真土しんど

神社の紹介

  「真土神社」は真土地区の氏神社で創立年代は不詳である。古くはこの地を大住郡新土村と称し、字は「大新土(おおしんど)」・「古新土(こしんど)」・「今里(いまざと)」・「三谷」に分かれていた。大新土には現在の真土神社である「白山社(祭礼は4月15日)」、古新土に「神明社(祭礼は1月21日)」、今里に「諏訪社(例祭は6月27日)」、とそれぞれ敬信する氏神社があり、この3社は明治の頃に「白山社」に合祀された。明治の初めに大住郡と橘郡を合併し中郡となり、近隣の村々もまた合併し大野村ができた。新土村は大野村真土と改められると共に、明治年間(1868〜1912年)に前述の神社と「本宮神社」・「八坂神社」・「稲荷神社」・「御嶽神社」を合併し真土神社の一社になった。従って祭神は「権御名方命(た?けみなかたのみこと)」・「天之御中主命(あめのみなかぬしのみこと)」・「伊邪那美命(いざなみのみこと)」・「天兒屋根命(あめのこやねのみこと)」・「天照皇大神(あまてらすおおみかみ)」・「宇迦御魂命(うがのみたまのみこと)」・「須佐之男命(すさのおのみこと)」・「日本武命(やまとたけるのみこと)」と数が多い。
  『平塚市郷土誌辞典』によると、新土は往古には村内を「大新土」と「古新土」の2区に分かれており、大新土には「白山神社」、古新土には「諏訪神社」を勧請していた。真土はもともと「新土」と書き大野一部を新しく開拓した所の意であると思われるが、それを「真土騒動」の中心人物「松木長右ヱ門」が明治の初めに村名を真土と改め、小字区画も小字名も全部改めた。明治3年(1870年)8月には諏訪神社を白山(はくさん)神社に合祀し、白山神社を真土神社と改称して現在に至っているとある。字名と祀っていた氏神社との対応については正確な記録は残っていないが、おそらく今里・古真土で諏訪社を祀り、大真土・三谷で白山社を祀っていたものと推測される。現在の真土は9組の自治会があり、「大真土西」・「大真土東第1」・「大真土東第2」・「三谷」・「古真土のイリッチョウ」・「古真土のキタッチョウ」・「今里の西町」・「今里の東町」・「今里の南町」に区分され、真土神社が総鎮守となっている。

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真土神社参道
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社号柱鳥居
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神社由緒
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鐘楼手水舎
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神楽殿
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狛犬燈籠
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拝殿幣殿・覆殿
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境内


例大祭

  例祭日は明治8年(1875年)の『皇国地誌残稿』によると7月27日で、昭和8年(1933年)の『吾等の郷土』によると4月15日とあるが、現在は4月第2土曜日になっている。
  祭りには各家で祭提灯を下げ、神輿が出てムラ中を練り歩いた。夜は境内で芝居などの余興が催され、太鼓も出て余興の合間に叩かれた。祭日には各家で御馳走をつくって、親類などを呼んで御馳走した。
  かつて横内から7日のうち2日間水を貰って真土へ流したことがあり、真土は横内に対して頭があがらなかったという。そのため、横内のお祭りには酒を1樽奉納した。

太鼓

  



神輿

  神社合祀前には八坂神社に神輿があったが、歴史によれば御神輿渡御は部落の紛争の元となり、遂にいずこかに売却されたという。その後長い間新土神社には神輿はなかった。
  昭和初期に青年たちの間で敬信と共に若者の力の結集を求め、その象徴としての神輿再建の話が上がり、昭和10年(1935年)の秋には新土神社氏子の総意を結集することとなった。神輿再建は部落をあげて委員会を結成し、特に青年団は実行委員として資金の寄進と設計推進にあたり、当時米価が一表四円、日当が七十銭の不況の中で、大枚壱阡円の基金の調達を成し遂げることができた。
  製作者は半原大工の矢内高秀(墨書)(荻田寅十郎と聞く?)で、素材は全て欅造りで、彫刻は華麗にして近隣の称賛を得た美事な出来栄えであった。更に塗装を施し立派なものとせんとの話がでたものの、大枚五百円の資金は調達のすべもなく、素木のまま近年に至った。完成祝賀は昭和11年(1936年)4月12日、続く4月15日の例大祭は7ヶ所の神酒所を始め、桜吹雪の中で各戸が神酒を捧げ氏子あげての盛大な祭りとなった。
  大東亜戦争により暫くは神輿渡御が途絶えていたが、最近に至り復活した。

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神輿殿


大塚山古墳

  四之宮・真土・八幡・中原などの部落にはかつて古墳が多く存在した。四之宮の「鐘堀塚(かねほりづか)」、真土の「日和山(ひよりやま)古墳」、同じく真土の山のノ台の古墳群、八幡の「四(よ)ツ塚」、中原の「的場(まとば)古墳」・「御殿山(ごてんやま)古墳」・「城見(しろみ)塚」などが記録に残っているが、戦後に次々と崩されて現在あるあるものはいくらもないようである。
  これらの古墳のなかでもっとも巨大なものは「大塚山古墳」で、これは長径60m・公円部の直径15mほどの前方後円墳と推測され、現存する相模国全体の古墳のなかでは最大のものである。その所在地は前鳥神社の西方1500mほどのところで、四之宮から真土、さらに中原方面に連なる砂丘台地の最高所(海抜17m)にある。大塚山古墳については古墳の形が良くわかっておらず、前方後円墳説・前方後方墳説・円墳説の三説がある。この最大の原因はすでに消滅しているためで、残っているのは調査した時点の地形測量図だけである。
  真土小学校の南側にある「真土大塚山公園」があり、この公園のあるところは「十四之域」で、現在は新旧民家と社宅の混在した住宅地である。公園の南側には第2列砂丘が東西に伸び、その砂丘上には「大塚山」・「三谷山」・伊勢山と呼ばれる孤立丘状の微高地があり、そのうちの大塚山の名がこの公園の名となった。大塚山古墳は現在の日産車体の寮がある一帯の地域にあったが、この寮の建設で消滅したため、その当時の測量図を基に原型地に近い形の古墳を再現しようと造成されたのがこの公園である。
   昭和11年(1936年)1月に石野瑛や後藤守一その他数氏によって大塚山古墳の発掘調査が行われ、その記録によると発掘の場所は後円部の中央、長さ9m・巾4.5m・深さ1.5mにおよんだ。その出土品としては漢鏡1枚(直径21cmある白銅製)、変形四獣鏡1枚、巴形(ともえがた)銅器4個、楔形(くさびがた)鉄器、玉類(勾玉・丸玉・管(くだ)玉1顆・ガラス玉)、直刀その他の武器の断片数個、白銅鏃(どうぞく)50本、土器(埴器破片20余個?)や人骨が出土した。そのうちの漢鏡は中国の魏(ぎ)の代(西暦220〜265年)に製作されたと推定される舶載製(中国製)の「三角縁四神二獣鏡」で、京都府相楽(さがら)郡高麗(こま)村椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳のそれと同笵(同じ鋳型から鋳造された鏡)であるということが判明している。
  鏡や玉類から四世紀後半に造られたものであり、大塚山古墳は砂丘上に造られているのが大きな特徴で、南関東を代表とする前期古墳として有名である。川崎市の白山(はくさん)古墳(前方後円墳)でも三角縁神獣鏡が1枚発見されているが、年代は大塚山古墳より新しい。
  平塚市の北部、四之宮部落を含む砂丘地帯に古墳が多いばかりでなく、それらが大塚山古墳をはじめとする巨大な前方後円墳であるという事実は、かつて古墳時代に相模国全体を支配するような権力を有する豪族が、この地方に蟠居(ばんきょ)していたことを物語るようである。そしてこのような有力な豪族は当時の国造であったとも推定され、相模国造たちは砂丘地帯の北方や西方の沼沢地をそれぞれ開拓し、農耕地を拡張しながらその富力や支配力を増大していったと考えることができる。



三角縁神獣鏡

  不思議な霊力が宿り、自分の姿を写しだす唯一の道具が鏡である。鏡は弥生時代中期(紀元前後頃)から出土し、現在に至るまで素材は変わりながら受け継がれている。鏡が多く出土するのは古墳時代(三世紀後半〜七世紀)からであるが、前期古墳(三世紀後半〜四世紀)には「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」が発見されている。三角縁神獣鏡は縁が三角をなし、神像と獣が施されているもので、中国製の「舶載(はくさい)鏡」と日本製の「倣製鏡」がある。
  三角縁神獣鏡は中国・三国時代の魏から邪馬台国の女王・卑弥呼へ贈られたとの説があり、大和政権は発展期に自前で鏡を造って地方豪族に与えることで、国を支配する戦略戦略としていたと思われる。椿井大塚山古墳は大和朝廷の大首長の墓であり、32枚の三角縁神獣鏡が出土している。椿井大塚山古墳と同笵の三角縁四神二獣鏡(陳是作鏡甚大好、上有王父母、左有倉竜右白虎、宜遠道相保)は、岡山県車塚(くるまづか)古墳2枚と真土大塚山古墳1枚の計4枚が発見されている。
  相模国真土の大塚山古墳の被葬者は四之宮の前鳥神社の祭神の菟道稚郎子であるとの説もあるが、たとえそれが菟道稚郎子ではないにしてもよほど勢力のあった相模地方の豪族で、大和政権とは深い交渉・連絡を持っていたことが伺われる。おそらくこの三角縁神獣鏡も大和政権より下付されたもので、被葬者はこれを終世財宝として尊重し保蔵していたものと思われる。鏡を所有できた背景には相模川によって形成された肥沃な好背湿地や、相模川水系を生産・管理しうるだけの権力をもつことができる基盤が、この時期に形成されていたと考えられる。


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