万田
愛宕神社
小向にある「愛宕(あたご)神社」は万田の鎮守で、古くは「奇ノ宮明神」と称された。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると万田村の鎮守を「愛宕社」とし、脇立二體があってこれを「奇ノ宮明神」と號し、末社は「神明」・「春日」・「稲荷」とある。さらに小名上久保には「王子権現社(例祭6月15日)」があり、末社は「稲荷」であった。小名小向久保の鎮守は「?天社(例祭4月上巳)」で、傍らに池があった。小向久保にはこの他に「蔵王社(例祭6月15日)」も鎮守としており、末社は「稲荷」・「荒神」と記載されている。
当社の由来には2つの伝説がある。1つは『風土記稿』に記された縁起による。その内容は、「昔、この山にどこからともなく翁と媼が来て2人で久しく住んでいた。ある夜、この山に光明が赫々と輝いていたので村人が驚いて行ってみると、2人の姿はなく、勝軍(しょうぐん)地蔵尊の像一?があった。これによってこの山を愛宕山と呼びこの像を祀って尊信した。木ノ宮明神と言われたのは二人の翁媼こそ奇異不思議だということに依る。」となっている。
もう1つは氏子達の言い伝えによる。その内容は、「貞観の昔、文徳天皇の第一皇子惟喬(これたか)親王が伊豆国より海を渡り、当大住郡の唐土ヶ原(もろこしがはら)に上陸し万田の山に落ち着いたが、御供の御乳母が旅の疲れでこの山で亡くなったので、親王は心を残しつつ早川方面に去った。その後、貞観15年(873年)に親王が亡くなったことを聞いた里人達は先に御滞在の地に宮を造り、木の宮明神と崇め親王の遺した御持仏勝軍地蔵尊像を安置した。これが今の愛宕神社である。当社は創立されるや郷中の鎮主として規模は拡大されて、参道は長く弁天社(飛地境内社、今の巖島神社)前に及んだ。」となっている。
特に後者の伝説は、神奈川県の西部から伊豆半島の東部にかけて、相模湾を覆うように分布しているキノミヤ神社とその由来譚に関係するものである。小田原市早川に鎮座している紀伊神社は惟喬親王を祭神とし、生地屋と密接な関係があるが、愛宕神社にはそのことがみられない。
愛宕神社 | 鳥居 |
狛犬 | 燈籠 |
拝殿 | 覆殿・幣殿 |
木の宮明神 | 水鉢 |
境内 |
万田で祀るその他の神社
万田は「下万田」・「上万田(寺山)」・「小向」に別れており、それぞれを「久保」と呼ぶ。下万田には「熊野神社」があり、昔はこの熊野神社が万田の氏神だったという話もある。上万田には「オオジンサン」と呼ぶ神社が出縄酒造の側にあり、祭礼は10月9日であった。男たちが神社の前にむしろを敷いて、神主を呼び祝詞を上げて煮しめで酒を飲む。当社は上万田で祀るともいうし、出縄一族の神ともいい、またそれに真壁一族も交わって祀るともいい、はっきりしたことは分かっていない。
小向には小向だけで祀る「蔵王神社」が高い所にあり、祭礼は10月9日であった。昔からの住人22名が神主(高麗神社の渡辺氏)を呼んで神事を行った。また、小向自治会館の隣には「厳島神社」が祀られており、例大祭では神輿が立ち寄る際に神事が執り行われる。
蔵王神社 | 祠 |
厳島神社 | 水道??記念碑 |
道祖神? | 小向自治会館 |
宵宮準備/午前 (開始9:00)
ここからは令和7年(2025年)4月5日(土)に行われた宵宮の様子を紹介する。宵宮は午前9時に愛宕神社に集合し、熨斗の掲示板や宵宮に催される屋台用のテント設営を中心に準備が行われ、13時前に昼食の休憩が取られた。
お宮には幟が上がっています | 鳥居には国旗が交差 |
時刻は8時50分 | 社殿では既に準備が始まる |
愛神會は神輿殿の | 鍵を開けます |
愛宕神社の提灯をセット | 愛神會は会員が集まると |
朝礼を行い | 準備が始まります |
鳥居では紙垂を取り付ける | 倉庫のシャッターを開けます |
神社役員は | 社殿周りを掃き掃除 |
注連縄に紙垂を取り付ける | 愛神會は倉庫から |
流し台を | 運び出します |
大きな合板を | 運び出し |
軽トラの荷台に | 組み立てていきます |
最後に屋根を乗せます | のしの掲示板でしょうか? |
参道も掃き掃除 | テントを積んだ軽トラが |
到着し、フレームと | 幕を降ろします |
社殿向かって左手にフレームを | 組んで、幕を被せると |
足を立てて | 幕をフレームに結びつける |
熨斗の掲示板は | 白い紙で覆います |
テントは2個目に取り掛かり | 幕を張って |
足を立てると | 2つのテントを並べます |
今度は社殿向かって右側に | テントの準備 |
幕をフレームに固定し | 社殿側へ寄せます |
水鉢の配管に異物が詰まり | 急遽、水鉢を寝かせることに |
テントは最後の4つめです | 屋台の為に必要になります |
時刻は10時40分 | テントの組み立てが終わりました |
こちらは太鼓の廃棄バチの選別 | 水鉢は反対側から金属棒で叩き |
無事に貫通すると水鉢を起こし | 元の位置へ固定して |
流し台を設置します | 社殿の準備が終わりました |
社殿右手のテント2張りを | 神輿殿側に寄せて |
繋げて並べます | テント張りが終わると |
神輿殿から荷物を出し | 段差部に板を渡すと |
神輿を出します | そのまま参道を通り |
社殿前に神輿を止めます | 続いて神輿殿の奥にある |
子供神輿を持ち上げ | 神輿殿から出すと |
社殿の方へ運び | 大神輿の隣に並べます |
輿棒も取り出し | 箱台輪の棒穴へ |
もう一本の轅も取り出し | 棒穴へ |
台車を抜いて馬を入れる | 子供神輿にも輿棒を差し込む |
焼き鳥用の肉が届いたので | 日に当てて自然解凍させます |
大神輿では正面の鍵を開け | 唐戸を開けます |
屋台用の用具や | テーブルを運び出し |
テント下へ並べていきます | 時刻は11時50分 |
台車の上に榊を並べ | 鳥居に結び付けます |
焼き鳥や | 豚汁 |
焼きそばなどの準備が進みます | 解凍中のスチームもも串 |
神輿の注連縄の紙垂を交換 | 焼きそばの調理場を作ります |
箱台輪下では轅を楔で固定 | 自分で加工もします |
子供神輿も輿棒を固定 | 屋台の食材が届きました |
テントまで運んで | テーブルの上へ |
神輿殿では小太鼓を締める | 太鼓専用のケースです |
神輿では捩り掛けが始まる | 子供神輿にも榊を取り付ける |
大太鼓を運び | 社殿前に設置します |
12時45分になると弁当が届き | 昼休憩を取ります |
宵宮準備/午後 (開始13:10)
昼食後は神輿の捩り掛けと屋台の調理を中心に準備が行われる。例年では神輿の捩り掛けは大祭当日に行われるが、朝の集合時間が早く愛神會の負担が大きいため、この年は宵宮の段階で捩り掛けを行った。境内には太鼓が設置され、準備の合間に太鼓が演奏される。15時頃に太鼓の山車が境内に到着すると山車にも太鼓を設置し、15時20分から16時10分の間に宵宮の1回目の巡行を行う。
13時10分頃に準備再開 | 太鼓ケースが椅子になります |
太鼓の設置が終わると | 実際に叩いて確認します |
叩き終わると座布団を被せる | 神輿では捩り掛けを再開 |
結構な力作業です | 子供神輿にも捩りを掛ける |
飲み物を氷で冷やします | こちらは豚汁の大鍋 |
神輿渡御用の台車は | 2つの台車を合体させます |
こちらは山車に設置する太鼓 | 油を差してから増し締め |
力いっぱい締めていきます | 子供神輿は捩り掛け終了 |
神輿の台車に紅白幕を回す | 太鼓にも幕を取り付ける |
豚汁の調理が始まりました | 神輿に鈴を結び付ける |
神輿の轅の前後の先端部に | 手綱を通します |
女性陣が増えてきました | 倉庫では駄菓子の仕分け |
子供が喜びそうですね♪ | 売り場まで運びます |
境内を掃き掃除 | 神輿の屋根を拭き掃除 |
こちらの倉庫は子供太鼓の | 控え室になります |
神輿殿から | 照明を取り出し |
入口付近に設置 | 神輿をブロワーで掃除します |
焼きソバ用のキャベツを切り | 鉄板に火をつけます |
鉄板に油を引き | キャベツの外皮で汚れを除去 |
調理器具等を積んだ | ワゴン車が到着しました |
こちらは発電機です | 社殿右横まで移動 |
こちらは業務用のフライヤー | 焼きソバの隣に設置し |
一斗缶の食用油を全て注入 | こちらは炭火起こし缶です |
神輿では上締め用の | 晒を折っていきます |
熨斗の掲示板に花飾り | 駄菓子売り場の準備が進む |
15時になると境内裏から | 山車のトラックが到着 |
太鼓を積んで | 枠に設置します |
駄菓子をテントの足に吊り下げる | 晒は根元の方で上締め |
着々と準備が進みます | 太鼓をロープで固定 |
叩き手が山車に乗り込み | 太鼓を叩きます |
境内の太鼓も演奏開始 | 屋台には値札が貼られます |
15時20分になると | 山車がお宮を出発 |
1回目の巡行に向かいます | 神輿の反対側も上締め |
神輿殿にはテーブルと椅子を設置 | 鳳凰に稲穂を銜えさせる |
熨斗の掲示板を組んだ | 軽トラは別の場所へ移動します |
子供神輿を一旦 | 社殿右奥へ移動させ |
大神輿の馬を抜いて | 台車に載せ替えます |
その場で180°旋回し | 正面を鳥居側へ向けて |
社殿ギリギリまで寄せます | 動かない様に車輪止め |
再び子供神輿を移動させ | 大神輿の横に並べます |
万田に響く祭りばやし | 捩り掛けはまだ続き |
最後の2箇所に取り掛かる | 炭に火を起こし |
焼き鳥用コンロに炭を入れ | 網の上に肉を並べて調理開始 |
豚汁の野菜を煮込みます | 焼きそばも調理開始 |
16時になると夕礼が始まり | 愛神會が段取りを説明 |
宵宮に向けて | 仕込みが進みます |
16時10分になると1時間弱の | 巡行を終えた山車が戻り |
子供たちが山車から降ります | 社殿前では太鼓の演奏が続く |
焼き鳥にタレを付け | 早速1本売れました |
神輿殿前は愛神會の受付です | フライヤーではコロッケを揚げる |
宵宮 (開始17:00、終了19:20)
17時を過ぎると愛神會会長の挨拶で宵宮が始まり、焼きそばや焼き鳥、駄菓子やチョコバナナなどを求めて多くの万田住民が訪れる。境内では太鼓が叩かれ、山車は17時15分から18時の間に宵宮で2回目の巡行を行う。
お客さんが集まってきました | 出だしは焼き鳥が人気です |
急ピッチで焼きます | 駄菓子に子供たちが集まる |
こちらの団体は神輿と記念撮影 | 更に人が増えてきました |
宵宮開始予定の17時を過ぎると | 愛神會の会長が挨拶します |
いよいよ宵宮が始まりました | 屋台を催す地区は珍しいです |
17時15分頃になると | 山車が再び巡行に向かいます |
境内でも太鼓が再開 | こちらは豚汁売り場 |
焼きそばは3人がかりで調理 | 凄く美味しいです♪ |
参道の提灯が点灯しています | 駄菓子屋は大忙し |
時間差でデザートの | チョコバナナに行列が |
お客さんが更に増えてきました | 17時半過ぎになると |
自由民主党、衆議院議員の | 河野太郎氏が登場 |
挨拶をして | 神輿前で記念撮影 |
18時になると山車が帰社 | 宵宮の巡行はこれで最後です |
境内の太鼓はまだまだ続き私も | 一緒に演奏させて頂きました |
時刻は19時になりました | お客さんが徐々に少なくなり |
19時20分になると愛神會の | 会長の挨拶で宵宮が終了 |
宵宮片付け (開始19:20、終了21:10)
宵宮が終わると片付けを始め、20時過ぎに神社役員や愛神會が屋台で調理した食べ物で食事をとり、21時10分頃に解散となった。
屋台では後片付けが始まる | 子供達は最後の駆け込み購入 |
調理場も片付けスタート | 太鼓をケースにしまう |
飲み物を冷やしていた | 水を流します |
子供神輿を運び | 神輿殿の奥へ |
次は大神輿を移動させ | 神輿殿の入口に止めます |
社殿を戸締り | 子供神輿を轅の上に置き |
太鼓の台をしまいます | 20時過ぎに片付けを中断し |
南側のテントに集まります | 愛神會会長の挨拶があり |
乾杯して | 食事をとります |
いつの間にか甚句が始まり | 唄を回していきます♪ |
20時40分になると食事を終え | テーブルを片付けます |
北側のテントは明日片付けます | 流しでは焼き鳥コンロを洗浄 |
神輿にはブルーシートを被せる | 21時過ぎに片付けが終わり |
統制長が締めの挨拶 | 明日はいよいよ例大祭です |
このあとは大祭準備へ。
囃子
昔は青年が太鼓を受け持ち、オオドウ(大太鼓)1台、ショウドウ(小太鼓)2台を交代で叩いた。昔は笛もあったという。一時期は太鼓だけだが「ハヤシ」・「ミヤシロ」・「カマクラ」など8曲が演奏されていたというが、現在の曲目は「萬田囃子(バカッパヤシ)」と「ミヤシロ」の2曲で、近年は二宮町元町(入合)の元町北祭囃子保存会から笛の吹き手を呼んで吹いてもらっている。
境内での演奏 | 山車での演奏 |
山車(正面) | 山車(側面) |
太鼓枠 | 太鼓専用の収納ケース |
萬田囃子 |
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神輿
地元では愛宕神社の神輿は相模川の東側の土地から譲られたという言い伝えがあるといい、昭和59年(1984年)の5、6月に神輿を解体したところ、寒川神社の神輿であることが分かったという。しかしながら、最終的には神輿の芯柱の墨書から文政元年(1818年)に建造された、菱沼村(現茅ヶ崎市)の神輿であった可能性が高いということが判明した。
平成29年(2017年)11月に愛神會が老朽化した神輿の点検をしていたところ、構造の中心を支える芯柱に「文政」の文字があることに気づいた。翌年の平成30年(2018年)4月4日に元平塚市博物館長の土井浩氏を境内に招いて文字を鑑定した。同会や神社役員の前で神輿の中に頭をもぐりこませて文字を確認し、「干時文政元年戊寅六月吉祥日 相陽高座郡大庭之庄菱沼村 棟梁高橋儀右衛門」と書かれていることが分かった。土井氏によると、江戸期に定着していた御家流の書体であることから、当時の筆跡であるのはほぼ間違いないという。また、書かれている内容について「文政元年に高橋儀右衛門という人物が菱沼村(現在の茅ケ崎市)のために神輿を造ったという意味だと考えら、恐らくその後、菱沼村から万田に譲られたのではないか」と推測する。
万田の子供神輿は昭和57年(1982年)に小向子供会として、地元住民によって造られた手作りの子供神輿で、後に万田全体の子供神輿となった。令和6年(2024年)に鳳凰を新調した。
神輿 | 神輿 |
文政元年の墨書がある芯柱 | 修復前の神輿 |
唐破風の屋根 | 唐戸周辺 |
頭貫木鼻 | 腰羽目周辺 |
子供神輿 | 子供神輿 |
神輿殿 | 扉裏 |
かつて神輿は青年が中心となって担ぎ、村中を回った。祝詞をあげてもらい、練り歩く。神輿は小向では出縄誠氏宅辺りを、上万田では公民館前、下万田では薬師堂で休んだ。その時、お神酒が出た。神輿の世話をする者をコシ番といい、前年の宮番であった者がコシ番を受け持った。下万田の薬師堂附近では自動車の往来が激しくなったので、万田貝塚に神輿が休む処を移動させたという。昔は長男しか担げなかったという。
薬師堂 | 相模十四番薬師如来 |
屋内 | 石像 |
万田ではかつて青年会が組織され、定年は40歳であったが、時代の流れと共に会員が減少し、1980年代には神輿が担げないことがあった。そこで平成11年(1999年)に青年会を解散して定年制を排除した「愛神會」を結成し、祭礼の運営を行うようになった。神輿を担ぐ時の掛け声は「どっこい」である。
掛け声 |
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祭礼の歴史
祭りの前日は氏子全員で幟立てをした。神社の掃除は毎月15日に老人が奉仕し、かつては子供会がよく神社の掃除をしてくれた。余興の舞台は青年が中心となって建てたが、現在は余興がなくなっている。また、神輿を境内に出して掃除をした。宮番の人が6〜7人でオコモリといって、祭礼の前日の晩に神社で一晩過ごしたという。
祭礼日は『風土記稿』によると旧暦の6月24日であった。その後は4月17日であったが、現在は4月第1日曜日に行う。
祭りの当日は自治会長・組長・氏子総代・青年の代表・生産組合長の代表などが出席して、神官が祝詞をあげてから玉串を奉納する。
祭りの翌日は「ハチハライ」といって、祭りの後片付けが済んでからご馳走を食べた。この時、次の宮番に祭礼関係の道具等を引き渡すという。
青年会・青年団
尋常高等小学校を卒業すると「セイネン」の仲間に入り、満25歳までであった。「青年団」は運動会をよくやり、旭地区の運動会も秋の9月に毎年あった。
青年団の他に「青年会」があり、こちらは40歳あるいは42歳までで、万田だけで組織していた。青年会はお祭りの神輿の関係と太鼓を受け持った。神輿を出して、公民館で昼食を取り、午後は下万田の旭小学校の所まで担いで行って帰った。また、青年会では各久保毎に月見をやり、米と里芋を持ち寄って役員の家で宴を開いた。
小向では青年団を「一種青年(25歳まで)」といい、青年会を「二種青年(40歳まで)」といった。
熊ノ台と縄文海進
万田地区に「熊ノ台」というところがあり、地名は熊野神社の石祠があったことに由来する。ここには縄文前期の貝塚である「万田貝殻坂貝塚」があり、万田台地北端部の標高15m前後の丘陵の裾部の傾斜地である。貝塚は縄文人の生活の場所を示すもので、当時の人たちは万田台地上に居住していたことを意味する。なぜ縄文人がこうした台地突端部に住んでいたのかを知るためには、当時の地形(考古学地形)を考える必要がある。
その手掛かりとして千葉県の館山(房総半島)に「沼のサンゴ礁」といわれる化石サンゴ礁があり、現在の海岸線から約1.0kmほど入った標高10〜15mのところにある。サンゴの生息状況から考えて化石サンゴ礁が形成された当時の海抜は、今から10mほど高かったことを意味する。これは今からB.C.5000〜3000年(縄文早期〜前期)頃のことで、この時期の海面の上昇を「縄文海進」と呼んでいる。
平塚市の縄文海進期の海岸線も大体標高10m前後のところが、その当時の汀線だったと考えられる。その場合、大磯丘陵の周辺部の山下・高根・万田・出縄・根坂間から広川・片岡の各台地を経て、南金目台地と金目川の北側の北金目台地、そして北部の岡崎と城所の台地などの縁辺部の標高10mがその当時の汀線で、これ以下のところは当時海底だったことになる。縄文人は山と海の幸の得やすい場所として丘陵の突端部を選び、この「熊ノ台」はこうして縄文人が選んだ居住地であった。
その後の海岸線の変化を見ると、弥生期には現在の国道1号線辺り(砂丘列では第7列と第8列の砂丘間)で、中原上宿遺跡はこの頃のものである。鎌倉期になると黒部宮が波の被害を避けるために、現在の春日神社に遷座したとあることから、その南部(第9列と第10列の砂丘間)が汀線の位置であったと考えられる。旧市内を中心とした沖積低地は海岸線の後退に伴って形成され、その上面には砂丘が12列も形成されてきた。そのため、海岸から北進すると高いところが砂丘で、その間の低いところが砂丘間低地にあたる。そうした地形は交互に続くのが観察され、最北の砂丘は豊田地区と横内地区になる。
万田貝殻坂貝塚 |
大祭準備 (開始7:30)
大祭当日の集合時間は朝7時30分で、式典に向けて準備が行われる。
7時20分にやって来ました | 山車は既に境内に到着 |
神輿からブルーシートを外し | 折り畳みます |
熨斗の掲示板の軽トラが | 到着し社殿右側へ止める |
昨日洗浄した焼き鳥用コンロ | 集合時間の7時半になりました |
社殿の鍵を開けて | 式典の準備に取り掛かります |
宵宮で使った照明を外します | 愛神會の会員が集まると |
会長の挨拶 | 副会長が段取りを説明し |
愛神會の準備が始まります | 山車の雨養生を外す |
倉庫では飲み物の準備 | 北側のテントは使わないので |
奥側から幕を外して | パイプを解体します |
続いて手前側のテントを | 解体していきます |
太鼓を山車へ運び | 枠にセットしていく |
社殿前に太鼓枠を運び | 前面に幕を渡します |
山車に大太鼓を運び | 枠に結びつける |
社殿前にも大太鼓と | 締太鼓を枠にセット |
掲示板のトラックと山車は | 北側の参道に移動 |
境内を掃き掃除 | 社殿でも準備が進みます |
神輿殿から神輿と | 台車を移動し |
社殿前に止めると | 子供神輿を降ろして |
大神輿の左側へ移動し | 馬の上に下ろします |
社殿左手にあった太鼓は | 社殿右手に移動させます |
神輿を持ち上げて | 台車を抜き |
馬を入れて | 下ろします |
抜いた台車は | お宮の外へ移動 |
休憩所の飲み物を積みます | 愛神會の受付を準備 |
神輿渡御の打ち合わせ | 神輿では捩りの調整 |
太鼓の両側に | 幟旗を立てます |
取材用に半纏をお借りしました | こんな感じです♪ |
受付にご祝儀を届けに来ます | 御神酒が届きました |
リポビタンDで栄養補給 | 愛神會のステッカーを頂きました |
御神酒の紙コップを並べます | お返しのタオルを準備 |
太鼓関係者が記念撮影 | 友好団体が記帳に来ました |
こちらは来週例大祭の出繩です | 担ぎ手が増えてきました |
受付には次々と | 友好団体が訪れます |
式典 (開始9:00、終了9:45)
9時からは社殿にて春日神社の宮司により例大祭式典が執り行われ、9時25分からは境内の神輿前で神幸祭(みゆきさい)ならびに遷霊之義(せんれいのぎ)が執り行われる。
9時頃になると | 社殿では神事が始まります |
掲示板に熨斗紙を貼って行く | 私のも貼って頂きましたm(_ _)m |
社殿での神事は9時15分頃に | 終わり自治会長の挨拶で乾杯 |
紙コップに御神酒を注ぐ | 9時25分頃になると |
神輿前で神幸祭が始まります | 神輿をお祓いし |
参列者をお祓い | 社殿に向かって一拝し |
再び神輿を | お祓いします |
続いて子供神輿をお祓いし | 宮司は社殿の中へ |
本殿へ向かいます | 神輿に御霊を遷すと |
紙吹雪を撒きます | 続いて御神酒を置いて献饌 |
祝詞を奏上します | 参加者は頭を下げます |
続いて宮司から順番に | 玉串奉奠し宮総代代表 |
宮世話人 | 愛神會の会長が続く |
最後に子供の代表者が拝礼し | 撤饌 |
9時45分に神事が終わり | 祭壇を片付けます |
宮出し (出発10:00)
例大祭式典が終わると愛神會の司会進行のもと、宮出しに際して式典が執り行われ、神輿の友好団体の紹介と襷渡しが行われる。襷渡しが終わると御神酒で乾杯をし、祭り囃子に囃されながら大神輿が愛宕神社をお立ちする。
神事後は愛神會の司会進行 | 最初に宮総代代表の挨拶 |
天気は曇りです | 続いて愛神會会長の挨拶があり |
友好団体への | 襷渡しが行われます |
襷渡しが終わると | 御神酒を配り |
宮世話人代表の挨拶で | 乾杯 |
愛神會が神輿に集まり | 神輿を担ぎ上げると |
馬を抜いて | 180°旋回し |
正面を鳥居側へ向けます | 太鼓は演奏のスタンバイ |
統制長が轅に上がって | 一本締め |
山車と社殿横では | 太鼓が始まります |
最初は愛神會だけで肩を入れ | 神輿を担ぎ上げると |
甚句を続けて | 2曲入れます |
両脇では箪笥を打ち鳴らす | さらにもう1曲甚句を唄うと |
神輿は参道を進んで行く | 境内に鳴り響く祭り囃子 |
ここから友好団体も加わり | 階段で一旦肩から下ろして |
参道を下っていく | 鳥居前まで来ると |
神輿を抱えて鳥居を潜り | 愛宕神社をお発ち |
太鼓の山車は裏から出発し | 神輿の前まで進みます |
神輿はY字路で右折し | 神輿渡御が始まります |
※神輿渡御は下記の神輿渡御の前半と後半へ。
神輿渡御(前半)
神輿渡御(後半)
宮入り (鳥居17:55、宮付18:10)
万田地区の渡御を終えた神輿が宮入りすると、社殿前で甚句を交えて神輿を揉み、輿をおろすと愛神會の会長の三本締めで宮付けされる。
正面の参道を | 登り |
鳥居を潜って | 宮入りしました |
境内では山車と | 社殿横で迎え太鼓 |
最後の階段を上がり切り | 境内へ入ってきました |
そのまま参道を直進し | 社殿へ向かうと |
先ずは愛神會の甚句で | 神輿を揉みます |
続いて愛神會がもう1本 | 甚句を入れます |
三本目は縄友会です | 社殿に押し寄せる神輿 |
続いて上吉沢が甚句を入れる | 神輿の勢いは止まりません |
5本目は土屋の熊野神社 | 境内は担ぎ手で一杯です |
お次は一眞會の甚句 | 神輿を押し返す愛神會 |
最後の締めは地元愛神會 | 神輿を揉むと |
統制長の輿をおろす甚句で | 終わりのはずですが・・・ |
勢いは収まらず | 急遽もう一度甚句を入れ |
ようやく輿をおろします | 愛神會の会長が轅に上がり |
三本締めて | 無事に神輿渡御が終わりました |
還御祭 (開始18:15、終了18:30)
神輿が宮付けされると神輿の友好団体は境内で食事をとり、神輿前では還御祭(かんぎょのみまつり)ならびに遷霊之義(せんれいのぎ)が執り行われる。愛神會は友好団体の見送りと片付けを並行して進め、友好団体の見送りが終わると、18時50分頃に神社役員と愛神會は直会を行う。直会後は再び後片付けを再開し、社殿と神輿殿、および倉庫の戸締りをして20時40分頃に解散となる。翌日の2025年4月7日(月)は片付けが行われ、テントの跡片付けなどが行われる。
担ぎ手はテントで食事を取ります | 太鼓の子供達にお菓子を配る |
18時15分になると神輿前では | 神事が始まります |
食事を終えた友好団体は | 順番に一本締めて帰路に就く |
山車では太鼓を外し | 締太鼓を緩めます |
18時30分に神事が終わります | 最後の縄友会を見送ると |
神輿を馬から抜いて | その場で180度旋回 |
神輿と一緒に記念撮影 | 18時50分頃になると |
愛神會会長の挨拶で乾杯し | 地元の皆さんで食事を取ります |
19時10分頃に食事を終え | 片付けに入ります |
神輿は捩りを外し | テントでは食事の片付け |
社殿横の締太鼓を緩める | 社殿の鍵を締めます |
台車の紅白幕を外す | 掲示板の熨斗紙を剥がします |
神輿を台車に移し | 輿棒を抜いて |
神輿殿の奥へ | 子供神輿も捩りを外します |
入口の提灯枠を外す | 掲示板を荷台からバラします |
テントは足を畳みます | 子供神輿の輿棒を外す |
山車を荷台から降ろし | 屋根を外して |
倉庫にしまいます | 参道の配線を巻き取ります |
子供神輿を神輿殿へしまう | 山車の柱も倉庫へ入れます |
本神輿を神輿殿に納め | 太鼓台をしまいます |
倉庫に備品をしまい | 20時40分に片付けを終えます |
残りは明日片付けます | 万田の皆様お疲れ様でした |
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