愛甲郡の祭礼
愛川町
昭和15年(1940年)4月1日に皇紀2600年を記念して愛川村が「愛川町」となり、町制を施行した。昭和30年(1955年)1月15日の町村統合で高峰村を合併し、町内は川北・宮本・原臼・両向・細野・田代・角田・三増・箕輪・小沢の10行政区となった。 さらに翌昭和31年(1956年)9月30日に中津村を合併し、先の10行政区に中津第1区・中津第2区・中津第3区・中津第4区・中津第5区を加えて15行政区となった。
昭和43年(1968年)6月1日の中津工業団地の整備に伴い、住宅団地も整い桜台団地区が設置され、町内は16行政区となった。翌昭和44年(1969年)10月1日には春日台住宅団地の整備に伴い春日台区が設置され、町内は17行政区となった。昭和48年(1973年)4月1日に中津第1区が上熊坂区と熊坂区に分区し、町内は18行政区になった。昭和50年(1975年)4月1日に中津第3区が桜台区と二井区に分区し、町内は19行政区となった。昭和52年(1977年)4月1日に中津第4区は半縄区と坂本区に分区し、町内は20行政区となった。昭和53年(1978年)4月1日に中津第5区が六倉区と大塚区に分区して、町内は現在の21行政区となっている。なお、内陸工業団地(中津工業団地)は特別区の扱いになっている。
旧愛川村
明治22年(1889年)4月1日の町村制施行により半原村と田代村が合併して「愛川村」となった。
旧高峰村
往時毛利庄川入郷はその部落として熊坂・三増・角田・田代などと数えられていたが、いく変遷を経て角田村と三増村となった。戦国時代の中頃の北条氏の時代には津久井城主内藤豊景の下知に属していたが、弘治3年(1557年)8月には内藤秀勝の所領となり、享保13年(1728年)には大久保忠保の所領となった。明治維新となると廃藩置県に際して最初は烏山県の管轄となり、明治5年(1872年)1月に足柄県の管轄、明治9年(1876年)に神奈川県の所轄となった。
明治22年(1889年)4月1日に三増村と角田村が合併して「高峰村」となった。
旧中津村
『和名抄』に愛甲郡「六座(むくら)」の郷の名が見え、これがこの地の歴史に現れた始めで、旧中津・依知等の地を広く呼んだものである。相模川を挟んで「六倉」・「塩田」間に渡船場があり、往時は足柄街道の要地であった。中世は「上毛利庄」に属して、「熊坂村」・「半縄村」・「八菅村」の三村に別れ、「棚沢村」・「新戸村?」と共に「下川入郷」をなしていた。
明治8年(1875年)6月1日に中津川以東にある八菅村・熊坂村・半縄村が合併して「中津村」となり、明治22年(1889年)4月1日に中津川以西の八菅山村と八菅山新田、そして棚沢村下平が合併して「中津村」となった。
地区名 | 神社名 | 鎮座地 | 例祭日 | 神輿 | 山車 | 備考 | 取材年 | |
1 | 半原 | 半原神社 | 半原(久保)4173 | |||||
2 | 川北 | 川北諏訪神社 | 半原(向原)5355 | |||||
3 | 田代 | 中津神社 | 田代(大内出)332 | |||||
4 | 三増 | 諏訪神社 | 三増(後ヶ谷)587 | |||||
5 | 三増 | 天満宮 | ||||||
6 | 角田 | 角田八幡神社 | 角田(宮の上)2371 | |||||
7 | 小沢 | 諏訪神社 | 角田(小沢室久保)934 | 9/6? | 大1・小1 | 1 | 八坂神社祭礼は7/20近日 | 13 |
8 | 海底 | 日月神社 | 角田(海底)4222 | |||||
9 | 中津 | 神明社 | 中津441 | |||||
10 | 八菅 | 八菅神社 | 八菅山(宮村)139 |
地区名 | 神社名 | 鎮座地 | 例祭日 | 神輿 | 山車 | 備考 | 取材年 | |
1 | 八幡神社 | 煤ヶ谷1555 | ||||||
2 | 熊野神社 | 宮瀬1136 |
祭名 | 開催地 | 住所 | 祭日 | 神輿 | 山車 | 備考 | 取材年 | |
1 | 青龍祭 | 緑小学校→運動公園 | 清川村煤ケ谷2076,1518-2 | 8/第2土? |
タイトル | 著者/編集 | 出版/発行 | 出版年 |
愛川町郷土誌 | 愛川町教育委員会/愛川町郷土誌編纂委員会 | 愛川町 | 1982(昭57) |
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