北高森きたたかもり

高森神社

  道了尊の西側の丘に北高森の鎮守である「高森神社」があり、祭神は阿遅志貴高日子根命(あちすきたかひこねのみこと)を祀り、境内社には八坂神社がある。山道の階段の途中に石碑があり、表には「旧社格 郷社高森神社」、裏には「延喜式内社 高部屋神社」と書かれている。石碑の年号は嘉永3年(1850年)と明治6年(1873年)で、その当時はここが「高部屋神社」と呼ばれていたらしい。現在の高部屋神社はかつて「八幡宮」と呼ばれており、北高森にある高森神社が往古の高部屋神社ではないかとの説もある。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると高森村は北高森と前高森に2分されており、北高森の鎮守は「八幡宮」で前高森の鎮守は「若宮八幡宮」であった。社はこのほかに「七社権現社」・「吾妻権現社」・「神明社」・「稲荷社」などもあった。
  寺院には、浄土真宗で江戸時代当初は東本願寺の末寺、享保年中(1716〜35年)に西本願寺の末寺に移ったとし、金林山桑岳院と号する「長龍寺」があり、慶安2年(1649年)に寺領として10石の朱印状が与えられている。曹洞宗で東富岡村龍散寺の末寺で高森山「関泉寺」がり、やはり慶安2年に寺領五石の朱印状が与えられている。浄土宗で観照山西光院と号する「寿経寺」があり、ここは元和9年(1623年)に下糟屋村南蓮寺の住職だった定蓮社正誉残道上人により開かれたとされ、もとは西光院と呼ばれた地蔵堂だったと伝えられる。当山修験で江戸青山鳳閣寺配下の「大宝院」があり、「松高俺」は足柄下郡関本村の最乗寺を開いた了庵とその徒弟道了の居住の地とされる。また、愛甲郡三田村清源院の末寺であった「海翁寺」跡がある。

高森神社正面入口
社号柱鳥居
石段西側石段
東側参道東側参道
玉垣手水舎
鐘楼神楽殿
拝殿幣殿・本殿
受与所
八坂神社境内
高森児童館地蔵堂

太鼓

  



神輿

  



例大祭

  本祭の祭日は『風土記稿』によると旧暦の8月6日で、明治20年(1887年)の『下糟屋村外六ケ村地誌』によると9月6日になっている。その後は4月9日になったが、現在は4月第2日曜日になっている。北高森では青年会を継承するかたちで「北栄会」が組織され、自治会・老人会・婦人会・子供会などと協力して祭りの余興を行うようになっている。
  本祭の日程は3日間で、前日のヨミヤ(宵宮)の朝に世話人が集まり幟立てが行われ、各種の余興が催された。大祭当日は午前10時より祭典が行われ、各戸1名ずつ出席する。以前は神楽もやっていたが、現在ではカラオケ大会が中心である。各戸では赤飯・煮しめ・寿司・そばなどを作って親戚を招待した。



高森の歴史

  愛甲台地の南部に位置する高森地区は、応永19年(1412年)8月の大山寺寄進状に「糟屋荘(庄?)内高森郷」とみえ、永禄2年(1559年)の『北条氏所領役帳』のも中郡高森郷とあり、かっては粕屋荘(庄?)に属し、高森郷を称していたことがわかる。『中郡勢誌』には地名の由来を、北方を山に覆われた山岳地帯によることからこの名になったとされている。
  江戸時代当初は直轄地で、元和5年(1619年)にそこを分割して小笠原元定領になる。寛永10年(1633年)の地方直しにより三井吉久に直轄地を分割して与えられ、明暦2年(1656年)に金弥が家督を相続した際に弟吉直に譲渡された。万治頃(1658〜61年)に残りの直轄地が分割され、町野幸長領になった。寛文2年(1662年)に三井吉直は兄金弥の養子になって本家を相続したため、吉直の領地は幕府に納められ直轄地となり、ここはその後間もなく妻木重直領になった。元禄10年(1697年)の元禄の地方直しにより残りの直轄地は酒井忠能領になり、小笠原・妻木・町野・酒井氏の四給の村として幕末まで続いた。なお宛行年次は不明だが、鵜殿氏信領があり宝永2年(1705年)に上知された。
  検地は寛文5年(1665年)に代官坪井良充が妻木領に実施し、貞享2年(1685年)に代官設楽能武・成瀬重頼により酒井領に、元禄4年(1691年)に岩崎伝兵衛・山崎藤助により小笠原領で実施している。享保3年(1718年)に平塚宿大助郷になり、同10年(1725年)に同宿加助郷に変更されている。文政寄場(改革)組合は厚木村外四八ヶ村組合に属した。高森村は北高森と前高森に二分されており、前者の北高森分の小名には「北高森」・「鳴瀬」・「四ツ谷」・「吾妻入」・「赤坂」・「宮ノ下」、後者の前高森分の小名には「前高森」・「小金塚」・「歌川」・「後ろ谷」があった。高札場は4ヶ所であった。字小金塚には縄文時代後期の住居跡と古墳時代前期の円墳とされる古墳がある。
  高森村には矢倉沢往還が幅二間で通り、石田村より下糟屋村へ向かう。ここより別れる藤太道(とうたみち)と呼ばれた幅八尺の小道は愛甲村まで通じ、伝承では糟屋藤太有季が開いたとする。村内の谷合には比較的急な坂が3ヶ所あり、長さ一町ほどの割地坂、三〇間ほどの白金坂と一ノ崎坂があった。村の西部の吾妻山麓を水源にする歌川が、境界部を流れる富岡川と字八丈で合流して幅八尺で流れる。また、村の北西部の吾妻山麓を水源にして戸張川が東の境界を流れ、川幅九尺になり石田村へと向かう。



その他の行事

●平成23年(2011年)2月19日・・・高森神社復興ご造営記念式典



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