万田まんだ

愛宕神社

 小向にある「愛宕(あたご)神社」は万田の鎮守で、古くは「奇ノ宮明神」と称された。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると万田村の鎮守を「愛宕社」とし、脇立二體があってこれを「奇ノ宮明神」と號し、末社は「神明」・「春日」・「稲荷」とある。さらに小名上久保には「王子権現社(例祭6月15日)」があり、末社は「稲荷」であった。小名小向久保の鎮守は「?天社(例祭4月上巳)」で、傍らに池があった。小向久保にはこの他に「蔵王社(例祭6月15日)」も鎮守としており、末社は「稲荷」・「荒神」と記載されている。
 当社の由来には2つの伝説がある。1つは『風土記稿』に記された縁起による。その内容は、「昔、この山にどこからともなく翁と媼が来て2人で久しく住んでいた。ある夜、この山に光明が赫々と輝いていたので村人が驚いて行ってみると、2人の姿はなく、勝軍(しょうぐん)地蔵尊の像一?があった。これによってこの山を愛宕山と呼びこの像を祀って尊信した。木ノ宮明神と言われたのは二人の翁媼こそ奇異不思議だということに依る。」となっている。
 もう1つは氏子達の言い伝えによる。その内容は、「貞観の昔、文徳天皇の第一皇子惟喬(これたか)親王が伊豆国より海を渡り、当大住郡の唐土ヶ原(もろこしがはら)に上陸し万田の山に落ち着いたが、御供の御乳母が旅の疲れでこの山で亡くなったので、親王は心を残しつつ早川方面に去った。その後、貞観15年(873年)に親王が亡くなったことを聞いた里人達は先に御滞在の地に宮を造り、木の宮明神と崇め親王の遺した御持仏勝軍地蔵尊像を安置した。これが今の愛宕神社である。当社は創立されるや郷中の鎮主として規模は拡大されて、参道は長く弁天社(飛地境内社、今の巖島神社)前に及んだ。」となっている。
 特に後者の伝説は、神奈川県の西部から伊豆半島の東部にかけて、相模湾を覆うように分布しているキノミヤ神社とその由来譚に関係するものである。小田原市早川に鎮座している紀伊神社は惟喬親王を祭神とし、生地屋と密接な関係があるが、愛宕神社にはそのことがみられない。

愛宕神社鳥居
狛犬燈籠
拝殿覆殿・幣殿
木の宮明神水鉢
境内

万田で祀るその他の神社

 万田は「下万田」・「上万田(寺山)」・「小向」に別れており、それぞれを「久保」と呼ぶ。下万田には「熊野神社」があり、昔はこの熊野神社が万田の氏神だったという話もある。上万田には「オオジンサン」と呼ぶ神社が出縄酒造の側にあり、祭礼は10月9日であった。男たちが神社の前にむしろを敷いて、神主を呼び祝詞を上げて煮しめで酒を飲む。当社は上万田で祀るともいうし、出縄一族の神ともいい、またそれに真壁一族も交わって祀るともいい、はっきりしたことは分かっていない。
 小向には小向だけで祀る「蔵王神社」が高い所にあり、祭礼は10月9日であった。昔からの住人22名が神主(高麗神社の渡辺氏)を呼んで神事を行った。また、小向自治会館の隣には「厳島神社」が祀られており、例大祭では神輿が立ち寄る際に神事が執り行われる。

蔵王神社
厳島神社水道??記念碑
道祖神?小向自治会館

宵宮準備/午前 (開始9:00)

 ここからは令和7年(2025年)4月5日(土)に行われた宵宮の様子を紹介する。宵宮は午前9時に愛宕神社に集合し、熨斗の掲示板や宵宮に催される屋台用のテント設営を中心に準備が行われ、13時前に昼食の休憩が取られた。

お宮には幟が上がっています鳥居には国旗が交差
時刻は8時50分社殿では既に準備が始まる
愛神會は神輿殿の鍵を開けます
愛宕神社の提灯をセット愛神會は会員が集まると
朝礼を行い準備が始まります
鳥居では紙垂を取り付ける倉庫のシャッターを開けます
神社役員は社殿周りを掃き掃除
注連縄に紙垂を取り付ける愛神會は倉庫から
流し台を運び出します
大きな合板を運び出し
軽トラの荷台に組み立てていきます
最後に屋根を乗せますのしの掲示板でしょうか?
参道も掃き掃除テントを積んだ軽トラが
到着し、フレームと幕を降ろします
社殿向かって左手にフレームを組んで、幕を被せると
足を立てて幕をフレームに結びつける
熨斗の掲示板は白い紙で覆います
テントは2個目に取り掛かり幕を張って
足を立てると2つのテントを並べます
今度は社殿向かって右側にテントの準備
幕をフレームに固定し社殿側へ寄せます
水鉢の配管に異物が詰まり急遽、水鉢を寝かせることに
テントは最後の4つめです屋台の為に必要になります
時刻は10時40分テントの組み立てが終わりました
こちらは太鼓の廃棄バチの選別水鉢は反対側から金属棒で叩き
無事に貫通すると水鉢を起こし元の位置へ固定して
流し台を設置します社殿の準備が終わりました
社殿右手のテント2張りを神輿殿側に寄せて
繋げて並べますテント張りが終わると
神輿殿から荷物を出し段差部に板を渡すと
神輿を出しますそのまま参道を通り
社殿前に神輿を止めます続いて神輿殿の奥にある
子供神輿を持ち上げ神輿殿から出すと
社殿の方へ運び大神輿の隣に並べます
輿棒も取り出し箱台輪の棒穴へ
もう一本の轅も取り出し棒穴へ
台車を抜いて馬を入れる子供神輿にも輿棒を差し込む
焼き鳥用の肉が届いたので日に当てて自然解凍させます
大神輿では正面の鍵を開け唐戸を開けます
屋台用の用具やテーブルを運び出し
テント下へ並べていきます時刻は11時50分
台車の上に榊を並べ鳥居に結び付けます
焼き鳥や豚汁
焼きそばなどの準備が進みます解凍中のスチームもも串
神輿の注連縄の紙垂を交換焼きそばの調理場を作ります
箱台輪下では轅を楔で固定自分で加工もします
子供神輿も輿棒を固定屋台の食材が届きました
テントまで運んでテーブルの上へ
神輿殿では小太鼓を締める太鼓専用のケースです
神輿では捩り掛けが始まる子供神輿にも榊を取り付ける
大太鼓を運び社殿前に設置します
12時45分になると弁当が届き昼休憩を取ります

宵宮準備/午後 (開始13:10)

 昼食後は神輿の捩り掛けと屋台の調理を中心に準備が行われる。例年では神輿の捩り掛けは大祭当日に行われるが、朝の集合時間が早く愛神會の負担が大きいため、この年は宵宮の段階で捩り掛けを行った。境内には太鼓が設置され、準備の合間に太鼓が演奏される。15時頃に太鼓の山車が境内に到着すると山車にも太鼓を設置し、15時20分から16時10分の間に宵宮の1回目の巡行を行う。

13時10分頃に準備再開太鼓ケースが椅子になります
太鼓の設置が終わると実際に叩いて確認します
叩き終わると座布団を被せる神輿では捩り掛けを再開
結構な力作業です子供神輿にも捩りを掛ける
飲み物を氷で冷やしますこちらは豚汁の大鍋
神輿渡御用の台車は2つの台車を合体させます
こちらは山車に設置する太鼓油を差してから増し締め
力いっぱい締めていきます子供神輿は捩り掛け終了
神輿の台車に紅白幕を回す太鼓にも幕を取り付ける
豚汁の調理が始まりました神輿に鈴を結び付ける
神輿の轅の前後の先端部に手綱を通します
女性陣が増えてきました倉庫では駄菓子の仕分け
子供が喜びそうですね♪売り場まで運びます
境内を掃き掃除神輿の屋根を拭き掃除
こちらの倉庫は子供太鼓の控え室になります
神輿殿から照明を取り出し
入口付近に設置神輿をブロワーで掃除します
焼きソバ用のキャベツを切り鉄板に火をつけます
鉄板に油を引きキャベツの外皮で汚れを除去
調理器具等を積んだワゴン車が到着しました
こちらは発電機です社殿右横まで移動
こちらは業務用のフライヤー焼きソバの隣に設置し
一斗缶の食用油を全て注入こちらは炭火起こし缶です
神輿では上締め用の晒を折っていきます
熨斗の掲示板に花飾り駄菓子売り場の準備が進む
15時になると境内裏から山車のトラックが到着
太鼓を積んで枠に設置します
駄菓子をテントの足に吊り下げる晒は根元の方で上締め
着々と準備が進みます太鼓をロープで固定
叩き手が山車に乗り込み太鼓を叩きます
境内の太鼓も演奏開始屋台には値札が貼られます
15時20分になると山車がお宮を出発
1回目の巡行に向かいます神輿の反対側も上締め
神輿殿にはテーブルと椅子を設置鳳凰に稲穂を銜えさせる
熨斗の掲示板を組んだ軽トラは別の場所へ移動します
子供神輿を一旦社殿右奥へ移動させ
大神輿の馬を抜いて台車に載せ替えます
その場で180°旋回し正面を鳥居側へ向けて
社殿ギリギリまで寄せます動かない様に車輪止め
再び子供神輿を移動させ大神輿の横に並べます
万田に響く祭りばやし捩り掛けはまだ続き
最後の2箇所に取り掛かる炭に火を起こし
焼き鳥用コンロに炭を入れ網の上に肉を並べて調理開始
豚汁の野菜を煮込みます焼きそばも調理開始
16時になると夕礼が始まり愛神會が段取りを説明
宵宮に向けて仕込みが進みます
16時10分になると1時間弱の巡行を終えた山車が戻り
子供たちが山車から降ります社殿前では太鼓の演奏が続く
焼き鳥にタレを付け早速1本売れました
神輿殿前は愛神會の受付ですフライヤーではコロッケを揚げる


宵宮 (開始17:00、終了19:20)

 17時を過ぎると愛神會会長の挨拶で宵宮が始まり、焼きそばや焼き鳥、駄菓子やチョコバナナなどを求めて多くの万田住民が訪れる。境内では太鼓が叩かれ、山車は17時15分から18時の間に宵宮で2回目の巡行を行う。

お客さんが集まってきました出だしは焼き鳥が人気です
急ピッチで焼きます駄菓子に子供たちが集まる
こちらの団体は神輿と記念撮影更に人が増えてきました
宵宮開始予定の17時を過ぎると愛神會の会長が挨拶します
いよいよ宵宮が始まりました屋台を催す地区は珍しいです
17時15分頃になると山車が再び巡行に向かいます
境内でも太鼓が再開こちらは豚汁売り場
焼きそばは3人がかりで調理凄く美味しいです♪
参道の提灯が点灯しています駄菓子屋は大忙し
時間差でデザートのチョコバナナに行列が
お客さんが更に増えてきました17時半過ぎになると
自由民主党、衆議院議員の河野太郎氏が登場
挨拶をして神輿前で記念撮影
18時になると山車が帰社宵宮の巡行はこれで最後です
境内の太鼓はまだまだ続き私も一緒に演奏させて頂きました
時刻は19時になりましたお客さんが徐々に少なくなり
19時20分になると愛神會の会長の挨拶で宵宮が終了

宵宮片付け (開始19:20、終了21:10)

 宵宮が終わると片付けを始め、20時過ぎに神社役員や愛神會が屋台で調理した食べ物で食事をとり、21時10分頃に解散となった。

屋台では後片付けが始まる子供達は最後の駆け込み購入
調理場も片付けスタート太鼓をケースにしまう
飲み物を冷やしていた水を流します
子供神輿を運び神輿殿の奥へ
次は大神輿を移動させ神輿殿の入口に止めます
社殿を戸締り子供神輿を轅の上に置き
太鼓の台をしまいます20時過ぎに片付けを中断し
南側のテントに集まります愛神會会長の挨拶があり
乾杯して食事をとります
いつの間にか甚句が始まり唄を回していきます♪
20時40分になると食事を終えテーブルを片付けます
北側のテントは明日片付けます流しでは焼き鳥コンロを洗浄
神輿にはブルーシートを被せる21時過ぎに片付けが終わり
統制長が締めの挨拶明日はいよいよ例大祭です

  このあとは大祭準備へ。

囃子

 昔は青年が太鼓を受け持ち、オオドウ(大太鼓)1台、ショウドウ(小太鼓)2台を交代で叩いた。昔は笛もあったという。一時期は太鼓だけだが「ハヤシ」・「ミヤシロ」・「カマクラ」など8曲が演奏されていたというが、現在の曲目は「萬田囃子(バカッパヤシ)」と「ミヤシロ」の2曲で、近年は二宮町元町(入合)の元町北祭囃子保存会から笛の吹き手を呼んで吹いてもらっている。

境内での演奏山車での演奏
山車(正面)山車(側面)
太鼓枠太鼓専用の収納ケース
萬田囃子

神輿

 地元では愛宕神社の神輿は相模川の東側の土地から譲られたという言い伝えがあるといい、昭和59年(1984年)の5、6月に神輿を解体したところ、寒川神社の神輿であることが分かったという。しかしながら、最終的には神輿の芯柱の墨書から文政元年(1818年)に建造された、菱沼村(現茅ヶ崎市)の神輿であった可能性が高いということが判明した。
 平成29年(2017年)11月に愛神會が老朽化した神輿の点検をしていたところ、構造の中心を支える芯柱に「文政」の文字があることに気づいた。翌年の平成30年(2018年)4月4日に元平塚市博物館長の土井浩氏を境内に招いて文字を鑑定した。同会や神社役員の前で神輿の中に頭をもぐりこませて文字を確認し、「干時文政元年戊寅六月吉祥日 相陽高座郡大庭之庄菱沼村 棟梁高橋儀右衛門」と書かれていることが分かった。土井氏によると、江戸期に定着していた御家流の書体であることから、当時の筆跡であるのはほぼ間違いないという。また、書かれている内容について「文政元年に高橋儀右衛門という人物が菱沼村(現在の茅ケ崎市)のために神輿を造ったという意味だと考えら、恐らくその後、菱沼村から万田に譲られたのではないか」と推測する。
 万田の子供神輿は昭和57年(1982年)に小向子供会として、地元住民によって造られた手作りの子供神輿で、後に万田全体の子供神輿となった。令和6年(2024年)に鳳凰を新調した。

神輿神輿
文政元年の墨書がある芯柱修復前の神輿
唐破風の屋根唐戸周辺
頭貫木鼻腰羽目周辺
子供神輿子供神輿
神輿殿扉裏

 かつて神輿は青年が中心となって担ぎ、村中を回った。祝詞をあげてもらい、練り歩く。神輿は小向では出縄誠氏宅辺りを、上万田では公民館前、下万田では薬師堂で休んだ。その時、お神酒が出た。神輿の世話をする者をコシ番といい、前年の宮番であった者がコシ番を受け持った。下万田の薬師堂附近では自動車の往来が激しくなったので、万田貝塚に神輿が休む処を移動させたという。昔は長男しか担げなかったという。

薬師堂相模十四番薬師如来
屋内石像

 万田ではかつて青年会が組織され、定年は40歳であったが、時代の流れと共に会員が減少し、1980年代には神輿が担げないことがあった。そこで平成11年(1999年)に青年会を解散して定年制を排除した「愛神會」を結成し、祭礼の運営を行うようになった。神輿を担ぐ時の掛け声は「どっこい」である。

掛け声

祭礼の歴史

 祭りの前日は氏子全員で幟立てをした。神社の掃除は毎月15日に老人が奉仕し、かつては子供会がよく神社の掃除をしてくれた。余興の舞台は青年が中心となって建てたが、現在は余興がなくなっている。また、神輿を境内に出して掃除をした。宮番の人が6〜7人でオコモリといって、祭礼の前日の晩に神社で一晩過ごしたという。
 祭礼日は『風土記稿』によると旧暦の6月24日であった。その後は4月17日であったが、現在は4月第1日曜日に行う。
 祭りの当日は自治会長・組長・氏子総代・青年の代表・生産組合長の代表などが出席して、神官が祝詞をあげてから玉串を奉納する。
 祭りの翌日は「ハチハライ」といって、祭りの後片付けが済んでからご馳走を食べた。この時、次の宮番に祭礼関係の道具等を引き渡すという。


青年会・青年団

 尋常高等小学校を卒業すると「セイネン」の仲間に入り、満25歳までであった。「青年団」は運動会をよくやり、旭地区の運動会も秋の9月に毎年あった。
 青年団の他に「青年会」があり、こちらは40歳あるいは42歳までで、万田だけで組織していた。青年会はお祭りの神輿の関係と太鼓を受け持った。神輿を出して、公民館で昼食を取り、午後は下万田の旭小学校の所まで担いで行って帰った。また、青年会では各久保毎に月見をやり、米と里芋を持ち寄って役員の家で宴を開いた。
 小向では青年団を「一種青年(25歳まで)」といい、青年会を「二種青年(40歳まで)」といった。


熊ノ台と縄文海進

 万田地区に「熊ノ台」というところがあり、地名は熊野神社の石祠があったことに由来する。ここには縄文前期の貝塚である「万田貝殻坂貝塚」があり、万田台地北端部の標高15m前後の丘陵の裾部の傾斜地である。貝塚は縄文人の生活の場所を示すもので、当時の人たちは万田台地上に居住していたことを意味する。なぜ縄文人がこうした台地突端部に住んでいたのかを知るためには、当時の地形(考古学地形)を考える必要がある。
 その手掛かりとして千葉県の館山(房総半島)に「沼のサンゴ礁」といわれる化石サンゴ礁があり、現在の海岸線から約1.0kmほど入った標高10〜15mのところにある。サンゴの生息状況から考えて化石サンゴ礁が形成された当時の海抜は、今から10mほど高かったことを意味する。これは今からB.C.5000〜3000年(縄文早期〜前期)頃のことで、この時期の海面の上昇を「縄文海進」と呼んでいる。
 平塚市の縄文海進期の海岸線も大体標高10m前後のところが、その当時の汀線だったと考えられる。その場合、大磯丘陵の周辺部の山下・高根・万田・出縄・根坂間から広川・片岡の各台地を経て、南金目台地と金目川の北側の北金目台地、そして北部の岡崎と城所の台地などの縁辺部の標高10mがその当時の汀線で、これ以下のところは当時海底だったことになる。縄文人は山と海の幸の得やすい場所として丘陵の突端部を選び、この「熊ノ台」はこうして縄文人が選んだ居住地であった。
 その後の海岸線の変化を見ると、弥生期には現在の国道1号線辺り(砂丘列では第7列と第8列の砂丘間)で、中原上宿遺跡はこの頃のものである。鎌倉期になると黒部宮が波の被害を避けるために、現在の春日神社に遷座したとあることから、その南部(第9列と第10列の砂丘間)が汀線の位置であったと考えられる。旧市内を中心とした沖積低地は海岸線の後退に伴って形成され、その上面には砂丘が12列も形成されてきた。そのため、海岸から北進すると高いところが砂丘で、その間の低いところが砂丘間低地にあたる。そうした地形は交互に続くのが観察され、最北の砂丘は豊田地区と横内地区になる。

万田貝殻坂貝塚

大祭準備 (開始7:30)

 大祭当日の集合時間は朝7時30分で、式典に向けて準備が行われる。

7時20分にやって来ました山車は既に境内に到着
神輿からブルーシートを外し折り畳みます
熨斗の掲示板の軽トラが到着し社殿右側へ止める
昨日洗浄した焼き鳥用コンロ集合時間の7時半になりました
社殿の鍵を開けて式典の準備に取り掛かります
宵宮で使った照明を外します愛神會の会員が集まると
会長の挨拶副会長が段取りを説明し
愛神會の準備が始まります山車の雨養生を外す
倉庫では飲み物の準備北側のテントは使わないので
奥側から幕を外してパイプを解体します
続いて手前側のテントを解体していきます
太鼓を山車へ運び枠にセットしていく
社殿前に太鼓枠を運び前面に幕を渡します
山車に大太鼓を運び枠に結びつける
社殿前にも大太鼓と締太鼓を枠にセット
掲示板のトラックと山車は北側の参道に移動
境内を掃き掃除社殿でも準備が進みます
神輿殿から神輿と台車を移動し
社殿前に止めると子供神輿を降ろして
大神輿の左側へ移動し馬の上に下ろします
社殿左手にあった太鼓は社殿右手に移動させます
神輿を持ち上げて台車を抜き
馬を入れて下ろします
抜いた台車はお宮の外へ移動
休憩所の飲み物を積みます愛神會の受付を準備
神輿渡御の打ち合わせ神輿では捩りの調整
太鼓の両側に幟旗を立てます
取材用に半纏をお借りしましたこんな感じです♪
受付にご祝儀を届けに来ます御神酒が届きました
リポビタンDで栄養補給愛神會のステッカーを頂きました
御神酒の紙コップを並べますお返しのタオルを準備
太鼓関係者が記念撮影友好団体が記帳に来ました
こちらは来週例大祭の出繩です担ぎ手が増えてきました
受付には次々と友好団体が訪れます

式典 (開始9:00、終了9:45)

 9時からは社殿にて春日神社の宮司により例大祭式典が執り行われ、9時25分からは境内の神輿前で神幸祭(みゆきさい)ならびに遷霊之義(せんれいのぎ)が執り行われる。

9時頃になると社殿では神事が始まります
掲示板に熨斗紙を貼って行く私のも貼って頂きましたm(_ _)m
社殿での神事は9時15分頃に終わり自治会長の挨拶で乾杯
紙コップに御神酒を注ぐ9時25分頃になると
神輿前で神幸祭が始まります神輿をお祓いし
参列者をお祓い社殿に向かって一拝し
再び神輿をお祓いします
続いて子供神輿をお祓いし宮司は社殿の中へ
本殿へ向かいます神輿に御霊を遷すと
紙吹雪を撒きます続いて御神酒を置いて献饌
祝詞を奏上します参加者は頭を下げます
続いて宮司から順番に玉串奉奠し宮総代代表
宮世話人愛神會の会長が続く
最後に子供の代表者が拝礼し撤饌
9時45分に神事が終わり祭壇を片付けます

宮出し (出発10:00)

 例大祭式典が終わると愛神會の司会進行のもと、宮出しに際して式典が執り行われ、神輿の友好団体の紹介と襷渡しが行われる。襷渡しが終わると御神酒で乾杯をし、祭り囃子に囃されながら大神輿が愛宕神社をお立ちする。

神事後は愛神會の司会進行最初に宮総代代表の挨拶
天気は曇りです続いて愛神會会長の挨拶があり
友好団体への襷渡しが行われます
襷渡しが終わると御神酒を配り
宮世話人代表の挨拶で乾杯
愛神會が神輿に集まり神輿を担ぎ上げると
馬を抜いて180°旋回し
正面を鳥居側へ向けます太鼓は演奏のスタンバイ
統制長が轅に上がって一本締め
山車と社殿横では太鼓が始まります
最初は愛神會だけで肩を入れ神輿を担ぎ上げると
甚句を続けて2曲入れます
両脇では箪笥を打ち鳴らすさらにもう1曲甚句を唄うと
神輿は参道を進んで行く境内に鳴り響く祭り囃子
ここから友好団体も加わり階段で一旦肩から下ろして
参道を下っていく鳥居前まで来ると
神輿を抱えて鳥居を潜り愛宕神社をお発ち
太鼓の山車は裏から出発し神輿の前まで進みます
神輿はY字路で右折し神輿渡御が始まります

 ※神輿渡御は下記の神輿渡御の前半と後半へ。

 神輿渡御(前半)
 神輿渡御(後半)


宮入り (鳥居17:55、宮付18:10)

 万田地区の渡御を終えた神輿が宮入りすると、社殿前で甚句を交えて神輿を揉み、輿をおろすと愛神會の会長の三本締めで宮付けされる。

正面の参道を登り
鳥居を潜って宮入りしました
境内では山車と社殿横で迎え太鼓
最後の階段を上がり切り境内へ入ってきました
そのまま参道を直進し社殿へ向かうと
先ずは愛神會の甚句で神輿を揉みます
続いて愛神會がもう1本甚句を入れます
三本目は縄友会です社殿に押し寄せる神輿
続いて上吉沢が甚句を入れる神輿の勢いは止まりません
5本目は土屋の熊野神社境内は担ぎ手で一杯です
お次は一眞會の甚句神輿を押し返す愛神會
最後の締めは地元愛神會神輿を揉むと
統制長の輿をおろす甚句で終わりのはずですが・・・
勢いは収まらず急遽もう一度甚句を入れ
ようやく輿をおろします愛神會の会長が轅に上がり
三本締めて無事に神輿渡御が終わりました

還御祭 (開始18:15、終了18:30)

 神輿が宮付けされると神輿の友好団体は境内で食事をとり、神輿前では還御祭(かんぎょのみまつり)ならびに遷霊之義(せんれいのぎ)が執り行われる。愛神會は友好団体の見送りと片付けを並行して進め、友好団体の見送りが終わると、18時50分頃に神社役員と愛神會は直会を行う。直会後は再び後片付けを再開し、社殿と神輿殿、および倉庫の戸締りをして20時40分頃に解散となる。翌日の2025年4月7日(月)は片付けが行われ、テントの跡片付けなどが行われる。

担ぎ手はテントで食事を取ります太鼓の子供達にお菓子を配る
18時15分になると神輿前では神事が始まります
食事を終えた友好団体は順番に一本締めて帰路に就く
山車では太鼓を外し締太鼓を緩めます
18時30分に神事が終わります最後の縄友会を見送ると
神輿を馬から抜いてその場で180度旋回
神輿と一緒に記念撮影18時50分頃になると
愛神會会長の挨拶で乾杯し地元の皆さんで食事を取ります
19時10分頃に食事を終え片付けに入ります
神輿は捩りを外しテントでは食事の片付け
社殿横の締太鼓を緩める社殿の鍵を締めます
台車の紅白幕を外す掲示板の熨斗紙を剥がします
神輿を台車に移し輿棒を抜いて
神輿殿の奥へ子供神輿も捩りを外します
入口の提灯枠を外す掲示板を荷台からバラします
テントは足を畳みます子供神輿の輿棒を外す
山車を荷台から降ろし屋根を外して
倉庫にしまいます参道の配線を巻き取ります
子供神輿を神輿殿へしまう山車の柱も倉庫へ入れます
本神輿を神輿殿に納め太鼓台をしまいます
倉庫に備品をしまい20時40分に片付けを終えます
残りは明日片付けます万田の皆様お疲れ様でした

             


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