三廻部みくるべ

住吉神社

  住吉神社の祭神は上筒男命(かみづつのおのみこと)・中筒男命(なかづつのおのみこと)・底筒男命(そこづつのおのみこと)で、境内社には風の神(石造り一基)がある。
  創始年代は不詳であるが、『新編相模国風土記稿』に「住吉社、村の鎮守なり 例祭9月17日、村民持」とある。明治中期に上秦野神社に合祀したが、終戦後の昭和22年11月3日に地域住民の要望により、旧住吉神社に御分霊を分祀し、独立祭事を行うようになった。

住吉神社鳥居
燈籠
拝殿本殿・幣殿
境内
三廻部自治会館

  

太鼓

  



神輿

  神輿三



三廻部の歴史

  三廻部という地名の起因について『風土記稿』では「昔、村内に釈迦の霊像あり、即釈迦牟尼仏と書してミクルベと訓ずるゆえ村名となれりという」とあり、また「慶長頃の印本に釈迦牟尼仏と書し、ミクルベと傍訓を附す」とあることから、村名も古くは釈迦牟尼仏の文字を書いたのであろうと記している。また、鎌倉浄光明寺の延徳元年(1489年)の文書には、寺領として三久留部の文字があるとも記している。起名因については別の説として仏様を如来というから、この如来をニクルと呼んだのが地名になったとするものもある。
  永禄元年(1558年)頃にここの金堀沢という所から砂金が見つかり、一時は鉱夫等が集って土着する者数百戸というから、当時としては大した人口となった。砂金のとれた場所は中山峠の近くで、これに続く唐沢はもとは金沢といったとのことである。『風土記稿』にある当時の小名は「上ノ庭」・「南ノ庭」・「北ノ庭」・「イサイの庭」・「カラ沢庭」であり、天保5年(1834年)の戸数は37であった。

●三廻部の地名伝説
  祭典のときに神輿を担いで村内を廻るが、山峡の土地とて住吉社、観音堂、稲荷社の三つを廻っているうちに夜が明けてしまったことから三廻部になったという。また、三廻部には源頼朝の墓があることから、腰巻や赤坂という地名にもこれに関連付けた笑い話がある。頼朝の妻政子が安産祈願のために村のお宮参りを三回したが、三回目が夜の明ける頃の坂道で腰紐がずり落ちてしまった。これがやがて村人に知れ、腰紐の落ちた所が腰巻、明ける頃の坂道が赤坂になったという。


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