の中心地である。ここに寛文5年(1665年)頃に荒川番所(五分一運上取立番所)が設置された。享保19年(1734年)の『村鑑』によると番所の面積は六畝二一歩で、代官手代1人、下役2人が昼夜詰め、津久井県内村々から相模川や陸路を利用して出荷される林産製品に五分一の運上を課して徴収した。また入会秣場(いりあいまぐさば)の札銭、相模川の鮎漁運上や高瀬船運上も取り立てた。また同書によれば川船役四艘分二四〇文を上納し、中沢村と太井村を結ぶ荒川の渡しには船二艘(馬渡船一艘・歩行渡船一艘)があり、この船頭給分として夏・秋に村々から一軒当たり麦・粟四升宛を取り立て、毎年10月には橋が架けられた。太井村の名主角田家は荒川組名主で、太井村全体の名主として村行政を監督した。荒川番所に近接して屋敷を構え、村方文書を伝承した。戦国時代甲斐国武田氏発給の朱印状模写三点があるが、これはかつて角田家が武田家に臣従したことを示しているのであろう。
  享保19年(1734年)の『村鑑』によると、集落のうち北根小屋組は根小屋村に接し、同村との境界になる城山御林は反別七四町余、本数22,000本があり、山守2人が置かれ、山守給として百姓一軒に鐚五〇文を出している。
  天保年間(1831〜45年)の『風土記稿』によると村高は三三四石一升九合(六位)、広袤東西一三町(10位)、江戸より一四里。東は相模川を経て中沢村(旧城山町)に、西は中野村、南は根小屋村、北は相模川の対岸にある三井村と接している。村の北部の境界を相模川が大きく蛇行し、その河岸段丘上に集落が作られ、「小網(こあみ)組・荒川組・北根小屋組」からなっている。
  慶安3年(1950年)の『津久井領絵図』では特に「太井のうち」と称し、「荒川・こあミ」を特記している。さらに本絵図の作成に関与した津久井領全27か村の名主3人連署の中に、三組の名主として九郎左衛門・小左衛門・助九郎の名が見える。当時の太井村が相名主(あいなぬし)制(同一所領の一村に複数の名主がいること)をとっていたことと、さらに村を構成する三組の独立性が強く、各組が一村としての性格を持っていたことが伺える。なお、同絵図で相名主制が確認できるのは太井村の他に、青根村・青野原村・長竹村・中野村と中沢村(旧城山町)、若柳村・与瀬村(以上、旧相模湖町)、吉野村・佐野川村・沢井村・日連村・名倉村(以上、旧藤野町)で、領内27か村のうち13か村が相名主制であった。
  



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