三増みませ

諏訪神社

  「諏訪神社」 天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には「村ノ鎮守ナリ 神体円石一顆ヲ置 本地仏薬師ヲ安ス 例祭七月十七日 清徳寺持」とある。『神奈川県皇国地誌残稿』によると「式外村社々域東西十間南北三十間四尺八寸面積三百〇八坪村ノ中部ノ稍巳ノ方字後ヶ谷五百八十七番地ニアリ建御名方ヲ祀ル文暦二乙未(1235)年の勧請ト云フ例祭八月二十三日」とある。石鳥居には「慶応二歳次丙寅孟春吉旦建之、願主氏子 別当甘露山清徳寺現住應賢覺成化」とある。
  明治5年(1872年)7月に村社に、昭和2年(1927年)8月に神饌幣帛料供進神社に指定された。昭和28年(1953年)に宗教法人となる。
  境内社として「日枝社」と「八坂社」があり、八坂社(天王社)はむかし別に社屋があったが、現在はなく神輿だけが安置されている。清徳寺裏の山を天王山といい、山頂にある石祠が本宮である。

諏訪神社鳥居
社号柱手水舎
燈籠石碑
石碑おみくじ掛け
社殿本殿
八幡宮・日枝神社・吾妻橋神社境内社
八坂神社諏訪神社のケヤキ
石像物置
倉庫倉庫
境内


例祭

  例祭は9月3日



三増の獅子舞(神奈川県無形民俗文化財)

  三増の獅子舞は1人立ち三頭の形式をとる獅子舞で、三増地区に江戸中期頃より始まったと伝えられている。例年7月21日に行われる諏訪神社の摂社である八坂社の祭礼で舞われる。獅子舞は獅子3頭(父・巻獅子、母・玉獅子、子・剣獅子という)、天狗1、バンバ1、花笠2、日月の旗各1、笛師数人、唄師数人で構成されている。古来、この獅子舞は門外不出といわれ、神社を中心に一町(約110m)以外の地には出さないという掟があった。
  獅子舞はまず行道からはじまり、上宿の当屋(倉という)である三河屋酒店から出発し、諏訪社の境内に至って舞い、下宿の当屋である河内屋酒店に納まるのが慣わしであった。なお、翌年は下宿の当屋から出て、上宿の当屋に納めるという年次交替制であった。
  舞曲には「クルイ」・「ネマリ」・「トーハッハ」・「七ツ拍子」の四種があり、これを二十三の歌詞に合わせて奏して獅子舞をする。バンバ面をつけた者はもどき役で、舞調子をもりあげる。なお獅子頭は赤塗りの武蔵野型に属し、毛は麻緒、胴幕は浅黄に唐草模様。舞い手は顔面に赤布を垂らし、たっつけに草鞋ばきである。かつてこの舞い手は村内の長男にかぎるという制約があった。

三増の獅子舞

囃子

  



神輿

  



三増の歴史

  上毛利庄上川入郷に属した。



三増獅子舞のバンバ面(愛川町文化財)

  バンバ面は三増獅子舞の加役がつける仮面のひとつである。面はフクベ塗りといわれる黄土色の姥面で、古風なつくりを存している。面長19.5cm、面巾15.5cmで、裏に慶寛と墨書がある。慶寛は清徳寺一世を称する頼音房慶寛のことで、出自は田村時代の佐藤氏で、バンバ面はこの慶寛の作と伝えられている。彫刻を良くし、天保12年(1841年)に没した。現在、バンバ面は三増の獅子舞に使われているが、もとは清徳寺の獅子宮に祀られている鎌獅子の嚮導面であったといわれている。



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