杉久保すぎくぼ

豊受大神

 「豊受大神(とようけのおおかみ)」の祭神は豊宇気毘売命(とようけひめのみこと)で、近世後期に恩馬郷四か村(本郷・杉窪・上河内中河内)の総鎮守で、「豊受皇大神」と尊称した。創建時期については推古天皇6年(598年)、霊亀元年(715年)など諸説あるが、いずれもはっきりとしない。『鷹倉社寺考』によれば治承4年(1180年)に渋谷重国とその三男の遠馬時国が社殿造営とあり、当社は平安時代末期に創建または中興されたとみられる。また、同書によると足利直冬(尊氏の子で尊氏の弟直義の養子)の願文や、後の北条新九郎(小田原北条氏当主の通称)の願文などに「遠馬大明神」・「遠馬明神」とあり、かつては「遠馬明神」と称されていたものが、戦国時代以降に「豊受大神」と改称されたようである。
 北条氏の庇護を受けていたためか、天正18年(1590年)に神門が兵火(豊臣秀吉の小田原攻めといわれる)にかかり炎上したといわれている。供鐘は嘉吉年間(1441〜43年)鋳造、寛永8年(1631年)に再鋳されたものがかかっていた。善教寺、松蔭寺などが『風土記稿』に載る。江戸時代幕末の社寺改めによって恩馬郷四ヶ村の鎮守「豊受皇大神」と尊称され、明治元年(1868年)に新政府の寺社分離令により現在の「豊受大神」と改称した。始めは御陵を御神体と定めて拝殿のみで、のちにこれを改めて内殿の創建が行われたが、幾多の兵乱に類焼して再建を重ねてきた。現在の祥殿は昭和60年11月に造営され、続いて神輿殿と神輿が奉献された。現在は境内社として平成3年に造営した内宮社の「天照皇大神」を、末社の寄宮五社を、その他に「天満宮」・「山王宮」・「琴平宮」・「三峰宮」・「厳島大神」・「秋葉大神」を祀る。
 拝殿には江戸期の絵馬三面があり、昭和49年(1974年)4月23日に海老名市の重要文化財に指定されている。このうちの一面は杉久保生まれの画家であった狩野派の金指桂山(けいざん)が、文政6年(1823年)に豊受大神に奉納した「源三位頼政鵺(ぬえ)退治ノ図」で、桂山は弘化3年(1846年)5月23日に亡くなっている。他の二面は荻野出身の鳥居派の鳥居経国(とりいくねくに)とその門人の鳥居経久(つねひさ)のものと思われる。

参道豊受大神
狛犬(吽)狛犬(阿)
鳥居社号柱(外宮豊受大神)
由緒杉久保自治会館
造園記念碑石階段
社号柱(豐受神社)手水舎
納札所倉庫
神楽殿燈籠
拝殿幣殿・覆殿(本殿)
豐受大神縁起内宮社造営 神楽殿移築
鎮守の森 森林浴コース御神木
絵馬(三面) 市指定重要文化財境内
参道石階段
社号石(内宮社 天照皇大神)鳥居
内宮 天照皇大神燈籠
石造物天満宮
石造物石造物
末社 山王社祭神
おみくじ掛け絵馬掛け
石造物杉久保第二自治会館

囃子

 杉久保の囃子は「新囃子系」で、明治時代に本郷新宿から伝授されたという伝承がある。有馬村時代は「けんかばやし」として、いろいろな場所で叩いていた。昭和40年(1965年)頃に当時の青年会により復活し、その後は昭和55年(1980年)から子供たちへの指導を始めた。
 楽曲の構成は屋台(中にカワチゲエ)、乱拍子、宮昇殿、バカッパヤシ、キザミ、昇殿、カンダマル(神田丸)、鎌倉、四丁目、屋台。伝承団体は「杉久保はやし連」で、豊受大神の例大祭、盆踊り、市民まつり、元旦の叩き初め、市の行事などで活動をしている。令和8年(2026年)時点で小学生から大人まで40数名で、1年を通して練習に励んでいる。


神輿

 

神輿殿

杉久保の歴史

 杉久保は海老名市の中南部に位置し、西は今里・上河内、南は本郷、東は吉岡(綾瀬市)と接する。西端の永池川流域に沖積低地を持つが、村域の大部分は台地である。この台地内に大谷の浜田から流れ出る釜坂川の谷戸が刻みこまれ、また、各所に谷頭の窪地も持つ。杉久保の名は杉の生い繁った窪地が至る所にあったことに由来する地名であろう。特に釜坂川流域は杉のよい生育地であったと思われる。
 建久9年(1198年)12月に稲毛三郎重成が亡妻(北条政子の妹)のために馬入で橋供養を行うが、その橋材はこの地の産であったとの伝えがある。馬入(相模川河口)までの距離が近く相模川を利用しての運搬に便がよかったからと思われる。『社寺考』に「・・・架の木を重成、渋谷庄司の子遠馬三郎時国及び大谷四郎某に乞い、大谷郷浜田・遠馬郷椙久保村より伐採す。機材運行に当り明神の神護を得て無事成願す」とある。なお豊受大神の旧名称は遠馬明神といい、ここで橋材の御祓いをし、その後相模川を下したとみられる。表記は『風土記稿』・『天保郷帳』では「杉窪村」、『旧高旧領取調帳』以下、明治以降のものでは「杉久保」と記されている。
 中世には恩馬郷に属していたが、近世初頭に恩馬本郷村から分けられて、上河内村・中河内村・杉窪村の三村が成立した。江戸時代はじめには幕府直轄領と旗本太田氏知行所の相給であったが、元禄10年(1697年)に直轄領は神尾氏知行所とかわり幕末に至る。天保期の調査で村高五九五石、家数六〇戸であった。


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