南矢名みなみやな

八幡神社

  「八幡神社」の祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)である。古老の言い伝えによれば、往昔村人某、山城の男山八幡宮を勧請し宇宮田に祭祀された。文禄3年(1594年)の棟札に本願杉山宗讃や大工鈴木治部左衛門秀長の名があり、元和5年(1619年)の棟札にはさらに今井・清水・前田・平井・高橋・小沢・青木等の姓を持つ人々が見受けられる。大工の鈴木秀長は天正9年(1581年)に下大槻村の牛頭天王社を造営している。慶長13年(1608年)と元和5年(1619年)の棟札に見られる大工鈴木長右衛門秀盛も同社の造営や修理に携わっている。現在の社殿は享保18年(1733年)の造立である。
  神体木像高さ七寸、南矢名鎮守として村民の崇敬篤く、天正19年(1591年)に徳川家康公、当地巡視の折社領高六石の御朱印を下賜された。明治6年(年)7月に村社に列格し、大正2年(年)9月23日に指定村社となった。
  本殿は「三間社入母屋造(さんげんしゃいりもやづくり)」という形式で、平成15年2月12日に秦野市の重要文化財に指定されている。正面から見ると柱が4本あり、柱と柱の間の数は3つになるため、こういう形式を「三間社(さんげんしゃ)」と言う。大きさは正面が約4.1m、奥行きは約2.6mで、市内の神社本殿では最大規模である。建立年代は棟札によって元禄3年(1690年)と考えられている。
  この社殿のみどころは、柱の上部に付けられた獅子や獏(ばく)の彫物や、正面柱の背面上部の「篭彫(かごほり)」という手法で作られた「手挟(たばさみ)」という部材など、たいへん豊かな装飾で飾られているところである。また、社殿の四周に設けられた廻り縁は「腰組(こしぐみ)」で支えられているが、こうした手法はこの社伝が造られた時期としては大変進んだものである。柱などの主要な部材には良質の欅が用いられている。神社の屋根は切妻造(きりづまづくり)が一般的だが、秦野市内の神社には入母屋造が多いのも特徴である。

八幡神社鳥居
拝殿本殿
神楽殿
境内

太鼓

  南矢名地区の祭ばやしは「南矢名下部はやし連」によって伝承されている。
  囃子は「大太鼓1」・「締太鼓2」で構成され、「宮承伝」・「鎌倉ばやし」・「寺承伝」がある。八幡神社祭礼には山車で巡行し、日枝神社の祭礼(10月15日頃)でも演奏される。



神輿

  



例大祭

  例祭日4月15日



南矢名の歴史

  『風土記稿』にある小名(当時の大字)は「矢名宿」・「根古屋」・「瓜生野」・「宮田」・「北久保」・「平内久保」・「小南」であり、天保5年(1834年)の戸数は107であった。


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