大神おおかみ

神社の紹介

  「寄木神社」は大神地区の鎮守社で、旧称は「寄木明神社」である。古くは「天照大神」を勧請して祭神としたが、現在では「大己貴命(おおなむちのみこと)」を祭祀している。当社縁起によると貞観元年(859年)3月5日に大神朝臣田村麿が、相模国大住郡の大領として京都より大神の地に下向され、この大神朝臣が大領であった頃にその氏族の遠祖を崇敬し、当社に祭祀したのが寄木神社であるという。
  寄木神社は相模川に関連を持つ神社で、社名の由来は相模川の川岸に材木が寄りつき、それを拾い上げて祀ったとか、その材木で社を建立したといった由来がある。また、神社裏手にあった別当「寄木山観音寺」は神仏分離のために廃寺になり、現在は横内の「神田寺」が管掌している。
  大正12年(1923年)の関東大震災では社殿が倒潰したが、大神中の臼を用いて屋根を上げて柱を入れた。

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寄木神社鳥居
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手水舎鐘楼
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石碑石碑
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見猿・言わ猿・聞か猿燈籠
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拝殿覆殿・幣殿
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神明社石祠
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神楽殿境内


例大祭

  祭礼日はかつて9月17日であったが、大正の頃から10月3日となった。一時期、養蚕の関係で10月8日に祭りを行ったこともあったが、現在は10月第1日曜日である。寄木神社の境内には「八坂神社(お天王さま)」が合祀されている。八坂さんの祭礼日は7月10日であったが、現在では寄木神社の祭礼日と一緒に行っている。
  昔は10月2日の宵宮に地芝居が境内で行われ、相模の歌舞伎座といわれた舞台なので、この舞台で踊って誉められたら「とてもよい役者だ」という評価が得られたという。そのため、芝居師が大船、座間、厚木方面からいい役者を連れてきた。それ以前は大神でも役者を演じていたものがいたという。役者は徳川家康の隠し砦であったといわれる般若院の境内で稽古をした。歌舞伎芝居は昭和10年(1935年)頃まで行われた。また宵宮に素人のど自慢をしたことがあるという。
  神楽殿が築かれる前は各家々から立ち臼を集めて、その臼を敷いて臼の上に真芳寺から持ってきた丸太(角材)をのせて舞台を作った。その周りは葦簾で囲んだ。これらの準備は芝居に明るい人たちが当たったという。演目は二十四孝や先代萩などであった。



大神

  大神は北からカミ(上)・ナカ(中)・シモ(下)の3つに区分され(宿を加えた4つということもある)、この3区分が表面化するのは寄木神社祭礼の時で、幟立てや庭の掃除などの準備は上・中・下が毎年交替で勤める。大神の集落はその内部がさらにチョウナイ(町内)と呼ばれるまとまりに分かれていて、上は上町、中は中町・西町・宿町、下は七軒町・十三軒町に区分され、さらにバンバ(番場?馬場)町を加えた計7町内が存在する。バンバを除く6町内は道祖神を祀る信仰者の範囲となっている。
  大神は本来は「おおかわび」と呼ばれ、相模川沿の「大川辺(おおかわべ)」を意味する地形名であるが、いつの頃からか「おおかみ」と称し「大上」の文字が当てられ、さらに「大神」となったといわれる。



青年会

  「青年会」は第一支部と第二支部があって15歳で加入し、45歳までのものが入っていた。地震(関東大震災?)後25歳までとなり、「神田村青年団大神支部」として一本化した。青年団となってからは25歳で抜けた者が大正13年(1924年)頃に「至誠団」という団体を作ってそこに入った。至誠団は40歳までの人が入っており、消防・水防・神社のことを受け持っている。祭礼は昔から若者組みが仕切っており、至誠団になっても祭りの余興部門を任されていた。
  相模川の河川敷に青年達が柳の木を差して土地が流れないようにし、時々その枝を切って大磯まで売りに行き青年団の費用にした。また、青年団は12月から3月頃までの農閑期には俵編みや縄ないをして過ごし、毎晩、各家々を交替にして集まり、乾燥芋や落花生を食べながらおしゃべりして作業をした。農閑期には小学校を借りて夜学をしたこともある。青年達のたまり場としてクラブがあり、火の番もここに集まって行った。

大神太鼓

  寄木神社の氏子に伝わる「大神太鼓」は「大神寄木神社囃子太鼓連」によって伝承されており、田村囃子系の囃子である。囃子の構成は寄木神社例祭で櫓を組んで演奏する居囃子では「大太鼓1」・「締太鼓6」・「鉦」・「笛」で構成され、トラック山車の上で演奏する囃子は「大太鼓1」・「締太鼓3」・「鉦」・「笛」で構成される。曲目は「屋台」〜「宮昇殿」・「昇殿」〜「神田丸」・「鎌倉」〜「仕丁舞」・「屋台」である。



神輿

  寄木神社境内には八坂神社があり、その八坂神社祭神を祀る神輿(「八坂さん」ともいわれる)がある。この神輿は大神村から依頼をうけて、大山の大工「手中明王太郎景元」が明治12年(1879年)6月に建造したものである。完成した神輿は白木造りに仕上がり、大神では「白御輿(シロオコシ)」と呼んでいて、荒っぽいのが有名だったので神輿に色を塗らなかったという。昭和15年(1940年)に大改修が行われ、景元の息子の「明王太郎景堯(かげたか)」が改修を手がけた。改修は屋根の形を変えるなどの大掛かりなもので、このとき漆塗りの神輿に生まれかわった。その後、昭和59年(1984年)9月に東京浅草の宮元卯之助商店において再修理が行われた。

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八坂神社神輿殿


●明治12年の普請
  明治12年2月に大神村の神輿世話人の小谷源蔵・深石久吉・岩崎徳左衛門等から、影元は神輿の普請を請け負った。そのとき取り交わされた請負証文の控えが伝わっており、それを読み下し文にしたものを下記に示す。

「  前書御神與請け負いの廉々巨木(かどかどこさい)木地大工方彫り物ならびに金物などに至る迄、代金百四拾五円也、定約仕り、手付金として二拾五円也只今正に受取り候所確実なり。然る上は、本年六月二十八日限り皆出来申す可く候。もし万一仕様の細工、違談の場所ご座候節は、加判の物ども罷(まか)り出で、定約の通り急度(きっと)出来申す可く候。後日のため請負書証差し入れ候。よって件(くだん)の如し。
  明治十二年二月十一日  手中明王太郎
                      村山千秋
  相模国大住郡大神村 御神與御担当人中様 」

  神輿の普請を請け負ったのが明治12年2月11日で、完成引渡しの期日が同年6月28日と請負証文に約束された。建造期間が4ヶ月半といたって短く、このときの棟札は見つかっていないが、約束通り6月末日までには完成したと思われる。神輿の請負代金は一四五円也であったが、このあと2月21日に唐戸彫刻と組物尾垂木彫刻の追加注文があった。その代金が三十円也であったと「神輿彫刻追加注文請負証」に記されており、神輿の合計請負代金は金一七五円也となった。
  明王太郎の書き残した日記の中に大神村の神輿請負の記録が載っており、その部分を抜粋して次に記す。時は明治12年の冬2月である。

「  二月七日(明治12年) シオテ(あられ)降る。当国大神村御輿新造建無心に罷(まか)り出(い)で候。世話人小菅次郎様・小谷源蔵・深石久吉・青木金左衛門・岩崎徳左衛門・川崎徳左衛門・川崎次郎右衛門・深石弥八・青木冨八・伊藤武左衛門、十二時罷り出で候に付き、ひと通り掛け合いおり候所、すず村氏罷り出で候。左に大神村世話人同道、真田村罷り出で候なり。なお天徳寺一泊致す。(中略)
  二月八日 晴、弥(いよいよ)八坂神社御輿、手中始め大神村世話人一同にて百事談事致す。弥軒先幅五寸せまく致し候て、定約す。(中略) 神輿仕様帳認(したた)め、木口大工方・彫り物・金物などに至る迄、合わせて金百七十円也見積書正にあい渡し候なり。なお本月十一日晴雨とも世話人大山表出張定約確実候也。(中略)
  三月一日 雨、手中宅にて大神村八坂大神御輿雛形出来、ならびに千代太郎・留吉彫物木取り致し候也。 」

  日記によるとあられの降る寒い日に、明王太郎は大山から半日歩いて大神村に出向き、泊まり込みで大神村の世話人と百事談事を行った。2日目も談事を続けるのであるが、神輿代金の折り合いがなかなか付かず、軒の寸法を調整することでやっとまとまり約定となった。見積書を提出して明王太郎は一旦大山に帰り、3日後に大神村世話人の一同が大山に出向き契約を取り交わした。

●神輿請負仕様書
  請負証文を取り交わすとき、神輿の仕様書が大工から大神村世話人に提出された。これが「御神輿仕様請負証」であり、内容を少し見ていく。まず初めに気付くのは塗りの仕様が見当たらないことで、神輿は当初白木に造られたのであった。請負証文の木地方の部分は仕口(しぐち)が丁寧に記されていて、例えば掛け鼻腰蟻・大留車知打(おおとめしゃちうち)・蟻差(ありさし)・込栓留(こみせんどめ)等々の仕口が使われている。
  請負証文には「真棒八角柱一本、但し槻木」と記しているが、明王太郎が造った八角の真柱は近年東京で修理した際に、柱の上部が旧来の八角柱のまま下部が四角柱に変わっている。また、請負証の冒頭に「箱台輪幅三尺八寸に定め」と書き記されているが、実際に箱台輪の寸法を測ってみると四尺五分あり、二寸五分ほど大きい。その後の修理の折に神輿を大きく見せるため、箱台輪の寸法を変えたと思われる。
  請負証には神輿の各部材の材料が明記されており、柱・長押・頭貫・丸桁・箱台輪などの主要構造材は全て欅であり、鳥居・井垣に至るまで欅を用いている。その他は屋根板が檜、垂木が朴(ほお)木、組物が桜材となっているが、全体的に見て8〜9割は欅材を使っている。

●昭和15年の大改修と棟札
  昭和15年に神輿は大改修が行われ、当時の請負契約書が保存されている。それによると5月に改修の契約が結ばれ、完成の期日が9月30日であった。手がけた大工は手中明王太郎景堯で、新造時の大工の景元の息子である。契約書には修理代金が金一千八一四円七十銭也と明記され、注文主として氏子総代の細野倉吉、神主の沖津政由、神輿世話人の小谷言治・福田恵助の名前が記されている。
  改修は新しく作り直す部分と補修して再使用する部分とがあり、大半がすっかり新しくなった。新しく造ったものは屋根・軒・胴などの主要な部分で、残りの箱台輪・鳥居・井垣・桝組・彫刻・金物などは補修して用いた。景堯が昭和15年に書いた「神輿改修仕様設計書」が伝わっている。そのなかに「家根古留軒唐破風造」と書いてあり、従来は方形四方流造であったのが、このとき屋根を新しく造り直して四方軒唐破風造にすることが記述されている。屋根の野筋の4ヶ所には新しく目貫龍の彫刻が付き、従来の白木の神輿がことのきに塗り神輿に変わった。
  景堯は神輿が完成したときに棟札を内陣に取り付け、その控えを書き記していた。棟札主文には奉修理八坂御神輿と記されており、八坂大神を祀る神輿であることが分かる。完成引渡しの日付が昭和15年10月6日と墨書きしてあり、ほぼ契約書の期限どおりに出来上がった。棟札には社掌沖津政由及び社総代小泉彦三郎・岩崎武治、以下氏子21人の名前が列記してある。



神輿渡御

  かつてはカミ・宿・ナカ・シモから「コシ世話人」といって各4名ずつの役員を出し、3年交代の廻り順のため「廻り世話人」とも称された。コシ世話人は「ハクチョウ(白丁・白帖)」といわれる神輿の担ぎ手を頼みに行き、またコシ世話人の中から粽(ちまき)を作る家、ニワモトが4軒出た。コシ世話人は祭礼の時に神社へ集まり、祭りの下準備や世話などをし、2日前の晩から神社に宿泊して留守番をした。その他には、前日に出る子供神輿の世話をした。
  10月3日の大祭当日は白丁を身にまとった者が神輿を担いで、神主を先頭に世話人などと一緒に村内を渡御した。途中、村内に設置されたツジオミキ(辻御神酒)で神輿を休ませて神主が祝詞をあげ、白丁の者は酒の振る舞いを受ける。ツジオミキは村境の5ヶ所で行われ、昔は吉際まで神輿の渡御があったという。さらに神輿は相模川の河原に出て川の中に入って水禊(みそぎ)をし、その際に神主・世話人・白丁などが一緒について行って立ち会った。かつて川で神輿が流されたときに空腹で神輿を引き上げられず流してしまったので、沖津氏の祖先が4升の御飯を炊いてオムスビにして、胡麻塩を振りかけたものを担ぎ手の白丁たちに持参して配ったという。それ以来、禊の際には河原でオムスビが配られるようになったが、戦争で米が無くなってからは中断して途絶えた。近年は以前のように川に入水しないので、空地でバケツの水を浴びて禊をするようになった。
  ムラの中を渡御してきた神輿が寄木神社に戻ると、世話人が神楽殿の上からから粽を撒いた。粽は茅で巻いて2輪にしたものを撒いたが、怪我人が出るようになったので粽を紙で巻くようになった。その後、神主が祝詞をあげてから神輿を「コシゾウ」に入れ、このコシゾウとは神輿を収蔵しておく倉のことである。


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