本祭典ほんさいてん

本祭典(8月28日)

  27日の遷幸祭の翌日には社務局にて本祭典が実施され、午前中に行在所で秋季大祭の祭典が執行される。夕方頃になると能舞台で余興が催され、夜には各町内の神輿と阿夫利睦の神輿が社務所境内を練り歩く。
  ここでは平成22年(2010年)8月28日に行われた本祭典の様子を紹介する。



大祭執行 (開始10:30、終了12:10)

  本祭典当日の行事は行在所での祭典から始まり、地元関係者の他に招待された一般市民や市議会議員なども参列する。祭典では池の横に設置された忌竹の祭場で、まず神官一同がお祓いをし、祭場を出発して参列者が待つ行在所へ移動する。

境内に揃う6町内の神輿式典が行われる行在所
能舞台では狂言のリハーサル
境内には打ち水1時間前の触れ太鼓
暑いので念入りに水をまく30分前の触れ太鼓
社務所に続々と車が到着し奥側に止める
参列者は受付を済ませると
身を清めるために手水舎へ手を洗って口を濯ぐ
一方、神職らは池の横へ向かい桶に入れた水で身を清める
テントで待機する参列者15分前の触れ太鼓
神職らはテント下に集まり参列者は行在所へ着席
神職の準備が整うと太鼓が式典の開始を伝える
池の横に設けられた忌竹の祭場にて
祭典が始まり宮司が前に出て挨拶
最初に修祓の儀神職は頭を下げる
左右の神職らをお祓い
雅師から先にテントを出発
宮司がその後に続き神職らは列を作る
一行は右折して行在所へ向かう
行在所のテント前まで来ると右折
テントの中央を進み神職が参列者をお祓い

  行在所へ入場するとまず神輿開扉の儀があり、和琴奏者が神前中央に出て神官の警蹕(けいひつ)と同時に奏で、祭主が神輿の前におもむいて扉を開ける。続いて献饌の儀があり、洗米・赤飯・御神酒・鏡餅(紅白)・海魚(鯛)・伊勢海老・鳥(鶏)・野菜・果実・菓子の順で神饌が神前に供えられる。次に奉幣の儀があり神官が大幣を神前に供え、終わると祭主の祝詞が奏上される。さらに氏子幣献上の儀が行われ、年番長が献幣使となって神前に供える。

神職が祭場へ着席司会進行のもと
宮司が一拝をし祭壇に上がって神輿を開扉
続いては献饌神饌を運び出し
手渡しで神前へ送る神輿に供えられた神饌
続いて奉幣の儀大幣が手渡され
 
祭壇に上がり神輿前に大幣を供える
続いて宮司による祝詞奏上参列者は頭を下げる
舞童・舞女が姿を現しテント下で待機
続いて本庁幣と氏子幣両方の奉幣が奉られる
けんぺいし祭司奏上?氏子奉幣師祭文奏上?

  行在所の神前に茣蓙(ござ)が敷かれ、11時15分頃から倭舞と巫女舞が奉納される。

舞童・舞女がテントから出ると年番長事務所前で右折
そのまま右に進み行在所前のテントへ入る
水色の半纏を纏った3人が茣蓙を持って祭場の奥へ
茣蓙を置いて手前側に敷いていく
テント下に待機していた舞童が茣蓙の前まで進む
履物を脱いで茣蓙へ上がる
舞女も茣蓙に上がり5人は正座
舞童に榊が手渡され倭舞が始る
舞が終わると舞童4人は再び正座
榊を戻すと今度は舞女が前に出る
立ち上がると巫子舞が始る
舞が終わると一同は頭を下げる
立ち上がり反転する
衣紋方が衣装を整え草履を履くと
テントの中央から退場する
水色の半纏を着た3人が茣蓙を手前側に巻き取る
茣蓙を抱えテント中央から退場

  倭舞・巫子舞の奉納が終わると11時30分頃から玉串奉奠が行われ、祭主以下、参列者の順に続けられる。11時50分頃になると祭主や年番町の挨拶があり、12時に一同が行在所を退出する。関係者は忌竹前のテントへ集まり、宮司の挨拶で祭典は終了する。このあとは各会場に分かれて直会の儀が行われる。

宮司に玉串が手渡されここからは玉串奉奠
続いてケンペイシと氏子奉幣師が玉串奉奠
参列者にも玉串が手渡され玉串奉奠
続いて年番町が入場し拝礼する
神職らが祭壇前の玉串を移動
本庁幣と氏子幣を徹し撤饌
続いて宮司一拝サンジャ挨拶
宮司の挨拶とケンペイシの挨拶があり
最後に年番町の挨拶で式典は滞りなく終了
一同は退場テントを出て左折
境内を直進しテント前で左折
参列者も席を立ち神職らはテント下へ
宮司の挨拶があり解散


余興 (開始18:30、終了21:10)

  夕方からは社務所境内にある能舞台にて余興が催され、前半は狂言と仕舞の奉納が行われる。

観客が用意された椅子を能舞台前に運ぶ
観客は徐々に集まり境内には打ち水
開始10分前に触れ太鼓が鳴り始まりを待つ観客
再び触れ太鼓が叩かれいよいよ能舞台での余興が始る
揚幕を潜り狂言師2人が入場
最初の演目は狂言 いろは
演じ終えると狂言師は鏡の間へ今度は3人の狂言師が入場し
続く演目は狂言 文荷
橋掛がりを通って退場し次に地謡が入場
後座に着席し続いてシテが入場
ここからは仕舞が始まり最初の演目は敦盛キリ
2人目が登場し演目は柏崎道行仕舞は能の一部を素で舞う
3人目の演目は玉鬘キリ伴奏は囃子が入らず地揺のみ
最後の花月キリが終わり地謡が退場
最後の演目は狂言 腹立てずここは鏡板がなく本物の松
正面の見所は観客で埋まる狂言と仕舞はここで終了

  狂言と仕舞は19時30分頃に終了し、その後は北岡ひろしショーが催される。

続いては北岡ひろしショー
山形県出身の女形の演歌歌手歌も踊りも見事です
途中で舞踊団「かぐや」の踊りが入り舞台を盛り上げる


大山の能舞台

  明治期の銅版図「大山阿夫利神社下社新築図」(飯田孝所蔵)を見ると、拝殿の手前左側に能舞台が画かれており、明治維新の神仏分離以前にはこの拝殿の位置に大山寺不動堂があった。しかし、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』所載の「不動堂辺図」に能舞台は見えず、同書の「大山図」・「大山寺境内前不動辺図」・「石尊社辺図」にも能舞台は画かれていない。
  とはいえ、「御神事能狂言番組」には安政元年(1854年)の大晦日と翌年正月二日の野火で旧来の装束も焼失したため、「一統の丹精にて午(安政5年)二月再建」、「山の舞台」も「新規取立」したことが記されている。現在、阿夫利神社には能面・装束などが伝来しているが、これらの中には安政の大火後に「一統の丹精にて」調えられたものも含まれていると思われる。「山の舞台」の位置は明らかにし得ないが、これにより幕末期には能舞台が存在していたことがわかる。では「山の舞台」以前、能はどこで演じられていたのか。
  「御神事能狂言番組」によると元禄16年(1703年)3月25日の勧進能興行が「坂本正本坊明(あ)キ屋敷(やしき)」、正徳3年(1713年)4月9日の追善能興行は「観音寺ニテ」行われたとあり、その後の追善興行記録を見ると享保7年(1722年)は「御屋敷(おやしき)にて」、寛保3年(1743年)には「下屋敷にて」、宝暦12年(1762年)は「御下屋舗」、文政2年(1819年)も「御下屋敷」とあり、「御屋敷」・「下屋敷(舗)」で上演されていたことが記されている。「御屋敷」・「下屋敷」には能を演ずる舞台があったと考えられるが、これが独立した建物であったかどうかは確認できていない。
  現在の能舞台は平成12年(2000年)に新築されたもので、場所は社務所の境内の池の上に建てられており、池には鯉が優雅に泳いでる。通常は鏡板に松の絵が描かれているが、大山の能舞台は鏡板がなく、舞台裏に本物の松が植えられているのが特徴である。夜には松が鮮やかにライトアップされ、奉納される能や狂言はより華やかな風情を醸し出す。

能舞台(正面)能舞台(裏手)
池を泳ぐ鯉ライトアップされた松

倭舞・巫子舞

  倭舞(やまとまい)と巫子舞(みこまい)は、共に大山阿夫利神社の神楽舞として神前に奉納されるものである。この舞は阿夫利神社祠官(しかん)の権田直助(ごんだなおすけ)翁が、明治6年(1873年)に奈良の春日大社の神官富田光美(とよだみつよし)から伝授されたもので、その経緯については大山阿夫利神社所蔵の『倭舞歌譜』の奥書により明らかになっている。伝習された舞は同年11月の御祭典のときに初めて奉納されたといわれ、昭和28年(1953年)12月22日には神奈川県の重要無形民俗文化財に指定、昭和51年(1976年)10月19日に再指定されている。。
  現在、大山先導師職の子供たちで構成する大山子供会が中心となって伝承されており、曲数は倭舞が11曲、巫子舞が9曲継承されている。倭舞には4人で舞うものが8曲と、1人で舞う六位舞(ろくいまい)が3曲あり、腰に刀をさし、手には榊や扇を持って舞う。一方、巫子舞には4人または6人の童女で舞う7曲と、1人で舞う白拍子舞が2曲あり、額に花かざしを付け、五色の布を垂らした鈴や扇を持って舞う。
  倭舞・巫子舞とも篳篥・琴・横笛・笏(しゃく)拍子などの楽器を用いて演奏され、これだけの曲は宮中においても、また春日神社にも伝わっていないといわれている。毎年8月28日の例祭には、社務局で神前に奉納されている。



大山の能と狂言

  大山に伝えられる能と狂言は通称「大山能」といわれ、大山能の歴史は江戸時代の宝永7年(1710年)9月10日に没した貴志又七郎(きしまたしちろう)によってもたらされた。文政2年(1819年)に大山西岸寺(せいがんじ)墓地に造立された「義法性遵居士」墓石には、「宝永七寅秋九月十日寂 当時能元祖太夫 俗名喜志又七郎」と刻まれており、この墓石は大山権田(ごんだ)公園に移設されて現存する。
  貴志又七郎は紀州(現在の和歌山県)の人で、観世(かんぜ)流の名能楽師貴志貴太夫(きしきだゆう)と同一人物とも、その弟子ともいわれている。貴志又七郎は紀州からこの地に来て多くの門弟に能楽を伝え、「大山観世」の名を生んだ大山能の開祖といわれている。
  昭和34年(1959年)11月5日には追善能「女郎花」、狂言「止不動」が行われ、権田公園に墓石を移して「喜志又七郎と大山能のいわれ」を刻した「頌楽祖」の碑が建立された。「義法性遵居士」墓石には「夫喜志姓、性遵居士者紀南産踏舞□也」以下、大山に来留したことや、「老松・経政・三輪・盛久・船弁慶」ほかの能番組などが刻まれている。

権田公園墓石郡

  大山能の歴史は「御神事能狂言番組(ごしんじのうきょうげんばんぐみ)」によってその盛衰隆替が窺え、『神奈川県民俗芸能誌』によると同番組帳は大山沼野家蔵、半紙横二つ折りで紙数は150枚とされる。元禄16年(1703年)から明治25年(1892年)までの200年近くに渡って書き継がれた番組が記録されており、明治26年(1893年)以後は別個に記録されている。
  元禄16年3月28日の「御神事能狂言番組」には、鈴村介太夫・飯田平太夫、佐野小三郎、武庄介、永野草之丞、佐藤吉内、石原安兵衛、後実蔵坊玄常、村山半四郎、奥村又三郎、神崎吉之丞、桑田楠兵衛、沼野義太夫、源田平六、岡田文蔵、横山利兵衛、是開蔵様弟後別家シテ松智院安兵衛、大谷五郎介弟後蔵全坊長五郎、相原千介ら、大山関係者と見られる名前があり、能狂言を演ずることができる大山の人たちがかなりの数にのぼっていたことを示している。また、この時の番組は「翁・高砂・田村・定家・唐船・羽衣・鞍馬天狗・猩々」と、狂言の「二本柱・子盗人・朝比奈・柿山伏・花折」であり、「翁」には「丈松事後要介也 市三郎、七右衛門 是ハ江戸ヨリ来ル」との記載がある。
  大山には近世の能・狂言の資料が残されており、次にこれらの関係資料を取り上げる。猪俣三郎家資料では元禄3年(1690年)から宝暦5年(1755年)に至る刊本(雨月・くらま天狗・夕顔など)や「当流小揺」ほか、近世の刊本(鶴亀・熊谷など)11点があり、内海輝雄家資料には天保14年(1843年)の「金春三郎右衛門より内海式部太夫宛免状」及び、天和2年(1682年)から元禄3年(1690年)の「能教本」、天保9年(1838年)の「竹生嶋糸盆山」ほかの能楽関係資料が残されている。また、大藤直兄家資料には享和3年(1803年)の「金春三郎右衛門より大藤吉蔵宛免状」、同年の「大鞁免状」・「首能鞁免状」および、天保4年(1833年)の「首能鞁免状」のほか、寛政6年(1794年)の「脇能口伝」、「金春流太鼓手附」などが伝わっている。金春流(こんばるりゅう)は能楽太鼓方の一流で、流租は金春三郎右衛門で、大蔵源右衛門に太鼓を習い、別に一流を立てた。父は太鼓名人金春又次郎(後又右衛門)である。豊臣秀吉・徳川家康に仕え、上意で観世座付となった。この太鼓の流儀金春流は明治時代まで続いたが、現在は廃絶している。
  大山能は大山の御師たちによって脈々と守り継がれてきたが、時代の移り変わりとともに衰退した時期もあった。しかし、明治の初めに「大山能楽社」が結成され、その後昭和53年(1978年)に大山能楽社保存会が作られたことにより、大山能狂言は現在も演じられている。昭和53年(1978年)6月28日には伊勢原市の重要文化財に指定され、昭和56年(1981年)には「火祭り薪能(たきぎのう)」として催されるようになった。



神輿 (開始20:15、終了22:15)

  夜には前日から行在所近くに安置されていた、各町内の大小の神輿が忌竹からお発ちし、社務局の境内を練り歩く。事務所前に移された年番町の神輿が先にお発ちし、その後は順不同に次々と境内へ向けて神輿が担がれる。神輿を担ぐルートや場所などは特に決まりがなく、行在所前で揉んだり、境内で並んで競り合ったりと、各々の神輿が自由に境内を動き回る。行在所前には常に年番町や阿夫利睦の代表者が提灯を手にし、神輿が祭場内に入らないように番をしている。また、能舞台が終わると池端のお囃子の演奏が始り、6町内の神輿の競演に花を添える。

神輿には担ぎ手が集まり年番町の福永町からお発ち
忌竹からは前列の子供神輿が続々とお発ち
続いて奥の大人神輿が忌竹からお発ち
各町内の子供神輿と大人神輿は行在所へ向い
順次入れ替わりながら行在所前で神輿を揉む
行在所前には提灯を手にした年番町と阿夫利睦が常に待機
神輿は行在所を離れ境内を練り歩く
開山町の日之出倶楽部は行在所前で神輿を差し上げる
境内では甚句を交え数基の神輿が肩を並べる
神輿は能舞台から行在所の間を自由に移動
各町内の神輿は暫く練ると忌竹内に戻り始める
休憩前に行在所前へ押し寄せ激しく揉む神輿
能舞台でのショーが終わると池端の囃子が始る
年番町の愛宕倶楽部が行在所前で旋回
境内へ向かうと太鼓が叩かれる
年番町の事務所前に到着し輿を下ろす
日之出倶楽部も忌竹へ戻りここで一旦休憩を取る

  境内を30分程練った各町内の神輿は忌竹内に順次戻り始め、20時45分頃に事務所前の触れ太鼓の合図で、年番町の神輿が最後に輿を下ろす。この後は阿夫利睦の神輿が境内で担がれ、各町内の担ぎ手たちが交代しながら境内を練り歩いていく。

担ぎ手は阿夫利睦の神輿へ年番の愛宕倶楽部が一本締め
肩を入れて能舞台前からお発ち
境内を直進し行在所へ向かう
行在所前まで来ると頭を右に振り
行在所に向かって練り歩く
ゆっくりと神輿は前進
祭場に迫る神輿を押し戻す
神輿はそのまま後退し頭を右側に振る
再び境内を練り歩く神輿池端の太鼓が盛り上げる
途中で甚句が入り神輿が揉まれる
お囃子に囃され境内を進む神輿
能舞台前まで来ると神輿はUターン
事務所前では台車を用意し提灯で神輿を誘導
引き返してきた神輿が事務所前へ押し寄せる
神輿を押し戻すと甚句に合せて揉む
神輿は再び前進し甚句が入る
神輿は境内を勢いを増しながら
前後に往復し芯を出していく
最後の甚句を入れ神輿を揉むと
会長の指示により事務所前に輿を下ろす
会長が前の轅にまたぎ三本締め

  30分程担がれた阿夫利睦の神輿が輿を下ろすと、21時25分頃に触れ太鼓が叩かれ、事務所前の年番町の神輿から順に各町内の神輿が再び境内を練り歩く。21時40分頃になると神輿は順次境内を出発し、それぞれの地区に設置された祭場へ向かって社務局を後にする。

太鼓が叩かれ福永町の子供神輿を
子供たちが担ぎ上げ境内へ向けてお発ち
愛宕社の大人神輿にも担ぎ手が集まり一本締め
神輿を担ぎ上げ事務所前をお発ち
暫く進むと右折し行在所前に押し寄せる
神輿を押し戻すと後方からは子供神輿が
行在所前で揉む福永町の2基日之出倶楽部が一本締め
福永町は子供神輿を残し大人神輿が境内へ向かう
開山町の子供神輿が忌竹内からお発ち
大人神輿も続けてお発ち後方では新町が一本締め
稲荷町も続けて一本締め忌竹から神輿を出し
肩を入れると新玉倶楽部と並んでお発ち
その次は別所町の霞倶楽部がお発ち
開山町の子供神輿に続き新町の神輿が行在所前へ
入れ替えは激しく今度は別所町が行在所前へ
開山町が行在所へ押し寄せ威勢よく神輿を揉む
神輿は行在所を出ると境内へその横で演奏する池端の囃子
境内で肩を並べる町内神輿別所町の子供神輿が行在所へ
左手の霞倶楽部が並びから抜け出し
事務所前を通過社務局の出口へ向い
地元別所町へ向かってお発ち別所町の子供神輿も後を追う
新玉倶楽部も行在所を離れ境内の出口へ
地元新町を目指して社務局を子供神輿と共に出発
行在所前の千代見倶楽部その後方には愛宕倶楽部が
稲荷町が後方に下がり福永町と肩を並べ
行在所前へ押し寄せると激しく神輿を揉む
後方から日之出倶楽部が現れ2基の神輿と入れ替わり
行在所前へ押し寄せる後方では稲荷町と福永町が
左右を入れ替えると再び肩を並べて行在所前へ
後退すると2基は揃って境内へ開山町が再び行在所前へ
境内を練る稲荷町と福永町行在所前では日之出倶楽部が
威勢よく神輿を差し上げる
日之出倶楽部は行在所を離れ境内出口へ向い方向転換
露店の間を通り地元開山町へ向かってお発ち
稲荷町は行在所前で揉むとそのまま後退し
頭を能楽堂の方向へ向けバックして忌竹内に輿を下ろす
太鼓が打ち鳴らされ千代見倶楽部は三本締め
年番町の愛宕倶楽部が事務所前で神輿に肩を入れ
境内に沿って右に折れる
行在所へ向い激しく揉む
後退して行在所を離れ頭を事務所側へ振る
甚句を交えて事務所前で練る愛宕倶楽部
坂本町は車に乗せて岐路に着く愛宕倶楽部は事務所を離れ
社務局の出口へ地元福永町へ向けてお発ち
行在所では旗を片付け能楽堂では椅子をしまう

  22時を過ぎた頃に事務所前の触れ太鼓が打ち鳴らされ、年番町の神輿が最後に境内をお発ちすると、本祭典での行事は全て終了となる。
  翌日の29日には還幸祭が実施される。


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