海底
日月神社
「日月神社」 部落の中央に公孫樹、樫などの混淆林があり、社はその中にある。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には「小名海底の鎮守なり 石ニ顆を神体とす 永禄2年(1559年)の棟札あり。其文曰 当社日月宮造立奉遷宮 而信心願主以無ニ志 六済取立在々所々勧請申事、本願沙門 実鏡坊 相州上毛利庄海尻村之施主之番匠衆 成井兄之藤左衛門 神□□番張銭四十文 同親類中合力三百文 同施主 戸倉惣左衛門下知百□□ 六斉衆 三百文 御供与而寄進申地頭内藤三郎左衛門殿 千貫文 御合力代官和田□□尉殿 同 善六殿 干時 永禄二年己未十二月一日 大工田名村二郎左衛門尉 樫の木を神木とす 囲一丈二尺許 村民持」とある。
『神奈川県皇国地誌残稿』には「無格社 社地東西十五間三尺南北十四間 面積二百十五坪申ノ方字海底四千二百二十二番地ニアリ 祭神大日?尊 月読命 永禄二年己末ノ勧請ト云 例祭八月十九日境内 槻及銀杏ノ老樹アリ」とある。祭神の大日?尊(おおひるめのみこと)は天照大神で女性の神であり、日本神道の最高の一柱である。月読尊は月夜見尊といわれ男性の神である。当社は昭和28年(1953年)に宗教法人となった。
日月神社 | 社号柱 |
燈籠 | 文久三癸の銘 |
鳥居 | 社殿 |
境内 |
愛宕社
「愛宕社」はもとは屋形山東側の山頂に鎮座していたが、山砂利採集のために現地に遷座された。『風土記稿』には「愛宕・飯綱社 館山の上 字地蔵嶽にあり、八菅山修験の行所にしてここも大宝三年役小角の勧請と伝う村持」とある。幣山に次いで八菅修験の第三番の行所である。
また、『皇国地誌残稿』には「無格社申ノ方館山ノ頂四千五百二番地ニアリ」と記載されている。
橋を渡ると | 愛宕社 |
石階段 | 鳥居 |
燈籠 | 社殿 |
境内 | 境内 |
金刀比羅神社
金刀比羅神社 | 鳥居 |
燈籠 | 稲荷社 |
祠 | 馬坂 |
例祭
例祭は
囃子
神輿
海底の製紙(愛川町指定文化財)
「海底紙」とは楮(コウゾ・クワ科)を原料とし、海底地区で生産されていた伝統の手漉き和紙のことで、一般では「おそこうがみ」と呼ばれていた。かつてはその販路も広く、丈夫な和紙として名が高く、障子紙、傘や凧などに使われていた。この地区での伝承による紙漉きの起こりは、海底のひと成井文左衛門が寛政年間(1789〜1801年)に、信濃国で製紙法を習得してきて始めたものだといわれる。また、天保9年(1838年)に文左衛門の子の成井文七が下野国烏山より紙漉き職人を招き、業を起こしたのが基だという説もある。なお、この頃の製品は奉書紙であったと伝えられ、のちに京都の嵯峨御所用のろ紙を漉くまでに発展した。
こうして海底地区に製紙業が普及したが、製紙技術の発展にしたがい、新たに大正6年(1927年)に埼玉県比企郡小川町の製紙技術を導入し、海底紙の質と業態の改善をはかった。この前後が海底地区での和紙生産の最盛期で、主たる製品は障子紙であり、製紙業者は十余軒に及んだ。その後、製品は機械生産品に圧迫され、業者は次々と廃業した。