小動こゆるぎ

神社の紹介

●江戸時代の神社
  江戸時代の小動村の神社については天明8年(1788年)の『村鑑明細帳』および、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』からその概要を知ることができる。『村鑑明細帳』によれば村内の神社数は、「御嶽権現社」・「山王山(社)」・「稲荷山(社)」・「天神」・「子ノ神」の合計5社である。これらは明治16年(1883年)作成の『田畑其他改正反別取調帳』および『改正反別地引絵図』には、いずれも独立した社地を保有する神社として記録されていることから、社地と建造物を伴う形での神社であったことがわかる。明治5年(1872年)までこの5社という数字に変化はなく、天明8年に書き留められたこの『村鑑明細帳』が小動村の神社に関して、全体像を把握できるような史料としては現在のところ最も古い。
  『村鑑明細帳』が書かれて半世紀後に書かれたのが後者の『風土記稿』であるが、この史料には「天神」と「子ノ神」の2社の記載を欠いている。どのような理由でこの2社の記載がなされなかったのかは不明であるが、幕末に作成されたと思われる『小動村絵図』には5社全てが記載されており、小動村の神社が5社であったことは確実である。絵図は必ずしも寺社等の位置や規模といった実態を正確に表現しているとはいいがたい場合が多いが、村人が概念的に神社や寺をどのように把握していたか、その民衆的な感覚は正確に表現しているといえる。その絵図において5社の神社を確認できるということは、小動村の村人が神社は5社であると考えていたことの反映であるといえる。これとは反対に、断片的にしか史料には出てこない「稲荷」が念宗寺の項の末尾に1社記されている。この稲荷社は念宗寺境内にある「雉子稲荷」と推定されるが、安政4年(1857年)の御嶽権現社の普請関係の古文書のなかには「御嶽稲荷社」として出てくる稲荷社もあり、それが同一のものであったのか否かその詳細については不明である。
  また、小動村のいくつかの神社に関しては棟札が残されており、前述した天明8年以前の神社の状況を知ることができる。そのうち最も古いものは延宝8年(1680年)9月の年代を記す棟札で、社頭建立とあるもののそれがどの神社であったかを示す記載がないために神社を特定することはできないが、天下安泰と地頭の息災延命の祈?所とするために建立したとする表記からすると、村の鎮守的要素が大であった「御嶽神社」のものであったとするのが妥当であろう。天明8年以前のものでその神社名が明確なものとしては、他に延享3年(1746年)の「稲荷大明神」の再建棟札、天明6年(1786年)の「山王二十一社大権現」の遷宮棟札などが残されており、何らかの建築物の存在をこれらによって確認することができる。また、残された棟札13枚のうち年代の記載がはっきりする、12枚中5枚が明和・安永・天明期に集中していたこともわかる。

●鎮守と支配
  上述のように、小動村の神社は独立した社地を持つ5社と寺院の境内社1社の合計6社が江戸時代を通じて史料上で確認できるが、『風土記稿』にはどの神社が小動村の鎮守であるかは記録されていない。しかしながら、村の鎮守としての性格を持つのは、村で唯一の寺院と隣接するなどその所在が宗教的中心にあったこと、高札場や地頭の蔵屋敷などに隣接する政治的な中心でもあったこと、村で唯一除地を持つことなどから「御嶽権現社」が小動村の村鎮守であったと考えられる。さらに明治10年(1877年)に小動村の各戸より正副戸長宛に提出された、氏神・檀那寺等を詳細に記した史料によると、40軒すべての村民が「御嶽社」を氏神としていることなども御嶽社が小動村の鎮守であったことの証左といえる。
  前述の『村鑑明細帳』と『風土記稿』には神社名以外に神社の支配に関して若干の記載を見ることができ、それによると境内社1社を除く5社すべてが「村持」、すなわち村の支配となっている。「村持」とは専従・兼務の神主による支配、あるいは寺院僧侶による別当支配、そのいずれをも受けない形での維持運営を意味する言葉である。村の鎮守であったと思われる御嶽権現社を例にとっても、隣接して念宗寺が存在するにもかかわらず、別当支配という専門の宗教者による支配ではなく、村持という村民による共同体的な神社運営が行われていたことがわかる。ただし、神社造営の際の遷宮の行事などには僧侶が関わっていたようであり、棟札などには薬王寺や念宗寺の僧侶の名が記されている。寒川町域において村内全ての神社が村持という村は他にはなく、小動村の神社の特徴としてあげることができる。
  村持という江戸時代までの神社支配の関係は明治以降には変化しており、寒川社との兼勤という形ではあったが、新たに支配していたのは還俗して神職となった寒川社の元別当安藤直であった。

●神社合併
  その後、明治29年(1896年)に村社であった「御嶽社」をはじめ、無格社の「稲荷社」と「日枝社」を合祀し「小動神社」と改称された。寒川町域の他の神社合併に比べて早い段階での神社合併であった。合祀を期に小動神社の社殿が建造され、その後に社殿は再建されている。小動神社の祭神は「日本武尊(やまとたけるのみこと)」・「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」・「大山祈命(おおやまつみのみこと)」である。

小動神社鳥居
燈籠手水舎
狛犬狛犬
釣り燈籠
拝殿幣殿・本殿
 
境内小動地区集会所
 

太鼓

  「小動囃子」は3つの神社が合祀された時に奉納されており、大正・昭和の時代に入り小動囃子も青年組から青年団に引き継がれ、村祭りは太鼓が中心の余興祭典が行われてきた。
  戦中戦後には小動囃子を中断せざるをえない時期もあったが、小動地区内には祭り好きの者が多く、昭和50年代に入り太鼓連を発足させた。その後、平成6年7月に太鼓連を継承し「小動囃子保存会」を発足し、寒川町祭り囃子保存会連合会にも加入した。



神輿

  



例大祭

  10月17日


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