太井
諏訪神社
太井地区の鎮守である「諏訪神社」の祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)で、建久4年(1193年)の創立と伝えられる。天保6年(1835年)の村明細帳に「諏訪宮 縦七尺(2.3m)、横四尺(1.32m)、覆殿三間四方(29.7m2)、拝殿無御座候、勧請の年月相知れ不申候、祭礼毎年七月二十三日、湯花執行仕候」とある。津久井郡神社誌には「寛政2年(1790年)の手水鉢、同12年(1800年)献上の石灯篭があり、また、嘉永4年(1851年)に神殿彩色、拝殿再建、覆殿屋根替、慶応2年(1866年)修理の棟札が残る」とある。
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると太井村の項に鎮守や鎮座地の記載はないが、下記の4つの神社が記載されいている。
八幡宮 例祭8月15日
第六天社 例祭6月15日
諏訪社 例祭7月23日 以上三社別当泉藏
飯縄社 例祭1月24日 別当壽性院
太井村には北根小屋組に諏訪大明神、荒川組に八幡大神、小網組に第六天が鎮座していた。こられは村内の寺院で真言宗泉蔵寺の住職だった隆英が別当として管理していた。明治維新の神仏分離令により神社を管理していた僧侶が継続して勤める場合には、僧籍を離れて復飾・改名して神職に変わることが命じられた。太井村では引き続き隆英が管理するのであれば還俗して神職になる必要があったが、泉蔵寺には檀家もあってこれはできなかった。代わりに神職を務める者が求められ、荒川組で名主を勤めていた角田六郎兵衛の息子である慎之助に白羽の矢が立てられた。明治2年(1869年)2月に太井村は神奈川県に慎之助の神職就任願書を提出して8月に許可され、角田大炊(つのだおおい)と改名して諏訪神社の宮司になり、他の村内神社も兼務した。一応、大炊は泉蔵寺で新務をしていたとしているが、翌明治3年(1870年)12月の太井村『戸籍簿』によれば年齢は11歳としており、当面の対策として仕立てられた。
明治6年(1873年)7月30日に村社となり、昭和27年(1952年)12月22日に宗教法人の神社として登記された。また、天王社が合祀されている。
諏訪神社は当初太井555番地に位置していたが、津久井湖建設による国道つけかえのために昭和38年(1963年)に現在地に遷座した。境内には遷座碑があり、その碑文は次の通りである。
諏訪神社遷座碑
この諏訪神社は今から約七八四年前の建久四年(1193年)に築井太郎二郎義胤が城山に在城のとき建御名方命をお祭りして津久井町太井五五五番地に建てられたものといわれています。その後太井の鎮守として住民に親しまれてきました。ところが神奈川県が相模川総合開発事業の一環として城山ダムを建設することになり水没する国道の付けかえのため神社も移転することになりました。そこで昭和三十八年(1963年)五月に現在地津久井町太井五〇六番地に新たに造営して祭神を遷座したものです。
昭和五十二年(1977年)七月二十三日建立
小網自治会
諏訪神社氏子中
現在の境内は西斜面に1881m2の面積を有し、東は城山の自然林、西方は住宅地の小網と北根小屋地区を一望できる。次に境内の建造物を記す。
本殿 流造柿葺 1.6m2
拝殿 入母屋造鉄板葺 26.4m2
覆殿 鉄板葺 29.7m2
鳥居 石造 昭和三十八年(1963年)三月吉日 太井氏子中
社殿に向かって右側に第六天社が祀られ、この社は水没地にあって遷座されたものである。社殿向かって左側には次の石仏等がある。
秋葉大権現灯篭 文化八年(1811年)辛未七月吉祥日
廿三夜塔 明治十三年(1880年)
道祖神塔 昭和十七年(1942年)一月十四日
灯篭 石造一対 昭和三十八年(1963年)三月太井氏子中
諏訪神社遷座碑
手水鉢 年代不詳
諏訪神社(昭和38年遷座) | 掲示板 |
水鉢 | 山車小屋 |
物置 | 鳥居 |
社号標 | 鳥居 |
社殿 | 本殿 |
石像 | 第六天社 |
境内 | 境内 |
祭礼準備 (開始8:00、終了11:10)
ここからは令和6年(2024年)7月に行われた例大祭の様子を紹介する。大祭前の7月14日(金)は朝8時に諏訪神社へ集合し、諏訪神社参道の提灯張りや山車の移動、および山車の掃除やメンテナンスなどが行われる。山車の移動は諏訪神社から祭礼のメイン会場となる小網地域センターまでとなっている。総欅造りの山車の重さは約4トンもあり、諏訪神社前の下り坂を降りるには多くの人出が必要となる。山車の移動は準備の一環であるが、多くの太井住民が参加する一大イベントとなっており、非常に見応えがある。
7時40分に諏訪神社に来ました | 8時になると準備開始 |
山車小屋の扉を開け中へ入る | 正面の戸を固定する柱を |
止めているボルトを抜き | 柱を外して移動します |
かなり重そうです | 柱をおろす |
境内の入口では幟の準備 | 柱を全て外すと |
ロープを緩めて | 戸を半分に折り畳みます |
戸を外して | 移動します |
協力しないと簡単に | 開けられない様に |
シャッターではなく敢えて | この構造にしたそうです |
戸を挟んでいた内側の | 柱も外します |
西側の幟が上がりました | 山車のハンドルを取り付けます |
内側の柱の方が太いので | 2人がかりで運びます |
戸を吊るしていたロープを | 引っ掛けて端へ寄せます |
山車をジャッキアップして | 車輪を地面に接地させます |
東側の幟も上げて | 両方の幟が揃いました |
山車を引き出し | 山車小屋から出します |
こちらは電球の配線を転がし | 軽トラまで移動 |
山車では掃除が始まります | エアブローで埃を飛ばす |
配線は軸に嵌めて滑車になる | 社殿に電球の配線を張る |
埃を除去した後は車輪を含め | 山車全体を拭き掃除 |
社殿周りには提灯が付く | 太井住民が集まり始めました |
山車小屋から提灯を出し | 山車の中へ積みます |
屋根の上に1人が上がり | 舵取り役が2名スタンバイ |
山車を前方に移動し | 後方にロープを伸ばします |
8時47分にいよいよ山車が | 諏訪神社を出発します |
重さ約4トンの総欅造りの山車を | 慎重に下ろしていきます |
かなり細い通りです | お宮を出て最初の坂が |
一番の難所で | 多くの人出が必要になります |
ハンドルにはかなりの | 負荷が掛かります |
道が平坦になってきました | 屋上では電線を避けます |
いったん山車を止めて | 今度は前方にロープを伸ばす |
後方のロープは木鼻に巻き付け | 曳き手は前方のロープへ移動し |
再び山車が出発 | 枝を避け |
西へ向かって進んで行く | 暫く進むと二車線道路に |
突き当り | 右折して北へ進む |
小網地域センター前に来ると | 電線を避けながら敷地内へ |
山車を一旦南側へ入れ | バックで建物側へ移動 |
正面をお宮の方向へ向け | 外階段前に山車を止める |
ロープを巻き取り | 曳き手に飲み物が配られる |
ジャッキアップで車輪を浮かせます | 大提灯を山車から出し |
軒下の丸型提灯を外して | 建物内へ運ぶ |
締太鼓を枠から外し | 山車からおろします |
大太鼓もロープを外して | 建物内へ運びます |
山車の舞台周りを拭き掃除 | 建物内では燈籠作り |
子供たちの描いた絵を | 木の枠へ置いて透明の樹脂板 |
で挟んでラップで固定します | 山車のハンドルも外しました |
山車では車輪を外し | 軸を掃除します |
車輪の軸穴も掃除します | 前方の木鼻をブルーシート覆う |
グリスを手に付けて | 車軸へ塗っていく |
山車専用の駐車禁止の看板 | 車輪の軸穴もグリスを塗り |
車輪を軸へ嵌める | 四か所の車輪は |
全てグリスアップし | ワッシャーにもグリスを塗ります |
提灯は長い紐に結びつけ | この後、壁に引っ掛けます |
最後に山車全体を | ブルーシートで覆います |
地域センターのフェンスに | 燈籠を飾っていきます |
準備を終えた囃子保存会は | 底抜け山車の準備の為に |
場所を移動し | 小屋から山車を出すと |
手で押して表に移動します | ここは祭礼時の休憩場所です |
底抜け山車を掃除 | 休憩を挟み |
タイヤに空気を入れて | 底抜け山車を再び裏へ移動 |
屋台には新たに照明を付ける為 | 業者と打ち合わせします |
宵宮準備 (開始10:00、終了12:00)
ここからは令和6年(2024年)7月19日(金)に行われた宵宮の様子を紹介する。宵宮は20時から山車の巡行が行われるが、小網飯綱囃子保存会は小網地域センターに10時に集合し、夜の巡行に向けて山車の準備を行う。
囃子保存会は地域センターに | 10時集合です |
山車からシートを外し | 折り畳みます |
山車の床から畳を外し | 運び出して |
天日干し | 床をブロワーで掃除します |
山車の外回りを | 隅々まで |
拭き掃除 | 愛着があるようですね |
床の蓋を開けて | 発電機を入れます |
発電機を回して | 照明の点灯確認 |
集会室では先日の準備で | 掛けた提灯を外し |
弓張提灯に | 電球を入れます |
丸型提灯を壁から外し | 紐を解いて |
山車まで運び | 軒下に下げていく |
車輪を拭き掃除 | 丸型提灯は沢山あります |
提灯を付け終わると | 今度は締太鼓を運び出し |
山車へ載せます | 大井組の暖簾が掛けられました |
こちらは小さい獅子頭です | テーブルに干します |
大太鼓を取り付け | 締太鼓をボルトで締める |
大きい提灯には防水用に | ビニールを被せ |
竹製の柄を追加し | 山車へ運んでいく |
小網の文字を正面にして | 提灯を屋根に固定 |
提灯の設置が終わると | 干していた畳を運び |
山車の上へ | 床に敷いて行きます |
締太鼓を枠に入れ | 楔で固定します |
12時前に準備を終え | 囃子保存会は一旦解散します |
私は提灯が並ぶ通りを歩き | お宮の様子を見に来ました |
鳥居から社殿に掛けて提灯が | 社殿横には忌竹が設置 |
小網氏子中の提灯です | 例大祭の掲示があります |
宵宮 (山車巡行20:00〜21:10)
宵宮は小網地域センターから国道413号沿いにあるファミリーマート津久井太井店の間を山車が往復する。山車が小網地域センターに戻ると山車の上からは踊り手により子供たちにお菓子が投げられ、毎年恒例の行事となっている。この行事は大祭の休憩場所と宮入り後にも行われる。
19時前に戻ってきました | 宵宮は20時スタートです |
山車のハンドルを運び | 山車に取り付けます |
囃子保存会のメンバーが | 集まってきました |
小網の提灯に | 電球を入れます |
敷地の入口の提灯も点灯 | ジャッキアップして車輪を接地 |
19時50分になると | 囃子の演奏が始まり |
おかめ等の | 踊りも入ります |
20時になると文化部の挨拶で | 宵宮が始まります |
ロープを前方に伸ばして | いよいよ山車が動き出します |
山車は地域センターを出発し | 正面の道路を右折 |
後方でもロープを持ちます | 山車は南へ進み |
途中で曳き手が右手の路地へ | 山車も右に舵を切り |
西へ向かって進んで行く | 太井に響く祭り囃子 |
屋根の上には2人が乗ります | 暫く進むと右手に |
ファミリーマートが見えてきました | 曳き手は駐車場へ入り |
山車を右折させて | 駐車場へ引き上げます |
宵宮ではファミリーマートが唯一の | 休憩場所となっています |
山車を東側へ寄せ | 20時20分頃に到着 |
前後ともに | ロープを巻き取り |
囃子は止まることなく | ファミリーマートの駐車場で |
約30分間 | 踊りを交えて演奏を続け |
20時50分になると | 再びロープを曳き |
山車を動かします | 店舗横を通り |
正面の道路の段差を木の板を | 敷いて慎重に超えていく |
左に大きく舵を切り | 山車は左折して |
囃子を奏でながら | 来た道を引き返します |
暫く東へ進むと | T字路が見えてきました |
曳き手は北と南の両側に別れ | 山車をギリギリまで寄せます |
南側の曳き手は北側に移り | 山車は舵を左に切って |
T字路を左折 | 来た道を引き返し |
北へ向かって進んで行く | 踊りは獅子舞も登場します |
左手に地域センターが見え | 山車を左折して |
敷地内へ引き上げます | 一旦左奥へ頭を入れ |
20時10分頃に到着 | バックで建物側へ移動 |
外階段前に止めます | 演奏を続ける囃子保存会 |
ロープを巻き取り | 木鼻に巻き付けます |
屋根に上っていた2名は | 梯子を使って降ります |
曳き手に飲み物を配ります | 子供達が山車の前に集まります |
踊り手が現れお菓子の入った | 袋を取り出し |
山車の上から | 投げて行きます |
その後も次々と | お菓子が宙を舞います |
子供達には嬉しいイベントです | 拾ったら運が上がりそうです |
お菓子の散布後も演奏は続き | 21時50分頃に演奏が終了 |
山車から丸型提灯を外し | 小網の提灯から電球を抜きます |
締太鼓も枠から外し | 外したものは館内へ |
外した提灯は毎回 | 紐に結びつけて |
天井から吊るします | 山車のハンドルも外します |
山車の木鼻をブルーシートで覆い | 山車にブルーシートを被せ |
巻き付けます | 山車の照明を消す |
小さい獅子頭を乾かします | 山車から撒かれたお菓子です |
片付け後は22時20分頃に解散 | 明日はいよいよ例大祭です |
※このあとは大祭準備へ。
囃子
太井村の天明5年(1785年)の『荒川牛頭天王初(始)まり』によると「祇園ばやし」の記載があり、この祇園ばやしがどのような囃子であったは不詳であるが、何らかの理由で江戸時代後期に消滅したと推測される。
現在、太井地区に伝わる囃子は明治初期に首長(くびちょう)こと柳川長吉により、小網と荒川(現津久井湖湖底)に伝承された「首長囃子」であり、首長囃子は江戸の祭り囃子の系統を引いていると考えられる。小網と荒川が習ったのはほぼ同じ年代だと推測されるが、昔から小網と荒川は距離は近いが囃子はどこか違うと言われ、小網の囃子は小バチが多くてテンポが早く、身体を使って叩くので見ていて飽きないなどと良く言われ、聞く囃子より見る囃子だとも言われて来た。
小網ではこの首長囃子を伝承する団体は「小網囃子連」として始まり、以降は先人によりこの首長囃子が継承されてきたが、昭和40年(1965年)に津久井湖が完成した頃に、諸般の事情により何年か囃子が途絶えてしまった。しかし、伝統芸能の継承に危機感を抱いた青年会が「清和会」を結成して囃子を復活させ、現在は「小網飯綱囃子保存会」として活動している。
楽器の構成は笛1・鉦1・締太鼓2・大太鼓1の五人囃子で、曲目は「昇殿(しょうでん)」・「四丁目」・「にんば/いんば」・「屋台」・「ねんねん」・「なかぬきり」があり、かつては「鎌倉」が入っていたが現在は残っていない。太鼓に使うバチは朴木(ほうのき)製で軽く、大太鼓は締太鼓より長めに作られている。全体的にテーパー状で先端が細くなっていて、特注で作られている。囃子には踊りが伴い、おかめや狐などの面や獅子頭を所有している。
バチは朴木 | 岡目・道化(達磨)・道化(四丁目) |
狐の面(表) | 狐の面(裏) |
獅子頭(雄・大) | 獅子頭(雄・中) |
獅子頭(雄・小) | 獅子頭(雌・小) |
太井地区では囃子の練習を一年を通して毎週火曜日の19〜22時に小網地域センターで行っており、諏訪神社の例大祭がある7月に入ると日曜日、月曜日、祝日以外は、大祭前まで毎日練習が行われる。次に令和5年(2023年)7月7日(金)に行われた囃子練習の様子を紹介する。
笛は立って後方で演奏 | 太鼓は座布団に座って叩きます |
小太鼓の角度はかなりきつい | 子供たちはタイヤで練習 |
後半に向けて徐々に熱が入る | 最後に太鼓を緩めて解散です |
小網飯綱囃子保存会は7月の諏訪神社の例大祭以外にも年間を通して囃子の演奏活動を行っており、1月元旦の獅子舞、老人ホームの慰問、4月初めのあきる野市引田の祭礼、4月中旬の鳥屋囃子交流会、8月は中澤囃子の集いと城山の祭礼、9月の地元第六天社の祭礼と小金井貫井の祭礼、10月の津久井やまびこ祭りなどに参加し、これ以外にも依頼を受けた祭礼やイベントなどに参加している。
山車
太井地区では明治初年頃から山車の巡行が始まり、明治に建造された山車を曳いてきたが、昭和61年(1986年)7月26日(土)の諏訪神社例大祭の夕方の巡行中に山車を転倒大破させてしまった。その後の諏訪神社例大祭では壊れた山車を曳き回さず、諏訪神社の境内で山車を固定して囃子を演奏していたが、このままでは囃子の存続が危ういと判断し、当時の自治会役員であった大工・中島正年氏に相談したところ、自治会員のボランティアを募って山車を新規で製作することになった。
山車の製作に際して財政面を何とかしようことになり、自治会役員に図った結果、平成元年(1989年)に山車建設委員会を発足させて寄付を募ることになった。この時に集まった寄付により山車だけではなく、諏訪神社の境内に山車小屋も建造した。山車の製作場所は梶野芳三氏の庭を借りてお仮小屋を立て、材料は全て欅ということでいろいろな所から材料を寄贈してもらった。欅は乾燥させるのに時間が掛かるため、山から切って来た欅を材木屋で乾燥させた欅と交換してもらった。なお、総欅造りの山車の重量は約4トンにもなり、太井地区の多くの住民が参加しないと重い山車が出せない様に、あえて総欅造りにしたという。山車はほとんどが地元の大工による手作りであるが、彫刻と車輪関係は専門の業者に依頼した。
太井の山車 | 正面 |
左側面 | 右側面 |
舞台裏の彫刻 | 柱の彫刻(竜) |
屋根裏 | 欄干 |
車輪 | 舵取り用のハンドル |
締太鼓枠 | 大太鼓受 |
床は畳敷 | 後年に追加された燈籠 |
着工から丸2年の平成3年(1991年)に山車はほぼ完成し、その後も引き続いて作業を行い、現在の山車が完成した。完成した山車は明治時代に建造されたそれまでの山車よりも遥かに大きく、古い山車は又野の八幡神社に譲渡され、又野では大破した部分を修理して現在でも八幡神社の例大祭で曳いている。
又野の山車(旧太井の山車) | 正面 |
左側面 | 右側面 |
締太鼓と笛 | 大太鼓 |
踊り | 背面 |
車輪 | 巡行の様子 |
太井地区では山車の曳き手の減少に伴い、山車の巡行の時間を減らし、その代わりに令和3年(2021年)に手押し型の底抜け山車を製作して、例大祭の囃子の巡行の前半にこの底抜け山車で太井地区を巡行するようになった。なお、底抜け山車で使う太鼓は専用のサイズのものを新調した。
底抜け山車 | 専用の太鼓を新調 |
神輿と御浜降り
太井では大人神輿1基と子供神輿1基があり、コロナ前までは山車と共に太井地区を渡御していたが、コロナ明けからは子供神輿だけとなっている。大人神輿は現在の山車が新調された平成3年(1991年)頃に新調されたもので、それ以前は第六天社の社殿に保管されている古い神輿を担いでいた。この古い神輿の製作年代は不詳だが、囃子が始まったのと同時期である明治頃の製作と推測される。なお、大人神輿の掛け声は「オイサ―」であった。
大人神輿 | 子供神輿 |
旧大人神輿 | 令和元年(2019年)の渡御の様子 |
神輿渡御の始められた年代は不明であるが、諏訪神社の例大祭では特徴的な「御浜降り」が行われていた。御浜降りは津久井湖が建設されるまでは元第六天社のあった近くの相模川で行われ、移転後は津久井湖の側で行われていた。例大祭当日の14時に大人神輿と子供神輿、そして山車が諏訪神社を出発して集落内を巡行し、大人神輿の渡御の途中の15時30分頃に津久井湖に神輿が降りて湖畔に置き、大人神輿の鳳凰だけを外して鳳凰の軸(脚)を湖の水に漬け、鳳凰を再び神輿に挿し直して渡御を再開した。
祭礼の歴史
諏訪神社の例祭日は江戸時代後期には7月23日であったが、近年は7月23日近くの土曜日に行っている。太井地区では現在、3つの神社の祭礼が執り行われ、下記に令和6年(2024年)度の日程を記載する。
諏訪神社例大祭・・・令和5年7月20日(土) 神事 午後1時
第六天社祭礼・・・令和5年9月8日(日) 神事 午前11時
飯縄神社祭礼・・・令和6年3月23日(日) 神事 午前11時 当番(根小屋地区)
太井村の天明5年(1785年)の『荒川牛頭天王初(始)まり』によると、鎮守とは別に村を挙げての祭りを執り行うこともあった。
「 天明3年(1783年)不作、4年(1784年)春凶作、米価高騰、夏より大役(疫)病はやり、白岩坂に杉の葉で厚板に屋根をふいて牛頭天王を祀った。しかし疫病おさまらず、村中が煩ったので、荒川八幡宮に宮を移し、天明5年初めて祭礼を始める。6月11日、御仮屋へ移し村中一軒ずつ天王様をお廻りし、祇園ばやしで廻った。15日夜は御浜下り、又祇園ばやしでお宮にお入れした。
天明6年(1786年)から軒別のお廻りは取りやめ、大通りを11日にお廻り、これを例に年々祭礼を行う。御祭礼6月11日、村中祇園ばやしにて廻る。御仮屋は15日まで、15日は御浜下り、元の御宮の御入れする。6月15日より年々湯の花を行う。
右は村中安全悪病を除け、子孫長久のため長く仕るべく候、以上
天明5年6月 荒川 角田六郎兵衛 定め置く」
上記のような天王社祭礼の行事を定め、夏祭として受け継がれ、勇壮な御浜降りは城山ダムができるまで行われてきた。牛頭天王は祇園天神ともよばれ京都祇園社の祭神であった。津久井県内各地にある「天王様」は疫病除けの神として祀られてきた。太井村で天王社の祭礼が定着した3年後に、似たような天王社勧請の動きが青野原村にもあった。
太井村の荒川と小網には明治初期に「首長囃子」が伝承されているので、『荒川牛頭天王初(始)まり』に記載されている「祇園ばやし」は何らかの理由で江戸時代後期頃に消滅したと推測される。また、神輿の記述は無いが文面からは御浜下りを含め神輿の渡御が行われていたと推測され、その後の諏訪神社の例大祭にも受け継がれてきたと考えられる。
コロナ前までは境内に露店が並び、宮入り後には山車小屋に設営された舞台にて、舞踊やカラオケなどの素人演芸が開催されていたが、コロナ後はこれらは無くなっている。また、宮入りの時間はコロナ前は20時頃であったが、コロナ明けは18時頃と早まっている。
太井の歴史
太井村の慶長9年(1604年)の総検地では田畑屋敷永四一貫六二六文が打ち出され、定納高永四〇貫六〇〇文、除地文として寿性院と泉蔵院がそれぞれ一間(軒)と確定した。名請人は永二貫文台の玄蕃を最高として計60人、うち屋敷名請人が36人となる。太井村は相模川舟運の基点であり、元禄2年(1689年)には相模川河口の須賀浦(平塚市)へ上下する高瀬舟七艘の他に、漁船の唐網船10艘があった。『風土記稿』によると荒川組は正保(1644〜48年)の図によると太井村の側に荒川村と別村になっていたが、その後は太井村の小名に属したとある。
太井村の荒川組は中沢村から中野村に至る津久井道の相模川渡河点にあり、村行政の中心地である。ここに寛文5年(1665年)頃に荒川番所(五分一運上取立番所)が設置された。享保19年(1734年)の『村鑑』によると番所の面積は六畝二一歩で、代官手代1人、下役2人が昼夜詰め、津久井県内村々から相模川や陸路を利用して出荷される林産製品に五分一の運上を課して徴収した。また入会秣場(いりあいまぐさば)の札銭、相模川の鮎漁運上や高瀬船運上も取り立てた。また同書によれば川船役四艘分二四〇文を上納し、中沢村と太井村を結ぶ荒川の渡しには船二艘(馬渡船一艘・歩行渡船一艘)があり、この船頭給分として夏・秋に村々から一軒当たり麦・粟四升宛を取り立て、毎年10月には橋が架けられた。太井村の名主角田家は荒川組名主で、太井村全体の名主として村行政を監督した。荒川番所に近接して屋敷を構え、村方文書を伝承した。戦国時代甲斐国武田氏発給の朱印状模写三点があるが、これはかつて角田家が武田家に臣従したことを示しているのであろう。
享保19年(1734年)の『村鑑』によると、集落のうち北根小屋組は根小屋村に接し、同村との境界になる城山御林は反別七四町余、本数22,000本があり、山守2人が置かれ、山守給として百姓一軒に鐚五〇文を出している。
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると戸数は百十五、村高三三四石一升九合(六位)、広袤東西一三町(10位)、江戸より一四里で、往古は根小屋村も太井村に含まれていた様である。東は相模川を経て中沢村(旧城山町)に、西は中野村、南は根小屋村、北は相模川の対岸にある三井村と接している。村の北部の境界を相模川が大きく蛇行し、その河岸段丘上に集落が作られ、小名として小網組・荒川組・北根小屋組がある。
慶安3年(1950年)の『津久井領絵図』では特に「太井のうち」と称し、「荒川・こあミ」を特記している。さらに本絵図の作成に関与した津久井領全27か村の名主3人連署の中に、三組の名主として九郎左衛門・小左衛門・助九郎の名が見える。当時の太井村が相名主(あいなぬし)制(同一所領の一村に複数の名主がいること)をとっていたことと、さらに村を構成する三組の独立性が強く、各組が一村としての性格を持っていたことが伺える。なお、同絵図で相名主制が確認できるのは太井村の他に、青根村・青野原村・長竹村・中野村と中沢村(旧城山町)、若柳村・与瀬村(以上、旧相模湖町)、吉野村・佐野川村・沢井村・日連村・名倉村(以上、旧藤野町)で、領内27か村のうち13か村が相名主制であった。
昭和30年(1955年)頃の太井地区の世帯数は現在とはほど遠く、約75世帯程しかなく人家もまばらで、大きく分けて城山の麓と現在の太井信号付近に人家があった程度であった。昭和40年(1965年)3月に相模川総合開発事業の城山ダム(津久井湖)完成に伴い、荒川は湖底に沈んだが、小網は一部が湖底に沈んだだけで大部分が残ったため、太井と小網は同等の認識が持たれている。
大祭準備 (開始8:00)
ここからは令和6年(2024年)7月20日(土)に行われた例大祭当日の様子を紹介する。大祭当日は朝8時から準備が行われ、小網地域センターでは小網飯綱囃子保存会が山車の準備を、文化部がテントの設営を行う。小網飯綱囃子保存会は山車の準備を終えると底抜け山車の出発地点へ移動し、底抜け山車の準備を行う。
7時40分にやって来ました | 大祭当日は8時集合です |
文化部は倉庫から | テントの部材と |
キャスター付きの台を運び | テントを組み立てます |
囃子保存会は山車から | ブルーシートを外します |
文化部はテントの足を伸ばし | 天幕をパイプに結び付け |
テーブルを並べます | 囃子保存会は丸型提灯を外し |
軒下に吊るしていく | 締太鼓をボルトで増し締め |
干していた小さい獅子頭を | 山車へ運ぶ |
小網の大提灯を運び出し | 屋根に固定 |
締太鼓を山車へ載せる | もう片方の小網提灯も設置 |
大太鼓と | 締太鼓を固定 |
舵取り用のハンドルを取り付け | 根元をボルトで固定します |
底抜け山車に必要な備品を | 軽トラへ積んで行く |
文化部の準備はひと段落 | 囃子保存会も山車の準備を終え |
8時40分頃にセンターを離れ | 底抜け山車のある民家へ |
裏から底抜け山車を移動し | 巡行に向けて準備に取り掛かる |
大太鼓を設置し | 正面に弓張提灯を並べる |
柱にはミニ提灯を設置 | 途中で水分補給?を挟み |
締太鼓を設置 | 軒下には小さい丸型提灯 |
9時15分頃に準備が終わり | ガレージで軽食を取ります |
底抜け山車巡行(出発11:15、到着13:30)
コロナ前までは一日かけて山車で太井地区を巡行していたが、曳き手の負担軽減のために巡行の前半は、新しく製作した手押し型の底抜け山車で太井地区を回る。なお、締太鼓と大太鼓は底抜け山車専用に新調している。
11時になると | 底抜け山車を車道へ移動し |
金棒2名がスタンバイ | 祭り囃子の演奏が始まり |
11時15分頃に出発 | 十字路を直進し |
西へ向かって移動 | これから太井地区を巡行します |
※このあとは底抜け山車巡行へ。
例大祭神事(式典) (開始13:00)
13時からは諏訪神社の社殿にて、中野神社の宮司により例大祭の神事が執り行われる。神事が終わると社殿横に設置された忌竹にて、神輿渡御に際して神事が執り行われ、御霊遷しや玉串拝礼などが行われる。
底抜け山車の巡行途中ですが | 諏訪神社にやって来ました |
こちらのテントが受付です | 子供達が集まっています |
13時になると中野神社の宮司が | 社殿に上がり触れ太鼓が叩かれ |
例大祭の神事が始まります | 社殿横には忌竹内に |
子供神輿と | 大人神輿が並べられる |
鳥居横では育成会が子供達を | 集めて渡御の説明を行います |
途中で地元の消防団が | 諏訪神社に立ち寄ります |
13時25分頃に神事が終わり | 最後に宮司の挨拶 |
出席者は社殿を降り | 育成会に声を掛けます |
育成会は階段を上がり | 神輿の前へ集まります |
宮司が大人神輿と | 子供神輿に御霊を入れ |
子供神輿と | 大人神輿を修祓 |
続いて出席者をお祓いし | 子供神輿前で祝詞を奏上します |
子供達は高・中・低学年に別れ | 代表者が順番に玉串奉奠 |
玉串奉奠が終わると | 宮司の挨拶 |
育成会は神輿前で記念撮影し | 子供神輿を抱えて |
階段をおろしていく | これから子供神輿がお立ちです |
子供神輿渡御 (お立ち13:50、宮入り17:15)
神輿前で神事を終えた育成会は諏訪神社を出発し、太井地区を渡御して行く。なお、大人神輿はコロナ前を最後に、担ぎ手不足のために渡御がなくなっている。
金棒と賽銭箱が先導し | 子供神輿がお宮を出発 |
神輿の後方には台車と | 水分を積んだリヤカーが続く |
子供達には過酷な暑さです | 坂を下り西へ進む子供神輿 |
津久井乃庵に到着すると | 店舗横に子供神輿をおろす |
水分を補給し | 5分ほど休憩を取ると |
再び担いで津久井乃庵を出発 | 萩原歯科を通過し |
更に西へ進むと | 十字路に出て右折 |
休憩場所の地域センターに | 14時10分に到着 |
文化部は飲み物を準備 | 子供神輿を差し上げ |
台車の上におろします | この後も渡御は続きます |
子供たちはしばしの休憩 | カキ氷が人気です |
子供神輿は山車とは別行動で太井地区を巡行する。
※このあとは子供神輿宮入りへ。
山車出発 (太井地域センター15:05)
お囃子の巡行に関しては前半は底抜け山車で行うが、後半は本山車にて行っている。コロナ前までは神輿の宮立ち前に諏訪神社に山車を移動させ、神輿と共に諏訪神社を出発して太井地区を巡行していた。
人が集まってきました | 山車の前方にロープを伸ばし |
曳き手がロープを持ちます | お囃子の演奏が始まり |
いよいよ山車が動き出します | ロープの曳き手は |
左右に大きく分かれます | 屋根の上には2人乗ります |
舵を左に大きく切ります | 南側の曳き手は北側に移り |
山車を北側に向け | これから太井地区を巡行していく |
※このあとは山車巡行へ。
山車宮入り (到着17:40)
太井地区の巡行を終えた山車は最後の難所である上り坂を登って諏訪神社に宮入りする。宮入り後は山車の前に子供たちが集まり、山車の上からお菓子が投げられる。囃子の演奏が終わると山車を山車小屋へ収納し、小網飯綱囃子保存会は太井地域センターにて直会を行う。
難所の上り坂で | 山車を曳き上げながら |
曳き手が境内へ | 入ってきました |
提灯の電線を避け | 17時40分に |
山車が無事に | 宮入りしました |
山車を曳くロープを | 木鼻に巻き付けます |
演奏と踊りはまだまだ続き | 山車を手押しで |
移動させます | 正面を北側に向け |
バックさせて | 山車小屋前で止めます |
囃子の演奏は続き | 子供たちが集まってきました |
境内でも踊り手によって | お菓子が投げられます |
一方、社殿横の大人神輿では | 鳳凰を露盤から抜き |
馬を抜いて | 忌竹から出し |
拝殿へ上げて | 馬の上におろし |
鳳凰を差し直します | 山車ではお菓子の配布が続き |
踊り手が次々と | お菓子を投げていく |
コロナ前は20時に宮入りでした | この時間帯は暑さが残ります |
のしの掲示板を片付ける | 山車では獅子舞が登場 |
赤ちゃんの頭に噛みつきます | 18時05分に演奏が終了 |
締太鼓を外し | ボルトを緩めます |
山車を小屋へ押しますが | 勢いが足らずいったん後退 |
再度挑戦しますが入らず | 更に後退させ |
勢いを付けて入りましたが | 位置が悪く修正します |
山車を寄せ切れず | 一度小屋の外へ出すことに |
4トンもあるので大変な作業です | もう一度山車を押し込み |
5分掛かってようやく | 納めることが出来ました |
ハンドルのボルトを外し | 山車からハンドルを外します |
ジャッキアップで車輪を浮かせる | 山車小屋の柱を運び |
正面に立てていく | もう一本立てて |
外していた戸を運び | 柱の間にはめ込みます |
もう一枚の戸もはめ込み | ロープを戸に取り付けて |
引き上げます | もう一枚も引き上げ |
最後の戸もはめ込み | ロープで引き上げます |
外側の柱を運び | 戸を内側の柱と挟みます |
柱は長いので | 結構な重量です |
柱を固定するのもコツがいります | 全ての柱を立てると |
表裏の柱をボルトで固定 | 山車小屋の戸締りが完了すると |
囃子保存会はお宮を出発し | 徒歩で地域センターへ移動 |
帰りは提灯に明かりが灯ります | 地域センターに到着し |
集会室で直会の準備 | 明日は8時から片付けです |
囃子保存会は20時過ぎに解散 | 太井の皆様お疲れ様でした |
大祭の翌日は朝8時から後片付けが行われる。
戻る(相模原市の祭礼)