飯島いいじま

八坂神社

  「八坂神社」は古くから「天王社」と「天神社」合祀した飯島村の氏神社であり、祭神は「須佐之男命」と「菅原道真公」である。社殿の建立年代を知る史料はないが、石の狛犬に元禄12年(1699年)の銘があり、これとほぼ同期と推測される。明治時代初期(明治維新後)に八坂神社と改称した。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると飯島村の鎮守を「天王天神合社」とし、神体は各木像で、寛永12年(1635年)の棟札があると記載されている。別当は天台宗の「明珠院」で飯島山不動と号し、鐘楼の鐘は寛政3年(1791年)の鋳造、末社は「妙見摩利支天合祀」とある。また、飯島村には村民持ちの「諏訪社」が記載されている。
  八坂神社は平成7年(1995年)のに不審火で社殿は全焼したが、ご神体二体は火難を免れ、平成9年(1997年)に社殿を再建した。また、諏訪社はかつて個人の屋敷内に石祠が祀られていたが、現在は八坂神社境内に移されている。

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八坂神社鳥居
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社務所・飯島自治会館狛犬
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拝殿覆殿
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石祠境内


ヨミヤ

  祭りの前日をヨミヤといって、昼間に氏子全員で幟立てをした。若い衆達が幟の監視をし、雨が降ったり風が強かったりすると幟を下げたりした。青年団がヨミヤだといって夜になると集会所に集まり、太鼓を叩く練習をした。また、若い衆達が神楽殿を建てたり、余興で行われる神楽の演物などを仕切った。青年団は役者などを南原・愛甲石田・厚木の戸田・寒川あたりから呼び寄せたという。



例大祭

  例祭日は天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると旧暦の6月7日であり、その後は9月7日になったが、胡瓜栽培の都合もあり変えてきており、昭和57年(1982年)は9月12日(日曜日)にした。現在は9月第2日曜日である。
  かつては伊勢原の大神宮(神明社)から神主がやってきて、祝詞をあげて式典が執り行われた。夜になると露店などが沢山出て賑やかであったという。
  祭りの翌日はハチハライといって祭りの後片付けをし、会計報告をしてから皆で飲食をした。

囃子

  かつては山車があったが、山車といっても車に花などを飾って山車にしたものであったという。



神輿

  式典が終わると子供の樽神輿がお宮から出発して、ムラ中を練り歩いた。昭和57年(1982年)に八坂神社の祭りのために子供神輿が作られた。



若い衆

  ワカイモン(ワカイシュ)は「夜遊び」といってだいたいは寺に集まり、太鼓をたたいたりした。若い者といっても50〜60歳くらいの人も混じっていた。近年、古老達は「若い衆」と「青年団」を同義語として使用しており、その差異は現在明確ではない。



飯島の歴史

  飯島村は幕府領であったが寛永15年(1638年)に旗本青山宗俊加増の地となり、後に宗俊が大名となって小諸城主を経て、延宝6年(1678年)に浜松城主となると時に転封されて幕府領に復した。この幕府領も元禄10年(1697年)に旗本鵜殿長明・同小河常重・同鵜殿氏基の3給地に分割され、このうち鵜殿氏基の知行地は宝永1年(1704年)に上知されたが、宝永3年(1706年)に旗本沼間広隆の給地に替えられた。しかし、沼間氏の知行地は文政6年(1822年)に上知され、後の文政11年(1827年)に大久保忠真(小田原藩)の領地に加えられた。従って飯島村は幕末において、旗本の2給地と小田原藩領で明治を迎えた。
  長持・入野・寺田縄の集落が主に鈴川沿いに形成されたのに対し、飯島は金目川の北部に集落を形成した。昔は家が5軒しかなかったといわれ、『風土記稿』の飯島村の戸数は15戸であった。明治24年(1891年)は17戸(121人)、昭和2年(1927年)は14戸であったという。もっとも大正12年(1923年)の関東大震災では全部の家屋が潰れてしまったが、その後も戸数は特に増えもせず昭和38年(1963年)の明細地図にも約20戸しかない。平成25年(2013年)は113世帯(292人)である。
  古道は『風土記稿』に「波多野道係る(平塚邊よりの往来なり。幅二間)」とあり、現在の平塚秦野線である。秦野街道に車が往来する以前には木間商店が立場で、ここは平塚と秦野(十日市場と呼んでいた)の中間に位置していたが、昭和初期でも馬力や魚屋が休んで酒や食べ物をとったりして、飯島は盛んであった。
  ムラの中はかつて本町(上)とヒヤッコ町(下)の2つの組であったが、近年はナカ(1組)・カミ(2組)・シモ(3組)に分かれるようになり、氏子総代もこの3組からそれぞれ1名ずつ選出されるようになった。


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