小沢
諏訪神社
「諏訪神社」の祭神は「建御名方命(たけみなかたのみこと)」で、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には「諏訪社 小名小澤の鎮守とす」とのみ記載されている。『神奈川県皇国地誌残稿』には「無格社 東北ノ方字小沢九百三十四番地ニアリ 境内東西七間五尺六寸 南北十九間 面積百五十一坪 建御名方命ヲ祀ル 勧請詳ナラズ 明和二年(1765年)乙酉再建ス 例祭八月廿六日」とある。
この社は室町期に小沢に築城した金子掃部助の館の鬼門よけと、城下の村落を相模川の洪水から防備するための奉祀とも見られることから、この頃に勧請されたという説もある。明治御改革の時に諏訪神社と改称した。境内には稲荷社がある。かつての社殿は階段を上がった直ぐのところにあり、社殿と階段とのスペースが殆どなかったが、平成12年(2000年)に裏山を切り崩して現在の社殿が新築された。神社の落成式は諏訪神社の祭礼に合わせて、同年9月3日に行われた。
諏訪神社 | 鳥居 |
下の境内には | 社務所と |
ふるさとの木 小沢 | 諏訪神社のスダジイ(ブナ科) |
上の境内には | 燈籠 |
狛犬 | 社殿 |
右手には | 諏訪神社 |
左手には | 八坂神社を祀る |
社殿内の2社の本殿 | 祠 |
提灯台 | 水鉢 |
諏訪神社建立寄附者芳名 | 境内下 |
境内横の坂道を上がると | 浄土宗還浄寺 |
飯綱社
「飯綱社」はもと小沢谷戸の小山の頂にあったが、開発のために社地を失い現地(谷戸1041)に遷座された。『風土記稿』には「愛宕、飯綱合社、元文二年(1737年)の勧請、村民持」とあり、海底愛宕社と共に記されている。また、『皇国地誌残稿』には「飯綱社 同丑ノ方小沢谷1043番地ニアリ」とのみ記載されている。同じ愛宕、飯綱合社の両社が海底ではあたごさまが、小沢ではいづなさんが主となり呼ばれている。
飯綱社 |
八坂神社祭礼
諏訪神社の例祭では式典のみが執り行われ、神輿と山車が小沢地区を巡行するのは八坂神社の例祭の時である。八坂神社の例祭日は7月20日に近い日曜日となっており、式典は前日の宵宮に行われ、神主により御霊が神輿へ遷される。以前は小沢区内の小沢・上小沢・梅沢の3つの自治会で八坂神社の祭礼を行っていたが、現在は小沢自治会のみで同祭礼を運営しており、神輿と山車の巡行範囲も小沢自治会のみとなっている。
以下に平成25年(2013年)7月21日に行われた八坂神社祭礼を紹介する。
祭礼準備
大祭当日は朝8時から準備が行われ、境内では神輿と山車の飾り付け、境内下では相模原愛川線(県道54号)の両側の歩道の草取りが行われる。
朝8時から準備開始 | 大人神輿と子供神輿を |
社務所から出し | 担ぎ棒を棒穴へ入れる |
前日に掛けたブルーシートを外し | 囃子の山車で飾り付け開始 |
こちらは山車に付ける花飾り | 簾の屋根を乗せ |
花を屋根に固定 | 大人神輿では |
鳳凰の足を露盤へ差し込み | 飾紐を四隅へ伸ばす |
山車を引っ張るロープをセット | 階段では掃き掃除 |
境内下の歩道では | 草取りが進む |
山車の前後の破風板にも | 花飾りを挿す |
紅白のテープを巻いていく | 蕨手に巻いた飾り紐は |
担ぎ棒に巻きつけて折り返し | 鈴を巻きつける |
山車に提灯を掛ける | 紐房を付ける大人神輿 |
山車の正面には大きな提灯 | ロープを結びつけると |
前方へ伸ばし | 実際に引っ張って確認 |
屋根部の飾紐にも鈴を付ける | 提灯をビニールで覆う |
担ぎ棒をスポンジで覆い | テープで固定 |
子供神輿にも担ぎ棒を入れる | 山車には紅白幕を巻く |
大人神輿に提灯を掛ける | スポンジはしっかりと固定 |
子供神輿は横にも輿棒を渡し | 親棒にボルトで固定する |
社務所から太鼓を運び出し | 山車へ上げる |
大人神輿の次ぎは | 子供神輿も飾紐を掛けていく |
締太鼓を山車の正面に設置 | 上部に木を渡して固定 |
大人神輿では晒を広げ | 担ぎ棒を覆う |
社務所から座布団を運び | 山車では大太鼓の取り付け |
座布団を挟んで角度を付け | 紐で固定する |
飾紐で固定された子供神輿 | 前方にもスポンジを巻く大人神輿 |
境内下の草取りが進むと | 反対車線でも草取り |
左右の親棒を根元で締付ける | 晒の作業が続く大人神輿 |
フェンスには花飾りを挿す | 山車では太鼓を固定すると |
運転席に座り | バックミラーの調整 |
角度と | 高さを合わせます |
晒はテープで固定 | 子供神輿の提灯にもビニールが |
最後に | 仕上げの晒を巻いて完成 |
9時半前に準備が終わり | 氏子総代の挨拶 |
飲み物を配って | 一旦解散 |
神輿にはお祓い用の榊と | 賽銭箱を準備 |
準備は9時半頃に終わり、宮立ちまでは一旦解散となる。
宮立ち(出発12:00)
12時になると小沢グランドから花火が打ち上げられ、大人神輿と子供神輿が正面の階段から、山車は境内横の坂道を降りてお宮を出発する。
11時を過ぎると人が集り始める | 氏子に配布する半纏 |
豆絞りを頂きました | 子供達は出発まで囃子を演奏 |
神輿を担ぐ子供も集まり始める | 消防団も到着 |
時刻は11時30分 | 交通指導員は山車をチェック |
太鼓を叩く子供達 | 祭りの参加者が揃うと |
宮立ちに向けて | 最初に自治会長の挨拶 |
お神酒を運び | 参加者に配る |
続いて氏子総代の挨拶 | 当番の挨拶があり |
乾杯して | 担ぎ手が神輿へ向う |
輿棒に | 手を掛け |
12時丁度に川岸から | 花火が打ち上げられると |
大人神輿と | 子供神輿が担ぎ上げられる |
最初に大人神輿が前進し | 社殿下へ向うと |
右に旋回して | 神輿を肩から下ろし |
鳥居を潜る | 子供神輿も社務所前を出発 |
囃子の山車も移動開始 | 階段を降りる大人神輿 |
子供神輿も鳥居へ向かい | ここで大人と交代します |
山車はバックで社務所横へ移動 | 階段を降りる子供神輿 |
大人神輿は歩道を右折 | 子供神輿も歩道に降りる |
この道は相模原愛川線 | 大人神輿は車道を横断 |
山車は社務所横を抜け | 還浄寺へ向う坂へ |
バックで入り | 前進して坂を下る |
ブレーキを掛けながら | 慎重に坂を下ると |
そのまま車道に出て | 右折 |
神輿の後を追い | 山車も道路を横断 |
これから長い | 巡行が始まります |
このあとは神輿・山車運行へ。
囃子
小沢に伝わる囃子は神田囃子の系統と伝えられており、曲目には「ランビョウシ」・「シチョウメ」・「カマクラ」・「インバ」などがある。楽器の構成は笛1・鉦1・締太鼓2・大太鼓1の5人囃子となっている。宮出しの時のみ大人により一連の曲が演奏され、巡行中は子供達によるインバが演奏される。囃子の練習は八坂神社祭礼前の7月の毎週日曜日に行われる。
囃子を演奏する山車はかつて欅のタイヤが付けられていたが、車のシャーシを地元の解体業者から五千円で購入し、山車の足回り部分を切断してシャーシに乗せた構造になっている。八坂神社祭礼の巡行では子供達が山車をロープで引っ張り、方向転換はハンドルによって切り替えられ、速度調整はブレーキによって行われる。
山車(正面) | 山車(側面) |
ハンドルとブレーキで操作 | 山車の下部は車のシャーシ |
締太鼓は正面に設置 | 大太鼓は横に設置 |
叩き手は座って叩く | 笛は助手席で演奏 |
囃子 |
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神輿
小沢には大人神輿と子供神輿がそれぞれ1基ずつあり、八坂神社祭礼の時に小沢地区を渡御する。大人神輿の制作年月は不詳であるが、江戸時代頃のものと伝えられ、箱台輪の下には「相州愛甲郡□□□大工棟梁矢内m馬藤原高光□」の墨書が残されている。子供神輿の箱台輪には「昭和二十七年七月吉日愛川町角田六四六番地小島喜代治」とあり、昭和27年(1952年)の製作であることが確認できる。
八坂神社祭礼では神社を出発した神輿が一番最初に行う行事が小沢グランドの「御浜入り(おはまいり)」であるが、かつて相模川に神輿が入って禊をしていたことから現在もこの呼び名が使われている。近年になり相模川の浸食を防ぐため、川岸にテトラポットが置かれたことにより、平成5〜10年頃から相模川に入ることができなくなり、現在では消防団が川の水をホースで汲み上げて神輿に放水するようになっている。
神輿の掛け声はかつて「ワッショイ」とか「ヨイトサッセー」などであったが、最近になり「オイサー」や「ホイサー」などに変っている。子供神輿の掛け声は昔ながらの「ワッショイ」で担がれている。神輿が休憩所に着くと左右の輿棒につく担ぎ手が息を合わせて、神輿を左右に大きく振るのが特徴で、地元では「暴れ神輿」と呼ばれている。ちなみに、神輿の会である「白鳥會」の名前は、小沢のソフトボールのチーム名「スワンズ」から命名されている。
大人神輿 | 箱台輪下の墨書 |
子供神輿 | 箱台輪下の墨書 |
神輿の半纏は | 小沢白鳥會 |
小沢グランドでの御浜入り | 暴れ神輿 |
掛け声 |
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宮入り(到着18:15)
最後の休憩場所を出発した大人神輿は高田橋際交差点付近まで練り歩くと、引き返して境内の横の坂道から宮入りする。
宮入りした大人神輿は20分程で宮付けとなり、一本締めで小沢地区の神輿渡御を終える。その後は社務所にて直会が開かれる。
神輿は引き返して | 高田橋際の交差点を通過 |
お宮へ向うと思いきや | 旋回して引き返そうとする神輿を |
軌道修正 | 歩道へ乗せようとするが |
拒む担ぎ手たち | 頭を何とか歩道側へ振り |
ようやく歩道へ神輿を入れ | 坂の入口へ誘導したい所ですが |
車道へ出たい神輿を | 引き戻すと |
その勢いで | 時計回りに |
一回転 | 再び入口へ頭を向けて |
いよいよ宮入り・・・ | またまた横を向いてしまいました |
境内下で十分暴れた神輿は | ようやく坂を上り |
境内へ向います | 神輿の宮入りを待つ子供達 |
境内の入り口でも | 宮入りを拒む神輿 |
何とか社務所の横を通過し | ようやく神輿が境内へ |
境内でも神輿は | 勢い良く暴れます |
そしてここでも | 恒例の水掛け |
子供達からは声援がおくられる | 鳥居前では芯出し用の台を |
神輿は境内を | グルグルと |
勢い良く | 回転 |
水を浴びながら | 動き続けます |
担ぎ手からは | 疲労の色が見られますが |
今度は | 神輿を左右に |
振り出します | 鳥居前では芯出しの準備 |
止まらない神輿を見兼ねてか | 馬を入れようとするが |
神輿はさらに暴れ | 馬を入れさせてもらえません |
宮入りから5分以上が経過 | いつまで続くのでしょうか |
疲労で足が縺れる担ぎ手 | 何とか体勢を立て直し |
再び境内を | 暴れます |
子供達からは時折 | 「がんばれ〜」の声援が |
動きが止まったのを見計らい・・・ | 馬を入れようとしましたが |
再び暴れ始め | 付け入る隙がありません |
既に10分が経とうとしますが | 終わる気配が全くありません |
担ぎ手のみなさんは | かなり疲れているはずですが |
この気力は | どこから来るのでしょうか |
まだ芯出しにも向っていません | こんなに長い宮入は初めてです |
馬は何度も断られ | 15分が経過 |
ここでようやく | 鳥居の方へ移動し |
初めての芯出し | 神輿は一旦社務所前まで後退 |
再び前進し | 鳥居付近まで進みます |
そろそろ拍子木が | 打たれると思いましたが |
放水が始まり、担ぎ手は | 最後の気力を振り絞ります |
なんとか神輿を差し上げ | 再び肩に下ろすと |
芯出しへ向う | 神輿は後退し |
ふらふらになりながら | なんとか前に進みます |
そしてようやく | 拍子木が打たれ |
馬を入れることができました | 20分に渡る宮入りを終え |
小沢地区の神輿渡御を | 一本締めで締めくくる |
暴れ神輿の荒々しさを | 物語ります |
この後は神輿の収納 | 社務所へ入れようとするが |
鳳凰が引っ掛かり | 一度おろして |
鳳凰を露盤から抜き | 社務所内へ |
神輿の飾りを外していく | 境内では担ぎ手が一本締め |
氏子総代から挨拶があり | この後は |
社務所で直会が開かれる | 担ぎ手は解散し |
警護にあたった消防車は | 境内を出発し |
消防小屋へ戻ります | 小沢の皆様お疲れ様でした |
小沢古城址と小沢城址
●小沢小城址(小沢室久保938他)
古城址は小沢氏の館跡である。小沢氏は平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武士団・武蔵七党のうち、八王子を拠点にして栄えた横山党の一族で、代々ここに館をかまえて当地を支配していた。古城址の面積は6,800uほどで、館への入口は西方の沢に橋を架け、そこから登坂して館へ至ったという。東方は相模川に面して断崖となっていた。
かつて古城址には架橋跡・門跡・壕跡などが存在していたが、山砂利採取のため遺構は全く損し、その後はわずかに館跡と物見台を残すのみとなった。建保元年(1213年)の和田義盛の乱の時に、城主小沢氏は和田勢にくみしたが、幕府軍のために敗れ去り、小沢の城はこのとき落城したという。
●小沢城址(小沢城坂732他)
小沢城址は小沢区の南方、中津原台地の東北隅の突端にあり、室町時代初期の築城といわれる山城であった。城主は金子掃部助で、山ノ内上杉氏に従っていた長尾景仲の一族の長尾景春の家臣であった。前項の小沢氏の館と道を隔ててあるので、築城時代の古い小沢氏の居館(山城)を小沢古城とし、築城の新しい金子氏の居館を小沢城と呼称している。
文明9年(1477年)の扇ヶ谷上杉氏と長尾景仲の争いの時に、掃部助の小沢城は扇ヶ谷上杉方の太田道灌によって攻略されて落城し、城主掃部助は戦死した(詳細は鎌倉大草紙に記載)。現在、城址の北半分は山砂利採取のために消失し、遺構としては空堀・土塁・曲輪などが存している。大手にあたる坂は「城坂」と呼ばれ、空堀はその坂上の平地にあり、北側が本丸跡とされている。なお、城坂には落城にまつわる伝説が語り継がれている。
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