中荻野なかおぎの

稲荷神社

  「稲荷神社」は字「稲荷木(いなりぎ)に鎮座し、本郷(ほんごう)公民館が併設されている。社全には赤い鳥居があり、桜と銀杏の大樹が左右に並んでいる。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には「稲荷社」と称し、「戒善寺」の持社で社地には庵があり、社を守護する僧が住んでいたとある。中荻野村のこの他の神社・小祠には灌頂院持ちの「山神社」・「荒神社」・「子神社」・「山王社」、戒善寺持ちの「山王社」・「第六天社」・「七夕社」・「聖真子社」・「弁天社」、村民持ちの「石神社」が記載されている。
  『愛甲郡制誌』によると祭神を「大宜都比売命」とし、享和3年(1718年)2月に僧日清再建した。また、明治年間の神社明細帳によると「享保三年二月満星山戒善寺三十九世日清勧請別当として、奉幣し来りしが、維新の際、神官之を司る所となる。」と記されている。
  稲荷社は穀物の神「倉稲魂神(うかのみたまのかみ)」を祀って信仰するところが多く、倉稲魂神の姿は蛇や狐で現されてきており、当社で祀る御神体も白狐に跨った神像である。また、慶応元年(1865年)に中荻野村の土屋平左衛門が奉納した「けいす」が蔵されている。

稲荷神社本郷公民館
社殿鳥居
燈籠
境内


例大祭

  例祭は4月11日で、同じ中荻野にある「厳島神社」と交互に行っている。

囃子

  



神輿

  



中荻野の歴史

  旧中荻野村は厚木市域の北西部に位置し、村域は、北東部は鳶尾山地、南西部は中津山地南端部の標高の低い丘陵部に、中央部はこの2つの山地に挟まれた平坦な荻野台地にある。2つの山地は開析が進んで大きな浸食谷があり、幾筋かの小河川が村域中央を流れる荻野川に注いでいる。村域中央を荻野川に沿って甲州道が通っている。周辺は、東側は下荻野村、南・西側は飯山村、北側は上荻野村・棚沢村に接している。なお、当村から離れた北西の中津山地と北の鳶尾山地には飛地がある。
  中世の頃は「荻野郷」に含まれていたと考えられている。『風土記稿』の上荻野村の項では分村の経過について、「慶長八年改あり、此時上下二村に分る、中村を後年下村より分析せしなり、按ずるに正保の改には既に三村となる。」と記し、当村の項では「寛文五年に下荻野村より分村せしと云ど、正保の改には既に三村を載たれば誤なり」と記している。
  旧集落は荻野川に沿った甲州道沿いに「バンバ」・「ホンゴウ」の2集落が、やや内陸に入ったところに「グジョ」集落がある。『風土記稿』は小名として「馬場村」・「公所」・「中金井」・「升割窪」・「山中」・「本村」を載せている。なお、同書は公所・中金井・升割窪、山中を「下荻野村犬牙の地」と註しており、両村の村境はこの頃は未だ明瞭ではなかった。山林が村域の2/3を占め、耕作地は台地の畑地が大部分であり、水田は荻野川沿い沖積地と山地を開析する小河川に沿っていわゆる谷田(ヤトダ)を開いてきた。北部の鳶尾山地の入会地は「御炭山」と呼ばれ、江戸期には幕府に茶事用として献納した炭を産した。北西部の中津山地の飛地一帯は「西山(ニシヤマ)」と呼ばれ、下荻野村とで管理した松林があった。『風土記稿』によると幕末の戸数は180戸であった。
  近世の支配は、中期まで幕府領、以後は大名大久保氏の所領となり、天明3年(1783年)には大久保氏の居所が小名山中に移された(荻野山中陣屋)。なお、『風土記稿』では小名山中を本村で取り扱っているが、現在の山中は下荻野に含まれる小字である。明治22年(1889年)に上荻野村・下荻野村と合併して荻野村大字中荻野となり、昭和31年(1956年)の合併後に厚木市大字中荻野となる。北東部の鳶尾山南麓一帯は日本住宅公団(現住宅都市整備公団)によって大規模な鳶尾団地が造成され、昭和52年(1977年)に「鳶尾」の住居表示が実施された。南西の丘陵部にも住宅団地が建設され、一部は下荻野にかけて荻野運動公園が建設された。清川村・愛川町にかかる宮が瀬ダム建設に伴って、ダム底になる清川村宮が瀬集落の住民の移転地とする住宅地が北西の中津山地南端部で造成され、昭和58年(1983年)に宮が瀬の地名を冠して「宮の里」の住居表示が実施された。


戻る(厚木市の祭礼)