杉久保
豊受大神
「豊受大神」の祭神は豊宇気毘売命(とようけひめのみこと)で、近世後期に恩馬郷四か村(本郷・杉窪・上河内・中河内)の鎮守であった。創建時期については推古天皇6年(598年)、霊亀元年(715年)など諸説あるが、いずれもはっきりとしない。供鐘は嘉吉年間(1441〜43年)鋳造、寛永8年(1631年)に再鋳されたものがかかっていた。
『社寺考』によれば、当社は平安時代末期に創建または中興されたとみられる。また、同書によると足利直冬(尊氏の子で尊氏の弟直義の養子)の願文や、後の北条新九郎(小田原北条氏当主の通称)の願文などに「遠馬大明神」・「遠馬明神」とあり、かつては「遠馬明神」と称されていたものが、戦国時代以降に「豊受大神」と改称されたようである。北条氏の庇護を受けていたためか、天正18年(1590年)に神門が兵火(豊臣秀吉の小田原攻めといわれる)にかかり炎上したといわれている。
拝殿には江戸期の絵馬三面があり、昭和49年(1974年)4月23日に海老名市の重要文化財に指定されている。このうちの一面は文政6年(1823年)に杉久保生まれの画家であった、金指桂山が奉納した「源三位頼政鵺退治の図」である。
内宮社に「天照大神」、末社に「秋葉大神」・「琴平大神」・「山王宮」・「三峯大神」・「底立大神」・「稲荷社」を祀る。善教寺、松蔭寺などが『風土記稿』に載る。
| 八坂神社 | 鳥居 |
囃子
杉久保の囃子は「新囃子系」で、明治時代に本郷・新宿から伝授されたという伝承がある。楽曲の構成は屋台(中にカワチゲエ)、乱拍子、宮昇殿、バカッパヤシ、キザミ、昇殿、カンダマル(神田丸)、鎌倉、四丁目、屋台。「杉久保はやし連」
神輿
杉久保の歴史
杉久保は海老名市の中南部に位置し、西は今里・上河内、南は本郷、東は吉岡(綾瀬市)と接する。西端の永池川流域に沖積低地を持つが、村域の大部分は台地である。この台地内に大谷の浜田から流れ出る釜坂川の谷戸が刻みこまれ、また、各所に谷頭の窪地も持つ。杉久保の名は杉の生い繁った窪地が至る所にあったことに由来する地名であろう。特に釜坂川流域は杉のよい生育地であったと思われる。
建久9年(1198年)12月に稲毛三郎重成が亡妻(北条政子の妹)のために馬入で橋供養を行うが、その橋材はこの地の産であったとの伝えがある。馬入(相模川河口)までの距離が近く相模川を利用しての運搬に便がよかったからと思われる。『社寺考』に「・・・架の木を重成、渋谷庄司の子遠馬三郎時国及び大谷四郎某に乞い、大谷郷浜田・遠馬郷椙久保村より伐採す。機材運行に当り明神の神護を得て無事成願す」とある。なお豊受大神の旧名称は遠馬明神といい、ここで橋材の御祓いをし、その後相模川を下したとみられる。表記は『風土記稿』・『天保郷帳』では「杉窪村」、『旧高旧領取調帳』以下、明治以降のものでは「杉久保」と記されている。
中世には恩馬郷に属していたが、近世初頭に恩馬本郷村から分けられて、上河内村・中河内村・杉窪村の三村が成立した。江戸時代はじめには幕府直轄領と旗本太田氏知行所の相給であったが、元禄10年(1697年)に直轄領は神尾氏知行所とかわり幕末に至る。天保期の調査で村高五九五石、家数六〇戸であった。
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