丸島まるしま

神社の紹介

  「駒形神社」は岡崎の旧丸島村の鎮守で、明治時代以降も神社合祀を免れ岡崎地区丸島の氏神社になっている。創建は天文年間(1532〜54年)以前と思われ、祭神は「大国主命」を祀る。天正19年(1591年)11月には徳川家康公より神領高一石の御朱印を賜っている。明治になって駒形神社と改称し現在に至る。別当院は「福泉寺(古義真言宗)」で、正しくは「如宝山慈現院福泉寺」といったが、すでに絶廃している。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には当村の旧家として和田氏をあげており、鎮守を「和田の宮」と唱えるのはこの家の鎮守とせし為ならんと述べ、昔は神社の鍵取りを努めていたとある。また、駒形神社を「和田宮」といい、古くは和田氏の者のみこの宮を鎮守したという伝説も書きとめている。同社には11枚の棟札が現存しており、年代は未詳だが天文6年(1537年)以前の棟札に「丸島郷大権現和田宮」、永禄11年(1568年)・天正17年(1589年)の棟札には「大権現和田宮」、現存しないが『風土記稿』に載る元和9年(1623年)の棟札には「和田大権現」とある。宝永2年(1705年)には社殿を新造し棟札には「駒形権現社」と記されていることから、「和田宮」と称されていたのはこの時期までと思われる。またこれらの棟札から、社殿の造営は大山の大工「手中明王太郎」が代々担当したことが分る。
  現存する棟札と勧化札(かんげふだ)11枚は平塚市指定の重要文化財になっている。棟札とは建物の創建や修理の際に、その由を木札等に書いてその建物の「むね」や「はり」に打ち付けたもので、形は始めは上下が同じ幅の縦長であったが次第に下部が上部より狭くなっていった。棟札は建築史及び社会史・経済史・政治史の史料として大切なものである。また、勧化札は社寺の建立・修理の際などに、人に勧めて寄付を募ったことが記されている。
  当社には昭和42年(1967年)に笹生源治氏が、『駒形神社誌』(孔版)という大変よく調査された報告を出している。それによれば、明治の神社合祀令の時は氏子の寄付金1千円と共有の水田で作った基本財産があり、合祀を免れた。共有地は昭和20年(1945年)の農地解放時に解放してしまい、現在は存在しない。また、同書によると駒形神社の末社には「稲荷社2」・「道祖神」・「弁天」・「天神」・「天王」・「神明」の7社があり、奇宮として「大神宮社」・「八幡社」・「若宮八幡社」の3社を祀るとある。
  昔は社地が現在よりも地盤が高いところにあったというが、昭和42年(1967年)に鈴川が崩壊した時に、駒形神社の土砂をもっていくので低い土地(現在の地)に移築した。その際に、子供の遊び場や車で上がれるように坂道を造った。また、境内には社殿の右側に「天満天神(菅原道真公)」・「八幡大神(応仁天皇)」・「若宮八幡大神」・「八坂大神(稲田姫之神・素?鳴尊)」・「神明社(天照皇大神)」を祀り、石段左手の弁天池にある小さな岩洞には「弁天様」が祀られている。

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駒形神社鳥居
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狛犬狛犬
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水鉢鐘楼
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拝殿覆殿・幣殿
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天満天神・八幡大神・若宮八幡八坂大神
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神明社弁天池・弁天社
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神社由緒棟札・勧化札
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境内


例大祭

  『風土記稿』によると例祭日は旧暦の6月21日であったが、その後は4月15日になり、現在は4月第2土曜日となっている。祭りの前日は宮番などがオコモリをしたが、一晩中籠もることはなかった。昔はオコモリに若い衆も参加したという。大祭当日は氏子総代の家に神主を呼んでいたが、近年では公民館に呼んでいる。世話人や自治会の役員などが手伝って供物などを氏子から集め、駒形神社へ奉納した。
  昭和42年(1967年)までは神楽殿があり、戦前まで青年達が受持って余興を担当した。その神楽殿で愛甲・長谷からやってきた芝居師が演じ、舞台の花道は青年団が作った。また、宵宮桟敷を作り、芝居などの幕間に地元の若い衆、大畑・鶴巻・伊勢原の若い衆が囃子太鼓を叩いた。祭りには露天などが10〜15軒位出た。

太鼓

  かつては若い衆達が太鼓を叩いてムラ中を廻ったが、近年になり太鼓を自動車に積んで廻るようになった。その後、丸島では長い間囃子太鼓が途切れていたが、岡崎の大畑から教わり平成に入ってから丸島太鼓連を結成し山車も新造した。



神輿

  子供神輿は昭和の初めに寄付されたもので、昭和12年(1937年)の製作である。大祭当日は子供達が担いで渡御し、公民館前・アカサカ・マチヤに休憩所があり、そこで神輿を休める。その時は子供会が中心になって、子供達にジュースや菓子などを配る。



青年会と青年団

  青年達の集まりは古くからあった「青年会」と、いつの頃か新規に結成された「青年団」があった。青年会には村にいる男子が昔の尋常小学校を卒業すると全員入り、正月の青年会の集まりや祭りのあとの宴会などに挨拶して入れてもらう。兄弟がいれば一軒から何人でも入り、38歳までであった。
  青年会が主としてやったことは祭礼に関する事で、太鼓連は青年会がやり、いつも仲間と集まって太鼓の練習などをしていた。また、祭礼の余興の主催も青年会がやった。明治33年(1900年)生まれの杉山彌一氏は24歳の時に、金目の堀之内の芝居を部落の祭りのために10円で買ったことがあるという。また、伊勢原三ノ宮の比々多神社の祭礼には法被を着て出掛け、むこうの神輿を担いだりした。他の村の祭りに太鼓が呼ばれることがあるので、その時は皆で太鼓を背負って出掛けて叩いてくる。
  青年会ではその他に部落内の道路に砂利を敷いたり、村の中で必要とする仕事があると青年会で引き受けてやっていた。消防のこともして、昭和8年(1933年)頃にエンジンのついた消防ポンプを買ったことがある。『駒形神社誌』には駒形神社の下の弁天社の管理は青年会がやるものとあり、4月7日の池の清掃の他に年3回集まって巳待講をした。各人米2号、茶菓子代を持ち寄ったとある。また、池の石垣は青年が縄ないをして金を集め、七沢の石屋に注文し、その運搬は自分達でやっていたとある。同書には昭和13年(1938年)2月18日の「丸島青年会会則」があり、事業として修養会・産学研究会・品評会・芝焼き・禁酒の励行・社会事業につとめること等が記載されている。
  青年団は中古にできたもので、学校を卒業して村にいると団の方から加入の勧誘を受けたという。年齢制限は25歳までで、岡崎村青年団の丸島支部であった。内容は運動会・剣道大会などの競技大会をよくやったという。



丸島

  岡崎地区の丸島というところは現在、岡崎台地の西端部の丸島台地沿いに集落が立地しているが、以前は現在地のずっと西方の水田の中にあった。その水田の中に盛り土された部分があり、小さい境内に浮島稲荷社が祀ってある。境内には慶応3年(1867年)の刻銘のある石灯篭が2基と、嘉永6年(1853年)刻銘の手洗い鉢1基が据えてある。これらのものから稲荷社を含めた一帯がかつての丸島部落があったところで、それを裏付けるものとして耕地整理のときに稲荷社の傍らの水田の中から大木の根が出土している。これはかつてこの付近に森林が形成されていたことを示すもので、それから類推して集落の存在を知ることができる。さらに西の「入部(イリブ)」という水田の中には小さな石祠の「水天宮」の塔があり、これは水害に関わるものである。かつての丸島部落のあったところは水害の被害を何度か受けて、現地に集落を構えることを断念し、現在地の丸島台地緑辺部に全部落が移住した。

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浮島稲荷鳥居
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手洗い鉢石灯篭
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社殿周囲に広がる水田

  丸島は南北に長いので、村の位置を言うのに「カミ(駒形神社の辺り)」・「ナカ(大光院の辺り)」・「シモ(板戸川より南側)」と呼び分ける。北がシモで南がシモであり、シモは集落の名前を「町屋」という。カミ・ナカ・シモは位置を示す用い方であるので、そのように呼ばれる家集団がある訳ではない。



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