神田祭(淡路町二丁目編)
神田神社(神田明神)
「神田神社」は神田・日本橋・秋葉原・大手・丸の内・江戸神社奉賛会(旧神田市場)・築地魚河岸会(築地魚市場)の108町会の総氏神で、一の宮として「大己貴命(通称だいこく様)」、二の宮として「少彦名命(通称えびす様)」、三の宮として「平将門(通称まさかど様)」を祀っている。当社は往昔は「神田ノ宮」と称し、祭神は大己貴(おおなむち)命であった。延慶2年(1309年)に平将門がこの宮に祀られると、このときはじめて「神田明神」と名付けられたという。少彦名(すくなひこな)命は明治7年(1874年)に合祀されたが、現在は大己貴命が第一座、第二座が少彦名命であり、平将門は相殿神となっている。明治時代に入り社名を神田明神から「神田神社」に改称している。
当社は近世になって明暦3年(1657年)、元禄16年(1703年)、大正12年(1923年)、昭和20年(1945年)の4回にわたって火災にあっており、詳しい社伝や宝物も残されていない。社伝によれば創建は人皇四十五代聖武天皇の天平2年(730年)とされ、出雲氏族で大己貴命の子孫である真神田氏(まかんだおみ)の一族により、武蔵国豊島郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に祀られたという。承平5年(935年)に平将門の乱を起こして敗死した平将門の首が京から持ち去られ、当社の近くに葬られると、将門の首塚は東国の平氏武将の崇敬を受けるようになったが、嘉元年間に疫病が流行するとこれが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)に当社の相殿神として祀られた。
徳川家康が慶長8年(1603年)に江戸幕府を開くと、同年に江戸城拡張を始めるにあたり神田明神はまず駿河台の地に仮遷座され、元和2年(1616年)4月に表鬼門守護の地となる現在の外神田へ遷座された。これ以降、江戸幕府により社殿が修復・再建されることが通例となり、神田明神は江戸時代を通じて「江戸総鎮守」と称され、代々の将軍および江戸庶民たちに至るまで多くの人々が崇敬する神社となった。
神田祭の歴史
神田祭は神田明神で行われる祭礼で、山王祭・深川祭と並んで江戸三大祭の一つとされている。江戸三大祭については「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様」と謳われたように、神田祭は元々は山車の多く出る祭りであったが、明治以降の路面電車開業や電信柱の敷設などが山車の通行に支障を来たすようになり、現在のような神輿渡御が中心の祭礼へと変化していった。
●神田祭の起源
社伝による神田明神の創建は天平2年(730年)としているが、当時の神田祭については記録がないため、どのような祭礼が行われていたかは不明である。江戸幕府開府以前の神田祭については『落穂集』という書物に記載がみられるが、毎年9月に行われていた祭礼には行列などが出された記述は見られず、秋の収穫祭のような祭礼が行われていたようである。
かつて神田明神では神田祭の一環として神事能が賑やかに行われ、神田明神の託宣によって始まったと伝えられている。当初は毎年9月16日に行われていたが、後に北条氏の綱の命で3年毎に行われるようになった。その後は宝生太夫や喜多十太夫が執り行い、町々からの出銀により興行が行われた。しかし、享保6年(1721年)に起こった神田永富町・三河町から出た火事により、能道具一式を納めていた倉庫と能舞台が焼失し、また宝生太夫らに出す謝礼金の高騰や町々の困窮により、享保5年(1720年)9月18日の神事能を最後に断絶している。
●江戸時代の神田祭(天下祭)
慶長5年(1600年)に天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、徳川家康のために神田明神で戦勝を祈願したところ、後に天下統一を果たした。勝利した9月15日は神田祭の日であったため、家康は神田祭を縁起のよい祭礼とし、以後、江戸幕府の公式年中行事として絶やすことなく執り行うように命じた。神田祭が現在のように盛大な祭礼になったのは江戸時代に入ってからだと考えられ、幕府と江戸の天下泰平を祈願し祝うことを目的に行われるようになった。
江戸時代の神田祭は神輿をはじめ氏子町々から出された山車や附祭(つけまつり)、幕府御用の御雇祭(おやといまつり)といった長蛇の祭礼行列が江戸城内・内郭内へ入り、徳川将軍や御台所(将軍婦人)が上覧し、大奥女中たちも見物したところから「天下祭」と呼ばれた。山車は氏子の各町々より三六番組四五本前後も出され、それぞれ町にちなんだ人形や飾りを頭頂部に据えた町の象徴であった。附祭は江戸時代に流行した文化芸能(能条瑠璃、歌舞伎、舞踊、音曲・草双紙や伝説など)を、多様に採り入れた踊台や底抜屋台、地走踊(じばしりおどり)、引物や仮装行列のことで、各氏子町で競い合って毎回趣向を凝らし衆目を魅了した行列であった。また、御雇祭は江戸幕府の経費負担により、祝芸・太神楽や放下芸・こま廻しの諸芸が出されたり、御台所・大奥女中が注文を出した好みの仮装行列なども出された。
元禄時代(1688〜1704年)を例にとると、神輿二社に一の宮には大己貴命を、二の宮には平親王(将門)の霊を遷し、多数の神職社家が従って発輦し、その前後に飾馬・長柄の列、人形山車、練物、附祭が続き、行列は数町に及んだ。行列は氏子の町々を巡って御仮屋に泊まり、晴天三日で御帰社したが、雨が降るとそれだけ帰社がのびたという。しかし、氏子が莫大な費用を負担したため毎年行うのは「大儀」であるとの御達しにより、やがて日吉山王社(現在の日枝神社)と隔年毎に祭りを行うようになった。江戸時代の神田祭は享保や寛政、天保の改革などにより附祭などの数が制限された時もあったが、定期的に2年に一度、慶応3年(1867年)まで行われた。
●明治時代の神田祭(都市祭礼へ)
明治時代に入ると神田祭は江戸幕府の公式年中行事から、皇室と東京守護の都市祭礼へと変化した。明治2年(1869年)より明治5年(1872年)まで毎年行われたが、それ以降は隔年で行われることとなった。明治以降、神田祭の山車は明治5年に35本、明治13年(1880年)に14本、そして明治期最大の神田祭といわれた明治17年(1884年)には46本、明治20年(1887年)に40本が出されるなど、江戸時代に負けない盛大な祭礼が行われたときもあった。
明治期は神田祭の形式が江戸時代の天下祭から、都市型の祭礼へ変化していく時代であった。明治5年(1872年)より錦蓋翳四本・五色旗、明治9年(1876年)より馬車が導入されるなど近代的な変化も見られた。明治22年(1889年)頃を境に不景気や蜘蛛の巣のように張り巡らされた電線などの影響から山車が出されなくなっていき、神輿の渡御と変化していく。巡行路も氏子区域全ての神輿渡御へと変更され、非常に細かな路地まで渡御が行われるようになると、祭礼の日程も2日間から3日間、4日間と増加した。
明治25年(1892年)より台風・疫病流行の時期を避けるため、祭日を5月15日に変更し、以降、今日まで5月に斎行されている。この変更は元和2年(1616年)の現社地への遷座が旧暦の4月、つまり新暦の5月であったことから、5月を神田祭の月としたのであった。
●大正・昭和戦前の神田祭(神輿渡御祭へ)
大正時代になると山車は姿を消し、神社の神輿が渡御する「神輿渡御祭」へと名称も変更された。渡御祭は数日かけて氏子町々を隈なく渡御する祭で、長い時には1週間もの日数をかけて渡御が行われた。大正8年(1919年)に2基の神輿を大鳳輦1基に改めたが、大正12年(1923年)の関東大震災により焼失し、たった一度の渡御しかしなかった。関東大震災後に幾度か渡御祭は延期されたが、昭和元年(1926年)に鳳輦が新調されて神田祭が復活し、昭和9年(1934年)には二の宮神輿も復興された。昭和17年(1942年)が戦前最後の神田祭となり、この時に鳳輦は牛が曳く形式へと変化した。
●昭和戦後の神田祭(神幸祭へ)
昭和27年(1952年)に一の宮鳳輦が復活し、戦後初の渡御祭が3日間行われ、氏子町会神輿の連合宮入が初めて行われた。次の昭和29年(1954年)には祭の名称を渡御祭から「神幸祭」に改めた。昭和33年(1958年)に江戸神社の神輿が新調されるなど、氏子町会の神輿も続々と新調されていった。昭和40年代に入ると自動車普及による交通事情の変化により、昭和43年(1968年)より神幸祭が2日間とされ、さらに昭和52年(1977年)より1日となっている。昭和50年(1975年)には三越より奉納の二の宮神輿が行列に加わり、昭和58年(1983年)には獅子頭山車が復活した。
昭和59年(1984年)に祭神へ正式に復座した平将門の乗せた神輿(小船町八雲神社神輿)が昭和60年(1985年)に加えられ、昭和62年(1987年)に三の宮鳳輦が新調された。以後も御神宝や威儀物、装束などが新調され、行列が整えられていった。
●平成の神田祭(附け祭復活へ)
平成2年(1990年)に江戸時代に一番山車をつとめた諌鼓山車が復活し、さらに平成に入ると附け祭が多く出されるようになる。平成15年(2003年)には東京藝術大学生制作の曳き物が初めて参加し、平成17年(2005年)に大鯨と要石、平成19年(2007年)に大江山凱陣曳き物・練物など、次々と附け祭が出された。平成17年には将門神輿(将門塚保存会大神輿)が復活し、大手・丸の内町会を渡御した後、神社に宮入した。
現行の行事内容 ※平成25年(2013年)
平成23年(2011年)に斎行予定であった神田祭は、3月11日の東日本大震災のために中止され、平成25年(2013年)は4年ぶりの神田祭となった。神田祭は6日に渡って斎行され、ここではその日程について紹介する。神田祭ではこれらの行事以外にも、和太鼓フェスティバルや神田囃子の奉納演奏、天下社中による長唄奉納演奏などのイベントが開催される。
●鳳輦神輿遷座祭 ※5月9日(木)19時
「鳳輦神輿遷座祭」は神田明神三柱の祭神(大国・えびす・将門)の御霊を、神幸祭に向けて三基の鳳輦・神輿へ遷座する神事で、神田祭はこの神事から始まる。神職は斎服・浄衣という白装束で遷座を奉仕し、明かりの消えた社殿で神霊が動座される。神職による警蹕の発声と雅楽の音色が響く中、絹垣に覆われた御霊が松明の明かりに導かれ、三基の鳳輦・神輿が安置されている奉安庫へ向うと、氏子や関係者が見守る中で神田明神の御霊が遷座される。
●氏子町会神輿御霊入れ ※5月10日(金)夕刻
「氏子町会神輿御霊入れ」は各町会での神輿渡御と神田明神への神輿宮入参拝に向けて、各町会が所有する神輿に神田明神の御霊を遷す行事である。この日の夕暮れ時になると各町会の神酒所・御仮屋において、揃いの浴衣・半纏を着た氏子町会の人々が参列するなか、神職により御霊入れが執行される。108町会にも及ぶ氏子の大小200基もの神輿に御霊を遷座し、神田・日本橋・秋葉原そして大手・丸の内の各地域が神田祭一色となる。
●神幸祭 ※5月11日(土)終日
「神幸祭」とは鳳輦神輿遷座祭で御霊を遷した三基の鳳輦・神輿が、氏子の町々を巡行する行事である。午前5時過ぎに神職・宮鍵講(みやかぎこう)そして御防講(おふせぎこう)の奉仕による「御鍵(みかぎ)渡しの儀」から神幸祭が始まり、この神事により宮鍵講員によって庫の扉が開かれると、鳳輦・神輿が境内正面に奉安される。
午前8時になると神幸祭の出発を告げる「発輦祭(はつれんさい)」が執り行われ、神職と氏子総代をはじめ祭典委員、鳶頭衆、日本伝統の装束姿をした供奉者ほか神幸祭へ奉仕する人々が参列する。神幸祭の無事を祈願すると鳶頭衆による木遣りの声を先頭に、三基の鳳輦・神輿、諫鼓山車をはじめとする1000名からなる大行列が、東京都心の氏子108町会の範囲約30kmもの長い道のりへ向けて出発する。途中、大手町にある神田明神旧蹟地・将門塚で「奉幣の儀(ほうへいのぎ)」、日本橋・両国旧御仮屋における「昼御饌(ひるみけ)」、各氏子総代による「献饌(けんせん)」などの神事を行いながら、氏子の人々が見守るなかで行列は巡行していく。
夕方16時過ぎに日本橋三越本店前で相馬野馬追騎馬武者行列や、東京藝大生による曳き物、氏子の子供達による大江山の鬼の首や大鯨と要石の曳き物といった「附け祭(つけまつり)」も加わり、行列は数千人規模に膨らんでいく。中央通り、秋葉原電気街を巡行した行列は夕刻19時過ぎに神田明神に戻ると、夕闇の境内で鳳輦・神輿を前に神幸祭行列が無事に氏子町々へ巡行したことの奉告と感謝の神事である「着輦祭」が執り行われ、木遣りにより神幸祭の締めとなる。
●神輿宮入 ※5月12日(日)終日
「神輿宮入」は神幸祭の翌日に行われる各町内の行事で、複数の町内毎に神輿連合が設立され、各地区を巡行するほか、それぞれの神輿連合で時間帯を決めて神田明神へ宮入参拝する行事である。実際は前日の神幸祭の19時から始まり、神輿宮入当日は9時から18時頃まで順次各町内の神輿が宮入りしていく。
●表千家家元奉仕献茶式 ※5月14日(火)10時
「献茶式」は表千家家元の奉仕による献茶の儀式で、昭和37年(1962年)に始まった行事である。
●明神能『幽玄の花』 ※5月14日(火)18時
江戸時代の初期に神田祭といえば神事能が主体の祭礼であったが、享保5年(1720年)9月18日の神事能を最後に断絶した。その由緒を踏まえて平成15年(2003年)より金剛流薪能として神事能を復活し、神田明神社殿前の特設舞台で演じられる。
●例大祭 ※5月15日(水)14時
「例大祭」は神田明神で執り行われる年間行事のなかでもっとも重要な神事で、隔年ではなく毎年5月15日固定で行われるが、5月15日が日曜日の場合には神輿宮入が優先され、例大祭の日程がずらされる。氏子総代と氏子108町会の代表者祭典委員、そして神田祭に奉仕した多くの者が参加するなか、衣冠装束姿の宮司をはじめ、全ての神職が奉仕する。例大祭では巫女による「明神胡蝶の舞」の奉納や、若山胤雄社中による里神楽も奉納される。
神輿宮入
神田明神の氏子範囲では複数の町会のまとまりである「連合」が設立されており、神田明神へ宮入する際には連合毎に時間を決めて、連合に所属する各町会が決められた時間枠内で順番に参拝する。平成25年(2013年)に行われた神輿宮入の時間帯は下記のとおりで、淡路町二丁目町会は中神田十三ヶ町連合に所属する。
時 間 | 町会名 | 神輿 | |
製作年 | 製作者 | ||
19 時 〜 | 富山町町会(神田駅東) | s30/1955 | 宮本 |
蛎一共和会(日本橋三) | s33/1958 | 宮本 | |
浜三東部町会(日本橋五) | s31/1956 | 宮本 | |
浜町一丁目町会(日本橋五) | s31/1956 | 後藤 | |
人形町二丁目三之部町会(日本橋三) | s60/1985 | 鈴木金吉 |
時 間 | 町会名 | 神輿 | |
製作年 | 製作者 | ||
9 時 〜 | 外神田地区連合 | ||
神臺会 | s35/1960 | 宮信 | |
神田五軒町町会 | s52/1977 | 宮本 | |
外神田五丁目栄町会 | s54/1979 | 村松錺師 | |
神田旅籠町会 | s33/1958 | 南部屋 | |
外神田三丁目末廣町会 | t15/1926 | 多"し鉄 | |
外神田四丁目田代会 | s35/1960 | 宮信 | |
外神田三丁目金澤会 | s36/1961 | 宮本 | |
外神田一丁目万世橋町会 | s35/1960 | 宮本 | |
宮本町会 | h21より宮入 | ||
神田同朋町会 | h8/1996 | 宮本 | |
外神田四丁目松富会 | s53/1978 | 宮本 | |
外神田五丁目元佐久町会 | s5/1930 | 宮惣 | |
10 時 30 分 | 室町一丁目会(日本橋一) | s13/1938 | 後藤 |
10 時 40 分 〜 | 岩本町・東神田地区連合 | ||
岩本町三丁目町会 | s28/1953 | 宮本 | |
神田松枝町会 | s13/1938 | 宮惣 | |
神田東紺町会 | s29/1954 | 村松錺師 | |
神田大和町会 | s12/1937 | 宮本 | |
岩本町一丁目町会 | s13/1938 | 浅子 | |
東神田豊島町会 | s32/1957 | 浅子 | |
12 時 〜 | 神田中央連合 | ||
錦連合(錦二・錦三・小川三南) ※神輿は錦二(上)と錦三(下)の2基 | s33/1958 s8/1933 | 宮本 宮惣 | |
神田猿楽町町会 | s8/1933 | 後藤 | |
神保町一丁目町会 | ― | ― | |
小川町(小川北一・北二・北三・三西) | s62/1987 | 宮本 | |
12 時 40 分 | 大手・丸の内町会 (将門塚保存会) | h17/2005 | 宮惣 |
13 時 〜 | 中神田十三ヶ町連合 | ||
司一町会 | s31/1956 | 宮本 | |
須田町中部町会(女神輿) | ― | ― | |
淡路町一丁目町会 | s40/1965 | 宮本 | |
須田町北部町会 | s16/1941 | 鹿野喜平 | |
内神田美土代町会 | s32/1957 | 宮本 | |
淡路町二丁目町会 | s521977 | 宮本 | |
内神田旭町町会 | s27/1952 | 宮本 | |
須田町一丁目南部町会 | s6/1931 | 宮惣 | |
神田鍛冶三会町会 | s37/1962 | 岡田屋 布施 | |
多町一丁目町会 | s25/1950 | 宮本 | |
内神田鎌倉町会 | s38/1963 | 宮本 | |
多町二丁目町会 | s54/1979 | 志布景彩 | |
司町二丁目町会 | s28/1953 | 宮本 | |
15 時 30 分 〜 | 神田駅東地区連合 | ||
北乗物町町会 | 獅子頭太鼓山車で宮入 | ||
鍛冶町一丁目町会 | s29/1954 | 宮惣 | |
鍛冶町二丁目町会 | s14/1939 | 宮惣 | |
紺屋町南町会 | s14/1939 | 宮惣 | |
神田須田町二丁目町会 | h25(2013) | 宮惣 | |
16 時 20 分 〜 | 秋葉原東部地区連合 | ||
神田佐久間町三丁目町会 | s32/1957 | 後藤 | |
神田佐久二平河町会 | s27/1952 | 後藤 | |
東神田三丁目町会 | h16/2004 | 落合美行 | |
神田佐久間町四丁目町会 | s32/1957 | 浅子 | |
神田和泉町町会 | s29(1954) | 宮本 | |
17 時 10 分 | 江戸神社奉賛会(旧神田市場) 江戸神社本社神輿 神田三天王一の宮 神田市場持神輿 | s33/1958 | 鹿野喜平 |
17 時 30 分 〜 | 東日本橋三丁目橘町会 ※日本橋四地区の一つ | s27/1952 | 不明 |
東日本橋二丁目町会 ※日本橋四地区の一つ | s35/1960 | 宮本 |
神田
地名が示すように神田は神領の田のあったところであり、多町(田町の佳称)や美土代町などの関連地名もある。神田という地名は他にも多いが、ここは特に伊勢神宮の御田(みた)という由緒ある土地である。神田からとれた米は神に捧げる聖米で庶民は口にしないことから、俗説に神田で和菓子屋をやっても成功しないというのもそこに由来する。
淡路町二丁目
江戸時代、この界隈は武家屋敷が立ち並ぶ地域で、古い絵図を見ていくと永井信濃守の屋敷が松平伊豆守の屋敷となり、のちに若狭小浜藩酒井家の上屋敷(藩主の邸宅)となった。明治5年(1872年)、ここに神田淡路町二丁目という名前が正式に付けられたが、町名の由来とされる淡路坂は、鈴木淡路守の屋敷があったことにちなんでいる。
神輿
かつての神田祭は山車が主体の祭りであり、現在のように神輿主体の祭りに変化していったのは明治以降のことである。江戸時代の神田祭では一の宮と二の宮の神輿が山車の間に挟まれる形で渡御しており、神輿は江戸幕府により新調されたり、修復されたりした。また、神輿の担ぎ手は南伝馬町と大伝馬町の人々、もしくは両町が手配した人足のみで、他の町の人々が担ぐことは許されなかった。担ぐ時は白丁姿で粛々と担ぐことが義務付けられていた。
淡路町二丁目町会の神輿は昭和52年(1977年)に宮本重義により製作されたものである。神輿の担ぎ棒は親棒2本と脇棒2本の計4本で、これと垂直に2本のトンボが箱台輪の前後に渡される。神輿を担ぐ際の掛け声は「セイヤー」・「ソイヤー」・「エイサー」など様々で、神酒所前や宮入時には神輿を差し上げる姿を目にすることができる。
淡路町二丁目町会の神輿 | 担ぎ棒は4本 |
随所に木彫が施されている | 蕨手に巻き付く銀の竜 |
大鳥の翼下にはあげ巻房 | 渡御中は外す瓔珞と風鈴 |
ワテラス内の神酒所(行在所) | 宮入時の神輿差し上げ |
神輿 掛声 |
---|
淡路町二丁目神酒所(出発8:30)
ここからは平成25年(2013年)5月12日に行われた神輿宮入の様子を紹介する。当日は淡路町二丁目町会の担ぎ手の他に、東京都の調布から「鬼枡」と八王子から「寿鳳会」、そして神奈川県の西湘から「いろは」の計三団体の担ぎ手が集り、終日神輿の渡御に参加する。
淡路町二丁目の神酒所は同年4月12日にオープンしたワテラスに設けられ、このワテラスはかつて淡路小学校や淡路公園があった場所を再開発した商業施設である。ちなみに明治8年(1875年)に開校した旧淡路小学校は、平成5年(1993年)に外神田地区の旧芳林小学校と統廃合して昌平小学校となっている。ワテラスは高さ約165m(地上41階・地下3階・塔屋1階)のワテラスタワーと高さ約65m(地上15階・地下2階・塔屋1階)のワテラスアネックスの2棟からなり、同時にオープンした御茶ノ水ソラシティーとは幽霊坂の上に架かっている連絡ブリッジで繋がっている。
ワテラスアネックスの最上階の14・15階にはワテラススチューデントハウスが設けられ、審査を通った学生のみが合計36戸に格安で入居できる。入居者の義務は地元の防災訓練への参加、地元の祭り、運動会、年末の火の用心の夜警のうちどれかに参加することで、地域活動への参加をポイント化し、年間12ポイントに満たない場合は1年毎の契約延長ができない(最長3年)。神田祭では入居している学生達が神輿担ぎのほかに、手古舞役や休憩所の設営などの仕事に奮闘した。
早朝5時の伊勢原駅 | 13分始発で新宿へ出発 |
6時40分に | 御茶ノ水駅へ到着 |
駅に貼られたポスター | 神輿関係者の姿も |
中央線沿いに東へ進むと | ホテルジュラク |
南へ向うと神輿関係者の姿が | こちらはワテラスの駐車場 |
中へ入ると | 秦野市から今年初参加の |
鶴巻若衆囃子会が | 移動式の囃子屋台を組み立て |
天井の高さが低いので | 通路側へ移動し |
屋根を乗せていく | 若衆囃子の赤幕の上に |
祝淡路町二丁目の横断幕 | 前方に花を垂らす |
締太鼓を締め | 屋台の枠へ設置 |
屋台の準備が終わると | 朝食をとります |
食事を終えると | 淡路町二丁目の半纏を纏い |
屋台を押して | 駐車場を出発 |
出入り口まで来ると | バーを手動で上げてもらい |
右折して | 幽霊坂を東へ進む |
外堀通りに突き当たると | ミスタードーナッツの角を右折 |
歩道を進み | ビルの門で右折 |
ワテラスのランドスケープには | 担ぎ手が大勢います |
奥へ進むと | 右手には町会の神輿 |
屋台を神酒所の前へ止める | 婦人部は朝食を提供 |
普段の取材と違い | 今回は凄く都会です |
こちらの女性陣は髪のセット | 神輿前では記念撮影 |
先導役はワテラス内の賃貸マンション | に住む学生達が務めます |
入居条件は町会活動への参加 | ベテランの町会員が指導 |
神輿を広場中央へ移動し | 出発前の点検 |
最初に町会長(祭典委員長)から | 挨拶 |
宮入渡御の諸注意を説明し | 一本締めで |
神輿を担ぎ上げ | 神酒所を出発 |
若衆囃子は囃子の演奏で | 神輿を見送ります |
若衆囃子は屋台を神酒所前へ | 10分ほど囃子を披露し |
屋台を戻すと | 神酒所で休憩 |
私は神輿の後を追い | 淡路町交差点まで来ると |
靖国通りに神輿の姿が | 追ってみると右手に神酒所 |
中には小川町の提灯 | 神輿は神田中央連合の |
小川町 | 非常に広い小川町交差点 |
小川町をあとにし、私は | 中神田の宮入渡御へ向う |
神酒所を出発した淡路町二丁目の神輿は出世不動通りへ向い、中神田の他の町会神輿と合流して神田明神へ宮入参拝する。このあとは連合神輿渡御へ。
神田囃子
●江戸祭り囃子の起源
現在の江戸祭り囃子の起源としては、享保年間(1716〜36年)に武州葛飾郡香取大明神(現在の葛西神社)の神官であった能勢環が創り上げたお囃子が近隣の若者達の間で大流行し、宝暦(1751〜64年)頃からは関東代官伊奈半左衛門の後援で毎年上手な者たちを天下祭りに送り込んだので、ますます近郊農村に広まっていったという話が『増補葛飾区史』下巻に載っており通説となっている。能勢環は神楽を演じる職にあって、神楽の囃子をもとに祭り囃子を考案したと想像される。一方、江戸中期に紀州(現在の和歌山県と三重県南部)の住人であった能勢環は修験道の行者として諸国遍歴の末、香取官の神官となり紀州の神楽を取り入れて祭り囃子を編み出したという話しもある。いずれにしろ、確かな文献の裏付けがあるわけではなく、葛西囃子伝承者たちの間で語り継がれてきた話である。
●葛西囃子と神田囃子
江戸天下祭りと称された春の山王祭と秋の神田祭には、地元江戸っ子の囃子連が山車に乗ったわけではなく、当時は江戸市中から離れた葛西の農家の若者たちが選ばれて山車に乗った。このことは江戸に限らず全国的な現象のようであるが、少なくとも関東一円では昭和30年代くらいまでは町場の祭礼には、周辺農村の囃子連が乗るのがごく一般的だったようである。農村人口の減少に伴い、徐々に祭礼当事者の氏子町内で囃子を担当するようになってきた。
葛西囃子を神田祭の地元の人たちも稽古し始め、神田囃子が誕生したといわれるが、葛西・神田が意識されるようになったのは戦後のことだという。神田囃子保存会によれば明治10年(1877年)当時は神田、葛西という区別はなく交流もあったが、昭和28年(1953年)に両囃子が東京都指定民俗文化財の指定を受けた頃から独自の道を歩むことになり、伝承者の好みを反映した個性が出てきたという。
●江戸祭り囃子の二大系統
五人編成の江戸祭り囃子の団体は400とも600ともいわれ、その系統分けは難しい。『祭礼囃子の由来』(河原源十郎、1895年)によれば、文化文政頃には品川など東海道筋や目黒・世田谷方面にも囃子が広まっており、これが今日の目黒囃子系統である。これら諸流派を全体のテンポにより葛西・神田流を大間、目黒流を中間と大別することもあるが、団体差や時代差もありテンポの違いは部外者には分かりにくい。また、江戸祭り囃子の特徴として組曲形式の「ひとっぱやし」で奏する場合が多いことがあげられ、串田紀代美は『東京都の祭囃子』の中で東京都の祭り囃子をひとっぱやしの曲目構成から、下町囃子の葛西・神田囃子系統と山の手囃子の目黒囃子系統におよそ二分できるとしている。いずれにしろ個々の団体のレパートリーは技量の差や伝承系統の交錯から、葛西・神田囃子系統と目黒囃子系統との区別を超えて様々な曲の出入りがある。
系統別分布の作成は団体の数の多さや伝承経路の複雑さから非常に困難であるが、串田論文によればおよそ次のようにいえる。葛西囃子系統は発祥地葛飾区と周辺の江戸川区・足立区などに多く、神田囃子系統は千代田区・中央区など都心部と青梅・昭島など多摩西部に、目黒囃子系統は目黒・世田谷・品川など城南方面および調布・府中など多摩東部に広がっている。
●曲目構成と特徴
葛西・神田囃子系統での基本曲の性格を簡単に記す。「屋台」は文字通り屋台や山車を曳くときの曲を意味していると思われ、いかにも祭り囃子らしい華やかな曲である。「昇殿」と「鎌倉」は大太鼓がゆったりしたテンポを保持し、とくに「鎌倉」では大小太鼓が繰り出す一六拍からなるリズム型に乗って、笛が静かな旋律を聴かせる。「四丁目」は締太鼓2人による激しい打ち合せを(玉入れ)を含み、テンポも段々と速くしてクライマックスにもっていき「屋台」に帰る。「屋台」・「昇殿」・「鎌倉」はそれぞれ笛の自由リズムのソロ「吹き出し」で始まり、「地」を数回繰り返して後に「トメ」・「上げ」などの結尾部で終わる。
江戸祭り囃子では長い道筋を山車に乗って囃していくことよりも、じっくり一ヶ所で囃子を聴いてもらうことを目的に、全体を急―緩―急の変化をつけた組曲仕立てにしてあり、葛西・神田囃子系統の「ひとっぱやし」の曲目構成は「屋台」・「昇殿」・「鎌倉」・「四丁目」・「屋台」となっている。「ひとっぱやし」の場合、まず締太鼓のソロの「打ち込み」に始まり、「屋台」・「昇殿」・「鎌倉」と続け、「鎌倉」の「上げ」からは音の切れ目なく「四丁目」の「序」に入る。「四丁目」では「地」に挟まれて二ヶ所の「玉入れ」があり、「先玉」でタテ締太鼓が、「後玉」ではワキ締太鼓がそれぞれ「玉の地」を奏し、相手の「地」の手と共演する。最後の「屋台」では吹き出しは省き、いきなり「屋台頭」から入ってあっさりと「トメ」・「本上げ」で終える。
祭礼での山車巡行に際しては必ずしも上記の順番にはこだわらず、里神楽からの「にんば」など比較的やさしい曲を長時間演奏することもある。なお、「ひとっぱやし」の制定に関しては、神田祭では古くから様々な種類の囃子が演奏されていたが、明治10年(1877年)に当時の名人達が集って現在の「素囃子」の組み合わせを決めたという神田囃子保存会の伝承があり、組曲形式は明治以前からようであるが、記録文書が少なく伝承者のいい伝えに頼らざるを得ない。
上記以外の曲は「間物」と呼び、変化をつけたい時に「ひとっぱやし」の間に挟んで演奏する。神田囃子系統の間物としては「神田丸」・「亀戸」・「偕殿(かいでん)」・「夏祭」・「間波昇殿(まなみしょうでん)」・「きりん」などがあり、うち「きりん」は神田祭や山王祭などの鳳輦渡御につく曲である。また、もともと器楽演奏だけで完結しているはずの都心の祭り囃子であるが、山車の上よりも神楽殿やステージで演奏することが多いことから、舞台を華やかにするために獅子舞やひょっとこ踊りを添える団体が多い。神田囃子系統でも寿獅子舞という獅子の一人舞を持っている団体があるが、これは獅子の細かな仕草を見せる太神楽から取り入れた芸能である。
神田 囃子 |
---|
江戸型人形山車
「山車」という語はもともと東京方言で、天下祭りといわれた江戸山王権現と神田明神の祭りなどで、鉾頭の飾り物を指した「出し」の呼称が、江戸型山車の完成とともに次第に全体の呼称となり、「山車」と表記したことから広がったものである。江戸型山車が完成に至る前には、一本の裸の柱の先に出しが載る形態、その柱の周りに幕が掛けられる形態、その幕が櫓状の建造物に変化した形態という、段階的な変遷の痕が認められる。櫓状の建造物はついには昇降式の三層の屋形へ発展するが、そうなると柱は構造的に不要になり、最後には肝心の柱すなわち鉾も消滅した。
祭囃子の五人編成が固まってきたのは江戸・川越・鎌倉の絵画資料から天保期(1830〜44年)頃と思われ、江戸型人形山車の出現とほぼ期を同じくしている。当時の山車の形は両天下祭りの先頭を行く笠鉾のほかには、静岡県横須賀三熊野祭りに現在出ているような万燈型が主体であったが、徐々に恒久的建築物である江戸型人形山車が多くなり、明治初期にはこちらが東京の山車の標準型となった。そしてこの山車の前面、外からも一番目立つ場所が囃子連中の演奏の場になったのである。安政4年(1857年)の神田祭と翌5年(1858年)の山王祭の祭礼図を見ると、万燈型・江戸型人形山車とを問わず、前面左に大太鼓1個、その右に締太鼓2個が並び、後ろに笛と鉦が各1人立つという五人編成が出揃っている。神田祭36台、山王祭45台の山車は大型し、人形も華やかに彩られてきた。
神田祭では山車が江戸の町を埋め尽くすほどの行列をつくり、神田の町々が自分達の町のシンボルとした人形や飾りを乗せた山車は、どれも8メートルを超えるものであったという。しかしながら、幕末の世情不安定に加え安政の大地震が重なり、ついに幕府の崩壊とともに江戸の町々の活力も衰退、明治10年(1877年)代に一部復活があったものの、明治維新と共に多くの山車が解体あるいは地方へ流出し、再び大行列を見ることはなかった。さらに残った山車も関東大震災や戦争の被害を受け、殆どの山車がなくなった。現在の神田祭では神社境内の神楽殿や町ごとの会所などで演奏する場合が一般的で、行列に付くときには先頭に1台囃子専用車を、あるいは太鼓を設置した簡単な屋台を曳きながら鉦と笛が付き添う形が良く見られる。
軽トラックの荷台に載せた櫓 | 太鼓は上下の竹に結び付ける |
後方には鏡板 | 神田囃子保存会の演奏 |
移動式の囃子屋台 | 屋台で太鼓を叩き |
後方には笛と | 鉦が付き添う |
かつて神田祭で使用されていた山車は現在残されていないが、神田祭で使用された神武天皇人形と熊坂長範人形、翁人形の面が神田明神に残され、飛騨匠人形の頭が比々谷文化図書館に所蔵されている。また、江戸から地方に流出した山車の中には、現在でも祭礼で使われているものが存在している。
現在、神田地区に存在する江戸型人形山車は昭和30年(1955年)に製作された「加茂能人形山車」の一台のみで、明治15年(1882年)頃に三代目原舟月が製作した十分の一大の精巧な模型が継承されていて、これを元に魚河岸会によって復元製作されたものである。かつての江戸天下祭において加茂能人形山車は日本橋魚岸を構成していた室町三町分・本船町・安針町・本町裏河岸持ちで、十八番に番付けされていたが、先代の山車は震災で失われている。江戸型の山車は城門を通過するために高さを調整する稼動構造が特色で、加茂能人形山車も上段の人形部分、中断の四方幕、下段の見送り幕部分の三層構造で、上・中段が下段に収納できるようになっている。
江戸型の加茂能人形山車 | 台車から出た長柄 |
三段目の見送り幕 | 正面では囃子方が演奏 |
基本構造は一軸二輪の台車に二層の囲い、人形は能楽「加茂」の後シテ、別雷神(ワケイカズチノカミ)で、赤頭に唐冠、大飛出の面をつける。衣装は紺地に金丸龍模様の狩衣、赤地に稲光電紋模様の半切で、右手には御幣を持っている。四方幕は四面とも緋羅紗に加茂の競べ馬の騎馬人形と楓が配され、下段の見送り幕は加茂の流水に青金二葉葵が、いずれも刺繍で織り出されてている。台車から出た長柄には牛が入って山車を曳けるようになっている。
淡路町二丁目神酒所(到着15:20)
神田明神で宮入参拝を終えた神輿は本郷通りを通って淡路町二丁目へ向い、神酒所で輿をおろすと食事休憩となる。
宮出した神輿は国道17号線を | 横断して本郷通りを南下 |
湯島聖堂の西側を | 練り歩くと |
聖橋に差し掛かる | かなりの高さです |
聖橋を | 渡ると |
聖橋交差点を直進し | 本郷通りを突き進む |
奥にはシンボルタワーのワテラスが | 一行は道沿いに右折し |
坂を下ると | 直ぐに左折 |
東へ進むと | 左手にはワテラスタワー |
新坂を | 下り |
ワテラスの南側を | 神輿は進んでいく |
淡路町二丁目の交差点前で | 神輿は左折して |
ワテラスの | 敷地内へ入っていく |
そのまま神酒所へ向かい | 芯出しの準備 |
ここでは直ぐに拍子木を打ち | 輿をおろして一本締め |
神輿をその場で旋回させ | 正面を道路側へ向けて |
馬の上に下ろし | 神輿を点検 |
担ぎ手は移動して | 弁当と飲み物を貰い |
町内渡御に向けて | 腹ごしらえ |
町内渡御(出発16:30、到着17:40)
1時間ほど休憩を取ると神輿は再び神酒所を出発し、今度は淡路町二丁目町会の範囲を渡御する。神田明神の氏子地域は非常に多くの町会に別れており、各町会の地区範囲は非常に狭くなっている。淡路町二丁目町会の町内渡御はホテルジュラクでの休憩を含め一時間程と短く、再び神酒所へ戻り4年ぶりの神輿渡御を終えた。
平成25年(2013年)は神輿の応援団体の一つである「いろは」の関係で、秦野市にある鶴巻若衆囃子会が初めて神田祭に参加した。持参した太鼓を移動式の屋台に備え付け、笛と鉦を入れた五人囃子の演奏に合わせ、オカメとヒョットコ、獅子舞の踊りを入れて淡路町二丁目町会の神輿渡御を盛り上げた。
食事休憩を終えると一本締めて | 神酒所を出発 |
鶴巻若衆囃子会は | 囃子で出発を盛り上げる |
獅子が登場し | 敷地内を暴れます |
神酒所での演奏を終えると | 屋台を移動し |
神輿の休憩場所となる | ホテルジュラクへ向う |
横断歩道を渡って | 幽霊坂へ入ると |
ワテラスを西側から回ってきた | 神輿と合流 |
ホテルジュラクの西側を練り歩く | 若衆は敷地内に屋台を入れ |
囃子で | 町内渡御を盛り上げる |
神輿は突き当たりを | 右折し |
正面玄関前で芯を出して | 輿をおろします |
ホテルの美味しいお酒に | 担ぎ手の皆さんは舌鼓 |
若衆囃子は休憩中も | 踊りを入れて盛り上げる |
最後に支配人より挨拶があり | 15分程で休憩を終え一本締め |
神田囃子とは違い | 甲高い太鼓です |
お囃子の鳴り響く中 | 神輿はホテルジュラクを出発 |
バックで道路に出ると | 来た道を引き返す |
獅子舞は怖いかな | 奥は総武線と中央線です |
神輿は左折して | 神酒所へ向います |
若衆囃子は演奏を止め | ホテルジュラクの |
東側から | 移動し |
神酒所へ先回り | 神輿は幽霊坂を |
練り歩き | 外堀通りに突き当たると |
右折して | 南へ進む |
囃子が奏でられる中 | 神輿はワテラスの敷地内へ入り |
時計方向に | 練り歩く |
神酒所前の囃子屋台 | 名残惜しいですが |
4年ぶりの町内渡御も | 終わりが近づいてきます |
神輿は | 神酒所へ向かい |
最後の芯出しが | 始まります |
迫る神輿を | 後退させ |
二度目の | 芯出し |
神輿を盛り上げる若衆囃子 | 押し寄せる神輿を |
再び | 退け |
三度目の | 芯出しで |
神輿を | 差し上げる |
担ぎ手は | 神輿を肩に担ぎ |
一旦後退し再び | 前進すると拍子木が打たれ |
神輿を下ろして一本締め | 拍手が沸き起こります |
町会長から | 挨拶があり |
最後の締めで | 神輿渡御は無事に幕を閉じる |
神輿を神酒所へ納め | 渡御中に外していた |
瓔珞と風鈴を吊るし | 轅を外していきます |
戻る(その他祭礼)