中戸田なかとだ

神社の紹介

  中戸田部落の中富町に鎮座する「八幡神社」の勧請年月は不詳だが、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると戸田村の鎮守を「八幡宮」とし、かつて当社は相模川畔に合ったため再々洪水により崖崩れがあり、文政11年(1828年)11月に当時別当寺院であった「延命寺」の境内地に移転したという説明がなされている。慶安2年(1649年)8月に徳川幕府から社領8石の御朱印地を賜り、明治初年に上知されるまで続けられていた。旧社地は下戸田字「舟場」の地に氏子一同の共有地となって今も残されている。現在の社名である八幡神社に改称したのは明治時代初期である。
  『風土記稿』に載る八幡宮以外の戸田村の神社・小祠には、下戸田の鎮守である「天満宮(延命寺持)」、小柳の鎮守である「子安明神社(延命寺持)」、沖小柳の鎮守である「若宮八幡宮(延命寺持)」は末社に「金毘羅社」あり、下沖の鎮守である「鉾明神社(一重院持)」、「山王社(延命寺持)」、「社宮神社(村民持)」、「神明社(村民持)」、「熊野社(村民持)」、「稲荷社(村民持)」、「白山社(村民持)」がある。
  社殿は大正12年(1923年)9月に関東大震災により倒壊したが、その後大正14年(1925年)に古材を用いて再建されている。さらに昭和52年(1977年)3月にも再建が実施されている。拝殿の前面には「八幡宮」と認められた額が掲げられている。また、御神体として本殿内に石造光背付八幡菩薩の座像(高さ44cm)が祀られている。境内にある明治38年(1905年)8月に建てられた「地主神」の石碑には「当社再建時敷地寄付」について刻まれており、当社の社地が幾たびか移り変わったことが知られる。
  神社入口の小屋には疱瘡(ほうそう)神と角柱・双体像の道祖神が祀られており、社殿の右には火山岩の大石が置かれている。この大石は「いぼ取り石」と呼ばれ当社には古くから道祖神側にあり、この石を身体のいぼなどに付けると不思議にも御利益により全快すると、この付近の人々の信仰によって伝えられている。

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八幡神社鳥居
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社号柱
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拝殿幣殿・覆殿
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境内
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厚木市立中戸田児童館

囃子

  中戸田は四之宮の前鳥囃子が伝わったとされている。かつては笛もあったが、一時祭礼が下火になって神輿を担がなくなり、太鼓も廃れてしまい、その時に笛が失われた。



神輿

  子供神輿



例大祭

  『風土記稿』によると例祭日は旧暦の8月15日であったが、その後は10月9日になった。その後は4月15日で戦後に4月の第3日曜日となり、平成12年(2000年)以降に第3土曜日に変わった。
  準備は当日の9時前から始まり、社殿の掃除や飾り付け、祭壇の準備、境内では神輿を出したり、余興舞台の準備を行う。昔は現在の鳥居の所に幟を立てたが、今はその枠が残るだけで幟もなくなった。
  氏子の中の役員が式典の準備を行い、平成会(当初は子供の育成目的で作った会で現在有志で運営されているという)が余興の準備を行う。
  10時に平塚市大神の神官(沖津氏)により神事が始まり、降臨・祓い・開扉・祝詞奏上・玉串奉奠(総代等代表5人)の一連の式を行う。この後、神官と総代2人が震災記念碑の前で供養の神事(祝詞・玉串)を行う。拝殿に戻って神酒で乾杯して式は終了となる。
  夕方18時からは余興を行う。昔の余興(夜宮)は酒井の地芝居(柿澤氏)や厚木の歌舞伎(柿之助など)を呼んだ。社殿の右側に小さい小屋(楽屋)があり、ここから花道があって神楽殿に続いていた。神楽殿は間口4間、奥行き2〜2.5間程度で、歌舞伎の時は舞台を継ぎ足した。
  境内入口に10軒程の露天商が出る。昔は須賀の魚屋が刺身や魚の煮付けを売りに来たと言う。



戸田の歴史

  戸田村は厚木市域の最南部に位置し、村域は平坦な相模平野にある。東側は相模川が南流し、相模川に沿って八王子ー平塚道が南北に貫き、村域北側を大山道が東西に貫いている。周辺は、東側は相模川を隔てて高座郡門沢橋村(現海老名市)、同倉見村(現寒川町)、南側は大神村、西側は大神村・下津古久村、北側は酒井村に接している。旧集落は村域の東側、相模川沿いの自然堤防上と村域西側の自然堤防性の微高地にあり、村域の中程から南側低地が耕地で、そのほとんどが水田であり、畑は集落地の周りの微高地に開かれていた。
  中世資料では、文和2年(1353年)の「関東管領畠山国清奉書案写」に「相模国戸田郷」、同年の「鶴岡両界壇供僧次第」に「相模国富田郷・相州戸田郷」とあり、「富田」の表記は北条氏支配時の文書にもみられる。また、永禄2年(1559年)の『所領役帳』では「中郡富田小柳」の記載が見られ、この「小柳」に関してみると、元禄国絵図には戸田村の他に「戸田村枝郷小柳村」の記載がある。『風土記稿』には小名として「上戸田」・「中戸田」・「下戸田」・「下沖」を載せ、上戸田には「此内に小柳及沖小柳と称する字あり」と註がある。伝承調査では『風土記稿』とほぼ同じ「カミトダ」・「ナカトダ」・「シモトダ」・「オキ」・「シモオキ」の5集落が確認されている。
  近世の支配は幕府・旗本領の6〜7給で、『風土記稿』によると幕末の戸数は131戸であった。明治22年(1889年)に長沼村・下津古久村・上落合村・岡田村・酒井村と合併して相川村大字戸田となり、その後に中郡相川村大字戸田となる。昭和30年(1955年)の町村合併後は厚木市大字戸田となる。


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