八菅
八菅神社
「八菅神社」は愛川町の南東に位置する八菅山上にある。かつては八菅山七社大権現といわれ、その別当寺の光勝寺とともにあった。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には「七社権現社。八菅山上ニアリ。或ハ八菅山権現ト号ス。本社ハ覆殿一棟ノ内ニテ。中央ヲ證誠殿ト号シ、祭神国常立尊。其左右ニ各三社アリ、左方ハ玉函殿ニ伊弉冊尊、金峯殿ニ金山彦命、誉田殿ニ誉田別尊。右方ハ妙高殿ニ大貴巳命、妙理殿ニ伊弉諾尊、走湯殿ニ天忍穂耳尊鎮座ス」とある。
『神奈川県皇国地誌残稿』には「八菅神社。式外郷社々地東西八十五間 南北四十七間 面積三千九百九十四坪 辰ノ方字宮村ニアリ相伝フ往古日本武尊東征ノ時国之常立尊ヲ斎キマツリ 其ノ後大宝三年役ノ小角入峰勤行ノ時六柱ノ神ヲ祭ル 即 伊邪那岐尊 押武金日尊 誉田別尊 伊弉那美尊 大巳貴命 日本武尊 是ナリ」とある。
八菅神社の旧社である七社権現の古代の歴史については、社蔵の応永の勧進帳(写)天保版縁起本、天明版縁起本、文化版縁起本などに記載してあるが、いずれも縁起としての記述であるため史実としては判然としていない。以下にその記事を抜粋する。
景行天皇世代 日本武尊来山
文化2年(646年) 蛇形山盧遮那寺建立
白鳳13年(684年) 役小角来山修行
大宝3年(703年) 役小角再来山
和銅2年(709年) 行基来山七社権現勧請
霊亀2年(716年) 八菅の名起る
神亀〜天平年間 義玄、芳元、黒珍来山
中世における七社権現の歴史も縁起類によれば、建久年間(1190〜99年)に源頼朝の名により堂社の造営を海老名季貞がしたとか、北条時ョの参篭、一遍上人の来山などの記載があるがその推移は不明である。ただ、それに関する遺物は現在社地境内にある宝物館に蔵されている。それ以後の歴史は次の通りである。
永正2年(1505年) 兵火のため山内荒廃
天文10年(1541年) 遠山綱景の堂社造営
天文17年(1548年) 現存の役小角像制作
天文21年(1552年) 聖護院道増入峰
永禄2年(1569年) 聖護院宮代参入峰
天正19年(1591年) 朱印地をあたえられる
貞享4年(1687年) 聖護院と本末関係結ぶ
文化6年(1809年) 聖護院宮盈仁親王の勅額奉納
天保12年(1840年) 聖護院宮雄仁親王入峰
以上が江戸末期までの八菅山七社権現の歴史である。この七社権現の別当寺であった光勝寺(天台宗)は京都の聖護院の直末であるとともに、本山派修験の相模における拠点でもあった。そして八菅山内には光勝寺に属する50余りの修験の院・坊があり、そのものたちの手により七社権現は護持されていた。春と秋の峰入り行事は盛んであった。
こうして八菅修験に護持されてきた七社権現であったが、明治初年に明治政府による神仏分離の政策により、一山は変革を余儀なくされた。権現という称は廃止されて七社権現は八菅神社と改められ、修験は法度となり光勝寺は廃寺、一山の修験組織は解体され、院・坊を名乗っていた修験者らはほとんど帰農した。その後は明治6年(1873年)7月に八菅神社は郷社となり、祠掌に足立原禎が任命された。
社地内には覆殿(内に本殿・北三社・南三社がある)、鐘楼、神楽殿、宝物館、社務所などの建物がある。昭和47年(1972年)7月に山内一帯は八菅山修験場跡として町重要文化財に指定された。八菅神社の祭神と垂迹関係は次の通りである。
宮殿 | 祭神 | 権現 | 本地仏 | |
北 三 社 | 金峰殿 玉凾殿 誉田殿 | 金山彦尊 伊弉冊尊 誉田別尊 | 蔵王権現 箱根権現 八幡大菩薩 | 弥勒 無量寿仏 無量寿仏 |
本 殿 | 證誠殿 | 国立常尊 | 熊野大権現 | 無量寿仏 |
南 三 社 | 妙高殿 妙理殿 走湯殿 | 大己貴尊 伊弉諾尊 天忍穂耳尊 | 山王権現 白山権現 伊豆権現 | 薬師 十一面観音 十一面観音 |
八菅神社 | 社号柱 |
鳥居 | 石碑 |
狛犬 | 狛犬 |
水鉢 | 水鉢 |
八菅神社の社叢林 | 八菅山 |
燈籠 | 社務所 |
石碑と石像 | 鐘楼 |
宝物館 | 神楽殿 |
八菅山公民館 | 下の広場 |
参道 | 石階段 |
社号標 | かながわの景勝50選 |
石階段を登りきると | 参道が続き |
広場に出る | 手水舎 |
護摩堂 | 八菅神社由緒 |
燈籠 | 石碑 |
さらに石階段を上ると | ようやく社殿に到着 |
水鉢 | 境内 |
●八菅神社合祀の各社
明治44年(1911年)3月の神社統廃合政策により、中津村の無格社を八菅神社へ合祀した。合祀された社は次の通りである。
@稲荷社(八菅山)A八幡社(半縄)B稲荷社(半縄)C塞神社(半縄)D神明社(半縄)E山王社(下谷)F菅原社(下菅原)G御嶽社(下谷)H神明社(楠)I諏訪社(六倉・大塚)J八坂社(松台)K山王社(ニ井)L天野社(坂本)
この中で@GIは元覚養院、Aは元山本院、Lは元雲台院がそれぞれ別当として所轄していた。
●脇社
白山社(伊邪那美尊)、小易社(木花咲那姫命)、山神社、三島社、高?社、菅原社
●境内社
弁天社(左眼池弁天)、鼻池社、北谷観音堂(旧地八菅山368)
囃子
神輿
例祭
祭日は3月28日
八菅の歴史
●熊坂村
「熊坂村」は八菅山熊野権現の鎮座する峰に向った坂を熊野坂といったが、後に熊坂と称えられるようになったと伝えられている。北条役帳には「八菅熊坂村」と書かれており、永禄年中(1558〜69年)までは八菅と熊坂が一村であった。天正18年(1590年)の小田原陣の制札に「くまさか村」とかな文字で書かれており、この頃に八菅と分村していたようである。熊坂村の内に「八菅分」と称えた所があったのを、寛文13年(1673年)の検地の際に八菅分の名称を廃して「八菅村」と改め、新たに一村を設けた。
熊坂村は北条氏分国の頃は内藤景定の知行であった。元禄4年(1691年)には旗本鈴木喜左衛門の知行になり、元禄11年(1698年)には牧野成春の領分となり、宝永4年(1707年)には川勝隆尚の知行に移り、明治元年(1868年)9月には代官江川太郎左衛門の支配に属し、同年11月に神奈川県の所管となった。
●八菅村
「八菅村」は天文年中は内藤康行地頭であったが、永禄の頃は内藤景定の領地となった。元禄4年(1691年)には鈴木喜左衛門の知行になり、宝永3年(1706年)11月には平岡三郎左衛門の支配にかわり、宝永4年(1707年)8月より鈴木飛騨守、太田内記等の知行所となった。明治元年(1868年)9月に知藩事江川太郎左衛門の支配となり、同年11月には烏山県の所轄となった。
●八菅山村
「八菅山村」はもと八菅山熊野権現を中心としてできあがっていた一区域で、50余戸の悉くが修験者であった。八菅山熊野権現は光勝寺(もとは八菅寺といった)持ちで、同寺は貞享4年(1687年)7月から京都の聖護院の末寺となった。このように一山に神仏混淆して明治維新まで続いたが、一山の事務に従事する修験者は熊坂方面から移住したようである。天文10年(1541年)に七社権現の本社が再建されたが、その時の棟札に地頭内藤康行らの名が記されていることから、この地は天文年中は八菅村と共にその支配に属していたことがわかる。天正19年(1591年)に村内で社領として六石六斗の御朱印を附せられ、山内方8町は不入地として貢租を納めず、賊役にも服さなかったことから、修験者は悉く神社に直属して社領の民として何人の支配にも属せなかったのである。
本坊・脇坊・候人などが52坊あり、各々盛衰変遷があったようで、本坊のうち、年番を定めて毎年交代して一山の年中行事を司り、自ずから自治体の姿をなしていたものであった。明治維新で神仏混淆を禁じられると光勝寺は廃され、一山の修験者は悉く帰農し、新たに八菅山村の一村をつくり、役場を置いて村の事務を管理した。
●半縄村
「半縄村」は元禄13年(1700)の検地の際に熊坂村から分村しており、正保4年(1647年)と寛文13年(1673年)の水帳には熊坂村の内に合載してある。分村前は元和元年(1615年)に太田吉正の所領となったが、それから元禄10年(1697年)までは太田氏の采地であった。元禄11年(1698年)に牧野成春の領分となった。宝永3年(1706年)11月には平岡三郎左衛門の知行に移った。
宝永4年(1707年)に久松忠次郎・久留猪之助・大久保江七兵衛の3知行、並びに下野国烏山城主大久保山城守の領地となった。明治元年(1868年)9月には久留・久松・大久保の3地行所は知藩事江川太郎左衛門の支配に移り、同年11月に神奈川県の所轄となった。明治2年(1869年)3月にはさらに荻野山中藩の所管に属したが、同年7月に廃藩置県の令があり、烏山藩を烏山県に、山中藩を山中県に改称され、藩縄村山中県に属すことになった。明治5年(1872年)1月には新たに足柄県が設置されて、熊坂・藩縄・八菅の三村はその所管に統一された。明治9年(1876年)には悉く再び神奈川県の管轄になった。
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