田代
中津神社
「中津神社」 天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると「小獄社 是も鎮守とす 圓鏡(円径五寸)の面に彫りたる神體を置く」とある。神奈川県皇国地誌残稿には「中津神社 式外村社々域東西三十五間南北十六間四尺二寸面積五百八十四坪東北ノ方字大内出三百三十二番地ニアリ祭神大日?尊勧請年紀詳ナラズ旧時ハ小嶽明神ト称セシヲ明治六年癸酉誉田別尊八幡社 日本武尊御嶽神社 木花咲耶比賣命浅間神社 大山祇命日枝神社ノ四社ヲ合祀シ 今ノ社號ニ改ム例祭四月十七日境内松杉榧樫其他雑樹数十株アリ其ノ囲ノ大ナルモノ一丈二尺ニ至ル 東照宮 無格社村社ノ境内ニアリ」とある。
由緒によれば「勧請年月不詳なるも文治(1185〜90)の頃より存在せること記録により明なり。当時此の地を毛利の庄という。長享年中北条長氏伊豆に興りその勢い盛んとなる。弘治3年(1557年)8月田代村及び半原村等近傍は内藤下野守秀勝の所領となる。依て内藤氏は字上田代富士山麓なる天然の要地を囲み城を築きて居住す。而して本神社を氏神として信仰せり。内藤氏ここに居を定めらるるや次第に住民も増加し、神社の尊厳を高め祭祀の方法も定まれり。往時は中津川清流の中心にして孤獄をなしおり、小嶽明神と唱え、祭神に大日?命を祀り田代村の鎮守となる。」とある。
境内に東照宮・八坂神社・稲荷社・金毘羅社の四社を祀る。明治6年(1873年)4月に部内にあった八幡・日枝・浅間・藏王の四社を合祀して中津神社と改称した。大正4年(1914年)3月23日に村社昇格、昭和28年(1953年)8月10日に宗教法人に認証された。
社号柱 | 社号標 |
参道 | 幟を支える石柱 |
中津神社 | 鳥居 |
狛犬 | 由緒 |
燈籠 | 宝物殿 |
手水舎 | 燈籠 |
拝殿 | 拝殿の奥には |
石階段があり | 上にあるのは |
本殿 | 境内社は |
稲荷社と | 天満社 |
ふるさとの木 | 中津神社の社叢林 |
神楽殿 | 境内 |
例大祭
中津神社に合祀された八坂神社の祭礼日は7月15日前後の日曜日で、この夏祭りは3つの町内会が順番に当番となる。
囃子
神輿
神輿は町内にいた有名な宮大工の手造りと伝えられる。中津川の清流へ入る「御浜降り」は近郷からも多くの見物人が来る。
田代の歴史
田代村は往時は中郡上川入郷と称し、内藤秀勝が当初に築城の頃は水田をもって要害としたことから田城と号し、これが地名となった。慶長8年(1603年)に初めて検地し、寛文11年(1671年)に成瀬重治が、元禄13年(1700年)には牧野成春が改めた。
北条氏が分国の頃はその臣内藤秀行の知行であり、役帳には「内藤三郎兵衛20貫文、保内田代半原」と記されている。永禄11年(1568年)8月16日に田代城主内藤秀行が武田勝頼に滅ぼされてからは、その一族家臣たちがこの地に土着して地域住民の祖となっている。明治2年(1869年)3月から烏山県となり、明治5年(1872年)1月には足柄県、明治9年(1876年)5月から神奈川県の管轄となった。
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