平沢ひらさわ

御嶽神社

  「御嶽神社」の祭神は「倭建之命(やまとたけるのみこと)」・「大己貴命(おおなむちのみこと)」・「少名之命(すくなひこのみこと)」・「櫛真知命(くしまちのみこと)」、境内社は「金比羅八幡社」・「山王稲荷天神山之神合祀社」である。創立年歴は不詳だが、建久3年(1192年)の頃より神社前の参道を御嶽道と称し(その先を北条と言う。大化班田条里の名を今も残す)、平沢村の鎮守であった。境内には樹齢800年余りの大欅2本(秦野市文化財指定木)があり、明徳3年(1392年)に四六貫五百文の当社家領が寄進されている。
  慶長13年(1608年)踊宮鈴張の地に家康公鷹狩りの節当社に参拝し、社殿の修復を命じたことにより翌慶長14年(1609年)に改修、棟札に「奉修御嶽権現社壇事本願神主草山兵庫守、寺家分草山藤左ヱ門慶長十四年酉年十一月吉日・・・」とある。現在の本殿はその時のもので、神職は白川家の配下であった。宝永8年(1711年)2月13日には宗源宣旨により正一位御嶽蔵王権現と称えられ(当社古文書)、明治6年7月3日に上地し御嶽神社と改称、昭和9年に幣帛料供進指定神社となる。昭和51年5月3日に本殿を除き全社殿を新築木造銅板葺とした。
  神社指定結婚式場は、明治13年に出雲大社国造千家尊福宮司と後の報徳二宮神社初代祠宮草山貞胤翁によって勧請され、大国主之命を祭神とする大社造り神殿を式殿としている。この式殿は貞胤翁より草山文之助翁に引き続き、草山智義翁に引継がれ、智義翁は片岡の信徒を始め多くの崇敬者の再建願望を自分の心とし再建に努力した。他界に際し、長男貞胤にその遺志を引き継がせた。昭和47年に御嶽神社の隣接地に本殿を再建し、昭和54年8月に幣殿・拝殿・参集殿を同時に起工。昭和55年4月1日に神楽殿・神殿の遷宮式並びに幣殿・拝殿・参集殿の竣工式を施行した。後に結婚式場は神奈川県神社庁の指定を受けた。

石碑・神社由緒
狛犬鳥居
手水舎神楽殿
神輿殿天神山神社
拝殿本殿・幣殿
燈籠
境内


八坂神社(平沢1224)

  八坂神社の祭神は「須佐之男命(すさのおのみこと)」・「大国主之命(おおくにぬしのみこと)」で、境内社には「道祖神社」がある。創立年代は不詳であるが、別名「金毘羅宮」と称し、境内には樹齢800年を超える大欅2本があり市の指定木である。昭和8年の台風時に倒木した杉樹の年輪は985輪あった。寛政元年(1459年)酉年4月の社号額「金毘羅大権現」は神祇官資延王謹書とあり、文政2年(1819年)作の手水鉢および同年の石灯籠一対がある。神輿は寛政2年(1461年)の作で、西光寺遷宮師時代、寺社の往復に奉仕した。明治2年()西開戸鎮座牛頭天王社(往古天王畑にあり)明治6年西光寺持八坂社を合祀して八坂神社と改称して独立したが、氏子民は八坂様とも金毘羅様とも称し親しんでいる。昭和51年に御嶽神社の社殿を移築改造して現神社となる。
  遷宮師御泊り神事、遷宮師寺山西光寺に宵宮に渡御、大祭日に遷輿し社殿へ。

囃子

  



神輿

  祭礼日には午前8時に三役が神社へ集まり、祭式を執り行う。9時から八坂神社(境内社)の神輿に御魂入れをし、さらに子供神輿8基に祝詞、祓いをして渡御が始まる。
  子供神輿は戦後作られたもので、「清水町」・「緑町」・「鈴張町」・「新町」・「北町」・「宮町」・「三脇町」にあり、子供会が中心に執り行われる。神社での式典後にそれぞれの町内へ帰って男子が担ぎ、女子が旗持ちをして練り歩く。
  大人神輿は御魂入れの後、自動車にのせて「小原」→「畑中」→「南町」→「北町」→「清水町」→「緑町」→「鈴張町」→「新町」→「三脇町」→「西光寺」→「神社」という順で渡御が行われる。北町までは自動車で各地へ持って行き御旅所で祝詞を奉上し次へ回るが、清水町からは自動車から降ろして新町まで一年おきで担ぐことになっている。
  新町まで担いだ後、再び自動車に乗せて三脇町→西光寺まで来て、西光寺で神輿保存会の人に渡して神社まで担いでもらう。夕方6時ごろまでに戻り、その後直会を社務所で行う。小原への神輿渡御は午前中、ほかよりも一番早く最初に御旅所へ来る。前日から準備してあった御旅所に野菜、酒、洗米などを供えてある祭壇前で、神輿と同乗してきた神主、宮世話人らが降りて祝詞を奉上し、村人の玉虫奉奠が行われる。
  以前は青年団らが神輿を神社から担いで行ったが、そのとき神輿を田に入れたり、揺り動かしたりして暴れさせることがあったとう。しかし、八坂神社の神輿が170年前の古いもので今は慎重に扱っている。



青年団

  以前、青年団や若者が神社の祭りに参加していたころは、青年が独自の活動で余興の企画を立てたりしたことがあった。青年団はその予算を宮総代のほうへ請求して、農村歌舞伎を呼んだり、映写会を開催した。当日夕方4時ごろから歌謡曲、カラオケ、田舎芝居や歌舞伎などを行ったりする。以前は夜中10時、11時と夜遅くまで残って、むしろを敷いて楽しんだ。



平沢の歴史

  平沢は渋沢丘陵から北方の水無川の平地にかけて開発されたところであり、丘陵の根元近くを室川が流れている。『風土記稿』には沢が九つあると記していて、平沢九沢という言葉もあった。古い縄文時代の遺品も発掘されているが、元弘(1331〜34年)の頃は鎌倉浄光明寺領であったことが、同寺文書にあることから、既にこの頃には平沢という地名があったと考えられる。『風土記稿』にある小名は「御竹道」・「北条」・「小原」・「上合」・「堀田」・「寺井」・「峯」・「北ノ海戸畑ヶ中」であり、天保5年(1834年)の戸数は160であった。



例祭

  御嶽神社の祭礼は「御嶽のお祭り」と一般にいわれ、4月第1日曜日が祭日となっているが、以前は4月7日と決まっていた。その前は5月3日?
  神輿寄せ、5月3日の例祭日に10基の神輿が各町内より境内に集い、神楽舞奉納後各町内に散る。遷宮師神事1基の神輿が宵宮の夕、遷宮師西光寺に渡御一泊神事を行い、大祭日に氏子の9町内を廻り遷輿神事を終わる。


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