中瀬なかぜ

中瀬大神

  当社は天平宝字年間(757〜765年)に僧・行基の開基した景観寺の鎮守として同時に創建されたものと伝えられ、後に中瀬地区の氏神として尊崇されるようになった。明治以前は「神明社」と称したが、明治2年(1869年)に村社へ列格された際に「中瀬大神」と改称した。祭神は「大日?貴尊(おおひるめむちのみこと)」を祀る。
  江戸時代の中瀬村の神社に関する史料は天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』のみであり、安政2年(1855年)の中瀬村『取調書上帳』でも天台宗日向村(伊勢原市)の浄発願寺末の景観寺の除地の記載はあっても、神社に関する記載をみることはできない。『風土記稿』によると「神明社」1社が記されており、景観寺の項目のなかに記載されていることからすると景観寺の境内に存在し、その支配に関しても景観寺が行っていたことと思われる。
  この地域に関しては地租改正時の史料がなく、景観寺に隣接する現在の神明社が江戸時代以来どのような土地の所有の構成をしていたのか、またその規模がどの程度であったのかを含めて古文書などの史料で確認することはできない。しかし、明和7年(1770年)9月の日付を持つ石灯籠によって唯一、神明社が少なくとも明和期には存在していたことは確認できる。碑文によれば「奉献神明宮」とあり、2基の石灯籠が明和7年に奉納された。『風土記稿』の景観寺の項目の最後でも明和7年に鐘鋳造の記載があり、明和期に景観寺・神明社ともに周囲の信者による奉納が相次いでなされていたことのみが僅かながらわかる。
  江戸時代と同様に近代以降の神明社の変遷についても、史料的に把握することが困難であるが、その神社支配に関しては一之宮村のところで述べたように、神明社は明治3年(1870年)4月28日に一之宮村八幡大神の復飾神官井上正の支配下に入れられている。

神明社(宮)鳥居
社殿石灯籠