小鍋島こなべじま

神社の紹介

  小鍋島の鎮守である「八幡神社」の旧称は「八幡宮」で、社殿の建立年代を示す資料はないが、17世紀後半のものと推定される。大正初期から中期頃までは八幡神社のほかに、長島に「弁天さん」と城東に「山王さん(天王さん)」の両社があったが、当時合併せざるをえなくなり2社共に八幡神社に合祀した。しかし城東では戸主にあたる人が2・3人死ぬという事態が生じ、これは崇りであると考えられ独自に山王さんを祀ってきている。
  当社では神社合祀にあたり次のような伝承がみられる。「弁天様」と「山王様」を合祀する際に、2社のオミタマを絶対に人に見せないようにした。先に神社合祀をした伊勢原市内のある神社から小さい神輿を拝借し、夜中の丑の刻に全ての明かりを消した暗闇の中で、神主がその神輿の中に弁天様と山王様のオミタマを入れた。神主も見てはいけないので目隠しをし、手探り状態でかつ息をかけないように布で口を塞いだ。オミタマの入った神輿を若い衆が担いで八幡神社へ運び、神主が真暗闇の中で手探りでオミタマを取り出し移したという。その後、戸主が2・3人続いて死去したので、「山王様の祟りだ」ということで元の場所に戻して祀っている。

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八幡神社鳥居
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拝殿幣殿・覆殿
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神楽殿
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境内


例大祭

  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によれば例祭日は旧暦の8月15日であったが、その後は大正時代の中頃まで9月15日であった。さらに上記2社の合併に伴い、当時近隣のムラでも祭礼日になっていなかった4月6日に変更したが、昭和後半頃から4月第1日曜日になっている。
  大祭当日に神社境内に幟を2本立て、ムラ中の人が全員出席して、大神から神主が来て祝詞をあげてもらう。宮総代は祭りの時に神社境内に露天商が出たので、彼らの監督をして帰るまでニワ番をしたり、神社の屋根を葺き替えるための真茅を刈りに行ったという。その費用はかつて神社が現在の公民館のあたりに土地を所有していたので、その土地を貸して得た小作料をその費用にあてたという。

太鼓

  昔は太鼓連が太鼓を叩いたが、今では太鼓保存会がやっている。



神輿

  近年になり子供用の樽神輿が出るようになった。



青年会

  「青年会」は「青年団」へと変わったが、かなり以前に「匡風会」という会があったという話もある。かつては小学校を卒業すると次三男もすべて加入し、25歳までかあるいは結婚して抜けた。当時は誰もが当然に青年団に加入し、加入したばかりはワカイシュといってはしり使いをさせられたが、聟養子であると年をとってもコワカイシュからつとめた。
  青年団の主な仕事は村の祭礼に関するもので、その他に神社の清掃・道路の修繕などがあった。祭の仕事とは幟立て、提灯の補修、神楽殿の掃除、むしろ集め(桟敷作りに用いる)、神楽役者用の弁当を各家から集めること、役者用の風呂の用意などたくさんあった。青年会の役員が余興として、神楽・芝居などの交渉をして連れてきた。茅ヶ崎の円蔵から神楽師を呼んできて、この神楽師は面をとって芝居もしたという。第二次世界大戦後はやらなくなったという。また、中郡北部10ヶ村の青年団に城島が加わっていた頃は、地区対抗競技を盛んに行っていてた。
  対村外的には城島青年団として4部落が1つになっていた。昭和8年(1933年)当時には120〜130人の団員がいたが、昭和54年(1979年)は2人、翌昭和55年(1980年)は7〜8人であったという。


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