小稲葉こいなば(下小稲葉しもこいなば)

神社の紹介

  小稲葉は「下小稲葉」・「新屋」・「西屋」・「沖小稲葉」の4つの小地域で構成されているが、小稲葉全体で「八幡神社」を祀り(所在地は下小稲葉)、さらに新屋・西屋・沖小稲葉はそれぞれの集落内に「八坂神社」を祀っている。新屋・西屋・沖小稲葉の3つの地域は八幡神社の氏子であるとともに、それぞれの地域で独自に神社を祀っているので、いわゆる二重氏子のかたちをとっている。八幡神社の祭神は「誉田別命(ほんだわけのみこと)」である。境内社には神明社・金刀比羅神社(大国主命)・稲荷神社がある。
  江戸時代後期の神社の様相を天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』でみると、小稲葉村は鎮守「八幡宮」の他に「牛頭天王社(3社)」・「山王社」・「子神社(2社)」・「御岳社」・「社宮神社」・「神明社」・「稲荷社」・「熊野社(2社)」・「水神社」など多くが祀られていた。八幡宮の本地仏は銅板の阿弥陀像で、裏には相模国小稲葉郡八幡宮御正体暦応5年(1342年)2月16日の銘がある。天正19年(1591年)11月には社領として二石の朱印状が与えられた。また、八幡宮には神楽殿も設けられ、別当は本山修験で小田原玉龍坊霞下になる稲胤山大円寺と号した「龍学院」であった。
  寺院には曹洞宗で大神村真芳寺の末寺で、文禄3年(1594年)の紀立とされる稲葉山「安養寺」があり、慶安2年(1649年)に釈迦堂領として八石の朱印地が与えられている。また、臨済宗で鎌倉建長寺の末寺の延霊山「長生寺」があり、村内の玉川山「延命寺」を末寺にする。同じく臨済宗で建長寺の末寺の「養徳寺」、曹洞宗で大神村(平塚市)真芳寺の末寺である「保福寺」がある。他には「観音堂」や、飯綱権現を祀り当山修験で伊勢原村大覚院触下の「大善院」があった。
  寛永20年(1643年)の棟札がある。鐘楼は文化7年(1810年)最鋳、承応3年(1654年)の旧銘を彫ってあったが、太平洋戦争の時に徴発された。明治6年(年)7月30日に村社に列せられた。

社号柱鳥居
狛犬碑念紀
記念碑記念碑
手水舎御神燈
拝殿幣殿・覆殿
神楽殿
小稲葉児童館境内


例大祭

  『風土記稿』によると例祭日は旧暦の8月15日で、祭日は何度か変更されており、戦前では9月25日から10月7日に変わり、終戦後は4月23日となり、さらに近年では4月の第3日曜日に行われるようになっている。
  祭りのときには神楽の奉納を宵宮と本祭りの2晩続けて行い、かつては近郷近在から大勢の見物客が集まったようである。「小稲葉の芝居と蛇の足を見たことがない」などともいわれたようで、祭りのときにはもっぱら神楽が中心で芝居はほとんどやらなかったようである。

太鼓

  



神輿

  祭りには神輿の渡御があり、宮世話人と各集落の代表役員が紋付き羽織・袴の出立で行列を組んだという。現在は自動車に神輿を載せて巡行するようになっている。



小稲葉の歴史

  当地は市域最東部に位置し、鎮守八幡宮本尊の阿弥陀像背面銘には暦応5年(1342年)2月16日「相模国小稲葉郷八幡宮御正体」と刻しており、当地の地名の発出とされる。また、ほぼ同時期のものとして信濃国小笠原正長と推定されている書状に「かすやのしやうのうちに、こいなハのかう」とあり、もとは糟屋庄に属し、小稲葉郷と称したことがわかる。また、永禄2年(1559年)の『北条氏所領役帳』には、中郡小稲葉新田とみえる。『中郡勢誌』によると、村名の由来は小さい藺(イグサ科の多年草)が生えていた沼沢地を開墾したことから小藺沼(こいぬま)と呼ばれ、これが転化したとしているが詳細は不明である。
  江戸時代当初は直轄地で、元和7年(1621年)に近藤秀用領になった。寛永8年(1631年)にその子の貞用が遺領継承の際に領地を分割し、従兄弟の近藤用将に譲渡し二給の村となった。貞享元年(1684年)に用将領はその子用慶が家督継承の際に領地を分割して用賢に譲渡し、近藤三氏が支配する三給の村になったが、宝永6年(1709年)に用賢は継嗣がいないまま没したため幕府に没収され直轄地となった。享保3年(1718年)にその直轄地は駿河国松永藩主(のちの荻野山中藩)大久保教寛領になったが、同15年(1730年)にその弟の教平に譲渡された。この近藤二氏と大久保氏の支配は幕末まで続いた。検地は慶長8年(1603年)に青山忠成によって実施されている。
  小名には「新屋」・「西屋」・「沖」・「仲西」・「落堀」・「寺町」・「掘之内」・「下枝」がり、高札場は3ヶ所であった。また、平塚宿大助郷になり、文政寄場(改革)組合は田村外三五ヶ村組合に属した。
  小稲葉村には主要な往還の通過はなく、村内には玉川・歌川・戸張川が流れていた。玉川(現在は暗渠)が幅六間(10.8m)で村内の中央を通り、ここには一丈三尺(3.9m)の堤が設けられ、3ヶ所に板橋がかけられていた。その西側を歌川が幅二間(3.6m)で流れ、村の南部で玉川に合流する。また、東側からは戸張川が幅九尺(2.7m)で流れ、村の東部で玉川に合流する。玉川周辺には延享2年(1745年)に流作場が設けられた。


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