門沢橋
渋谷神社
「渋谷神社」は平安時代末期の寿永年間(1182〜83年)に渋谷庄司重国が造営し、嘉禎3年(1237年)に渋谷又太郎が鎌倉郷の稲荷を合祀したといわれている。鎮守として「神寿(かんじゅ)稲荷」があり、これが明治7年に「渋谷神社」と改称した。祭神は倉稲魂命である。本殿は寛保元年(1741年)に造られ、平成15年(年)4月30日に海老名市の重要文化財に指定された。覆屋に納められた間口約1.2mの建物で、江戸時代中期の標準的建築様式を残している。また、当時としては珍しい獅子や獏などの彫り物が施されている。
寺院は鎮守の別当正覚寺があり、真言宗に属する。他に浄土宗浄久寺がある。
| 八坂神社 | 鳥居 |
門沢橋の宿
この宿は大山街道沿いに発達した宿駅で、『風土記稿』では「街道二間当村継場にて東の方用田へ三〇町、西方戸田村へは一八町、人馬を逓送す。南北に通ずるは八王子道なり幅九尺」と、交通の要衝であることを記している。また、「戸田の渡し」と呼ぶ相模川の渡船場を持ち、船二艘を置いて対岸戸田村と共に渡船業務に携っていた。このことも宿の発展の有力な要因であった。この大山街道は東海道戸塚宿の柏尾が起点であり、別名「かしをみち」といわれていた。柏尾からは長後、用田(藤沢市)を経て、門沢橋から戸田(厚木市)、粕屋(伊勢原市)の道程で大山に至る。
信仰の山として大山への参詣は、毎年夏山といって6月27日の初山から7月16日の盆山までの20日間が最も賑わった。参詣人の多くは道者といって大山講を組織し、白装束にわらじ脚半、笠を被り金剛杖を持ち、腰の鈴をチリンチリンと鳴らしながら道中を往来した。場合によっては沿道の祠にお賽銭を上げたり、子供たちに投銭する道者もいた。「道者、道者、通させねえ、一文くれなきゃとおさせねえ」などの囃子言葉も大正の半ばごろまでは口にされていた。
宿には木村屋・村田屋・富田屋・桐屋・柏屋といった旅籠(はたご)があり、富田屋では相模川産の鮎を材料にした鮎寿司を名物として売り出したり、村田屋では指紙といって「門沢橋へお泊りの節はどうぞ私どもへ」といった一種のビラを、沿道の宿々へ配布したりして宿の宣伝に務めたりもした。相模川は台風などによってしばしば川止めになったが、増水量がさほどでもないのに船頭に一杯飲ませて川止めにし、お客をとったという逸話もある。また、街道から入った南方に袋町というささやかな色街もあったようである。宿の浄久寺の無縁仏の中には、急病であたら一命を失った旅人の供養碑もあるという、宿ならではのあわれな話である。
囃子
門沢橋の囃子は「新囃子系」で、元治年間(1864〜65年)伝来との伝承がある。門沢橋の囃子は東京芸術大学の調査の対象にもなった。楽曲の構成は屋台(一の玉、カワチゲエ、二の玉、カワチゲエ、三の玉、カワチゲエ)、鎌倉、シチョウーマイ(四丁目)、昇殿。「門沢橋渋谷囃子保存会」
神輿
神輿の担ぎ手が相模川の水で身を清めた後に、大山街道沿いに置かれた燃え盛る麦藁の束を踏んで通る習わしがあることで知られている。
門沢橋の歴史
門沢橋は海老名市の最南部に位置し、北は中野、東は本郷に接し、南は倉見(寒川町)である。西は相模川を隔てて戸田(厚木市)に対する。『風土記稿』によれば村域は「東西十一町半南北九町半」と記される。全域が相模川の沖積地あるいは氾濫原であり平坦である。街道が2つ通り、「東西に貫くもの大山道なり幅二間、南北に通ずるは八王子道なり幅九尺」と記されている。大山道が相模川にかかる所に戸田の渡しがあり、船二艘を置き、戸田と当村の両村持ちととなっていた。
中世には門川橋と呼ばれていたが、江戸時代に入って門沢橋と呼ぶようになったものと思われる。永池川や原川が相模川に合流する河口に架けられた橋の意で、それが村名となった。「橋」という事物名が地名・村名に用いられたのは、橋に縁の深い地域であるからか、永池川には下流から新門沢橋・平泉橋・世継橋・大橋・大和橋・入内島橋があり、支流の原川には門沢橋・原川橋、渋沢川には小橋・どんどん橋(今は暗渠)などが架かっている。これはこの地区の特性ともいえる。
南北朝期の至徳3年(1386年)の鎌倉公方足利氏満の令札に「相模国渋谷の庄遠馬郷の内門川橋村正覚寺云々」の記載があると『社寺考』は記している。これによれば南北朝の頃には門川橋村の呼称が行われ、遠馬郷の内と考えられていたことがわかる。戦国時代には「海老名下郷」に属したようで、江戸時代に入って寛永2年(1625年)の文書に「門沢橋」とあり、この頃すでにこの呼称は定着していたと思われる。江戸時代初期は幕府直轄領であったが、寛永2年に旗本長谷川氏知行となり幕末に至った。『元禄郷帳』によると村高は四一一石で、『天保郷帳』で五〇二石斗余となっている。『風土記稿』によれば家数は九六軒で、東西に大山道が貫き、当村はその継場になっていた。東の方用田へ三〇町、西方へ一八町で人馬を継ぎ立てして送った。相模川にはこの大山道の渡しとして「戸田の渡し」があった。
名主三左衛門の庭中に「笠松」とよばれる名松があり、「東西八間南北十間許に盤旋」していたという。昭和9年(年)に相模鉄道(現JR相模線)の門沢橋駅が開設された。
戻る(海老名市の祭礼)