上依知かみえち

神社の紹介

  「依知神社」は鎌倉時代の創建で、依知郷全域の総鎮守としての格式を持ち、古くは「赤城大明神」と称していた。当社の祭神は「赤城社」と「熊野社」の両神を相殿にて祀り、御神体は銅鏡であって大日如来の像が彫刻されている。入口にある石造鳥居は慶応2年(1866年)の建立で、境内には末社の「稲荷社」や寛文7年(1667年)の勧請を伝える「狭水(さみず)神社」、地区内にあった「神明社」・「御嶽社」、その他に「秋葉社」等が合祀された。その他には道祖神碑や西南戦争で戦死した渋谷増五郎の忠魂碑がある。
  当社の勧請年月などは不詳であるが、由緒として鎌倉時代源氏2代将軍頼朝が将軍に任ぜられたことを記念に、当時赤城大明神を創建し銀杏の苗木2本を植えたという。この樹は現在では巨樹となり、昭和43年(1968年)11月に厚木市の天然記念物として指定されている。古くは社地も広く境内の馬場にて草競馬も行われたこともあり、旧字名に馬場と称する地名があった。そして現在地より南500m程に鳥居が建てられていたが、現在は鳥居がなくこの場所を「華表跡(鳥居の事)」といい、この字地を「鳥居戸」と称している。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると上依知村の鎮守は磯部村の「仏像院」持ちの「赤城社」で、末社に「稲荷社」があった。徳川幕府からは天正19年(1591年)11月に社領1石の御朱印地を賜り、明治4年(1871年)に上知されるまで続けられた。上依知村のこの他の神社・小祠には仏像院持ちの「神明社」・「社宮司社」・「御嶽社」・「山王社2社」、当麻村「明達院」と仏像院持ちの「弁天社」が記載されている。また、『皇国地誌』には「浮島吉備神社」が記載されている。
  当社は相模川畔に創建されたため、度重なる洪水の被害を受けており、特に寛文年間(1661〜1672年)には築堤も破られ、境内地の崩壊も甚だしく社地の大部分を失った。現在の社殿は寛保年代(1741〜1743年)に修復され、寛政2年(1790年)にも再建の記録があり、文政12年(1829年)3月には拝殿と覆殿の再建が記録されている。また、昭和38年(1963年)には本殿裏の土地に盛土社殿の一部を改築塗装した。当社の資料として棟札2枚程が所蔵されている。
  明治4年(1871年)8月に上地となり、次いで社地の払下げを得て明治6年(1873年)7月には村社に改められた。明治時代初期に「磐筒男いわづつお命」を祭神に祀り、明治22年(1887年)には旧社名を「依知神社」と正式に改称し、明治27年(1892年)に社号石標も依知神社と彫刻されたものが奉納された。近年に社地の中央を国道129号線が貫通したため、境内地の社殿と御神木の銀杏ならびに神楽殿とが分断されている。

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依知神社社号標
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鳥居手水舎
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燈籠燈籠
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狛犬狛犬
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拝殿覆殿・幣殿
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狹水神社正一位火防稲荷大明神
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由緒
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二十三夜塔石祠
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境内神楽殿 ふれあいホール
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神楽殿記念碑依知神社のイチョウ

依知神社はやし太鼓

  「依知神社はやし太鼓」は上依知地区の「依知はやし太鼓保存会」により伝承されている。明治末期まで盛んに行われていたが、後年途絶えてしまう。昭和57年(1982年)の依知神社の増改築に際して太鼓や鉦を揃え、町田市小山町に伝わる三ツ目囃子(神田囃子系)を伝習した。
  居囃子は「大太鼓1」・「締太鼓2」・「当り鉦1」・「笛」で構成され、「正殿」・「神田丸」・「屋台」・「四丁目」・「印旛」があり、「獅子」や「おかめ」・「ひょっとこ」の踊りを伴う。浮島神社春祭りや依知神社秋祭りなどで演奏される。



神輿

  かつて、毎年の祭典には大字金田まで神輿渡御が行われたという。



例大祭

  『風土記稿』によると祭日は9月19日であったが、その後は9月6日に改まった。近年は9月1日?に行われ、現在は9月初旬の日曜日に行われる。
  当日8時頃から準備が始まり、社殿の準備が総代8人程で行われ、神楽殿では夜の余興の準備が20人程で行われる。社殿では掃除・幟立て・祭壇と供物の準備などが行われる。神楽殿では舞台や花道の設営、テント張りが行われる。
  10時30分を過ぎると式の参列者が参集し始め、総代のほか自治会・老人会等の代表や地元市議・消防・囃子連・地元企業などで、拝殿に上がって椅子に座る。11時に神主(水島氏)が太鼓を叩いて式の開始を告げ、同時に花火が打ち上げられる。総代が挨拶を行うと神事に入り、降臨・祓い・祝詞奏上・玉串奉奠(全員)の一連の神事が行われる。
  その後、境内にある狭水神社の祭りを行うため参列者は狭水神社に列し、同じく一連の神事が行われる。玉串は代表者だけとなる。 2社の祭祀が終って社殿横に準備したテントの中で、下げてきた御神酒で乾杯し直会となる。
  夕方18時30分から、演芸一座などによる余興がある。



上依知の歴史

  旧上依知村は厚木市域の北部に位置し、村域は中津原台地と沖積地にある。台地面はほぼ平坦であるが、西側が高位の面、東側が低位の面で、東南寄りの一部に中位の面がある。村域のほぼ中央にはこれらを画する段丘崖がある。相模川が村域の北境から東境に大きく屈曲して南流している。ほぼ中央を八王子道が南北に貫き、南部で大山道が分岐して西に向かっている。周辺は、東側は猿ヶ島村と相模川を隔てて高座郡磯部村、南側は山際村、西側は下川入村と愛甲郡半縄村・同熊坂村(現愛川町)、北側は相模川を隔てて高座郡当麻村(現相模原市)に接している。
  中世の頃の上依知村に関しては、16世紀後半と思われる「北条幻庵朱印状」に「上依知」と記されている。近世初頭、天正19年(1591年)の「赤城神社への朱印状」には「中郡上依知郷」とある。旧集落は村域東側の低位の段丘面と相模川沿いの自然堤防上にある。『風土記稿』には小名として「男井戸(おいど)」・「細合」・「三家」・「番場」を載せ、現在では「上町」・「中町」・「下町」が一般的に使われている。東南の沖積平野一帯の耕地が水田で、西側の台地上が畑であった。
  近世の支配は幕府・旗本領等の2〜3給で、『風土記稿』によると幕末の戸数は147戸、『皇国地誌』によると明治初期の戸数は139戸であった。明治22年(1889年)に金田村・下依知村・中依知村・関口村・山際村・猿ヶ島村と合併して依知村大字上依知となり、昭和30年(1955年)の合併により厚木市大字上依知となる。昭和15年(1940年)に陸軍により上依知から中津にかけての台地上一帯が買収されて中津飛行場が造られたが、戦後は農地解放されて耕地整理が実施された。その後は昭和35年から40年にかけて県企業庁により工業団地が造成され、現在は内陸工業団地として多くの事業所が操業している。


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