山北道祖神祭やまきたどうそじんさい
(宮万庭編)

宮万(みやばん)庭について

  宮地と万随(ばんずい)が合同で道祖神祭に関わっているので「宮万」と呼んでいるが、いつ頃から合同で行う様になったかは不明である。万随庭に関してはかつて万随庭に属していた家が区画整理の為に清水庭になった例もあり、万随庭は庭の範囲が分かり難くなっている。
  道祖神は「サイノカミ」と呼び、子供の神とはニワ(庭)を守ってくれる神だと意識されている。また、辻にあることから厄をしょってくれる、悪いものをもっていってくれるという。なお、道祖神は男の神とか女の髪とはいわない。道祖神は守り神ということから、病気平癒を願った人もいる。かつては「言うことを聞け」といって道祖神を縄でぐるぐる巻いてから叩いたりした。子供が生まれたときや七歳の祝いのときにその子供の名前を入れた提灯を奉納する。正月14日には蕎麦と団子を備える。万随庭の道祖神は現在は青木医院の前に位置するが、かつてはその上手にあった。
  宮地と万随が合同で行う行事は道祖神祭だけであり、万随庭が庭単位で行うのは神社の祭り・稲荷講・観音講などである。宮地では秋葉さんを祀っている。ニッキマチは別々に行う。宮地と万随とにそれぞれ祭りの幟がある。
  道祖神の祭りに加わるのは小学生で、高等科(現在の中学校)2年生が親方になり、ガキ大将とも呼んだ。男の子だけであるが、屋台を曳く際には女の子も参加する。加入するのに何かしらの儀式はない。昭和7,8年頃までは現在の加藤理髪店のところに松永新司さん宅があり、ちょうど屋台小屋の反対側であった。庭の範囲が広く、屋台が終わって直ぐに食事が取れて便利だということから、この家を屋台の宿としていた。万随には箕(み)や笊(ざる)作りの為に、地中を掘って上に丸太を組んで藁を葺いたモロ(室)があり、子供たちはそれを借りて宿とする場合もあった。



昭和庭

  現在の万随5・6組は昭和50年(1975年)頃から宮万(宮地・万随)に加わっているが、それ以前は独立して道祖神の祭りを行ってきた。かつて当地は東に池があり、南に田が広がり、北は線路に面していて、15軒ほどの一つのまとまった集落であった。昭和庭で行うものは道祖神の祭りだけで、冠婚葬祭は組単位で行う。この庭の名称からいって、昭和にできた庭であると考えれれる。道祖神はかつて堀口宅前の道の角にあったが、現在はわかば保育園前にある。
  祭りに係わるのは小学校1年から6年生までで、男だけである。正月があけると山に木を取りに行き、どこでとってもよい。この木は道祖神の前に適当な空き地がないので沢に持って行く。なお、現在沢はなく、道路になっている。
  七草が終わると沢に取ってきた気で小屋を作る。小さな庭で子供の人数が少ないため大人も手伝う。箱型で広さは三畳、高さは2mほどである。木を柱にして筵と枝で覆う。正面中央に入口を設け、筵を吊るしておく。中に道祖神を納め、太鼓を叩いたり、貰った菓子や餅を食べたりする。大太鼓1、小太鼓2を毎晩叩く。どの家の人も菓子などをくれたもので、これは多分に「ヤマセ、ヤマセ」と言われないためであった。なお、正月のお飾りは道祖神に納められる。
  毎年のように近くの梶山の子供たちが小屋を壊しに来る。人数が少ないので青年に加勢して貰い、稲の切り株を泥のついたまま投げて応戦する。小さな庭だけにまとまりがあった。幟・アクマッパライ・札配りはない。
  屋台はないが14日に樽神輿を担いだ。大人たちが酒の一升樽を用いて毎年作り替えてくれた。このことがよい思い出となって残っている。同じく14日に沢でセエトバライをした。オンベは立てず、松飾りや小屋を壊してそれらを円錐形に積み上げて、それに点火する。団子を焼き、この団子を食べると風邪をひかないという。書初めを燃やし、高く上がると上達するという。このとき、樽神輿を燃やす。道祖神は焼かない。団子の交換はなく、燃え残りは持ち帰らない。
  小学校6年生が頭で、その子の家がヤドとなって会食し、そのあとで遊ぶ。これをザンバライという。現在は宮万に加わって祭りに参加している。

花車

  宮万の花車(屋台)は昭和5年(1930年)頃に彫物師の小野氏に依頼して制作された。それ以前に宮万には花車はなく、清水庭には花車があって、子供たちがかわいそうだということから作ることになったという。屋台小屋は室生神社にある。なお、現在は宮万庭に加わっている昭和庭では、かつて樽神輿が担がれて地区内を巡行したという。



準備

  正月4日の初山の日に子供たちは家々で正月の飾りを外すのに合わせて門松を集めて廻る。また炭俵の縄や筵(むしろ)も貰って歩く。また、7日には外飾りを外す家もあるので、外飾りを集める。道祖神は神仏に上げたものなどを納める場所だと認識されている。ちなみに正月の内飾りは14日に取り外し、セエトバライに持って行って燃やす。
  戦前までは4日に門松と炭俵を箱型にした小屋を作り、柱には大掃除に使ったススダケを用いて、道祖神は中に入れた。ムロを借りてそこを宿にする場合もあり、この中で太鼓を叩いたり、屋台に飾るハナ(花)を作ったりした。また、皆で清水庭の小屋を壊しに行ったりし、逆に小屋を壊されるとやり返しに行った。小屋の中では火を焚かなかったが、ムロの場合は木炭を焚いて暖を取ったときもあった。この小屋は14日の団子焼きの日に壊して焼いた。
  同じく4日または7日にはオンベを道祖神の近くの道端に立てる。所有者の許可を得て山から竹を1本取って来て、上から三分の一ほどの高さに2本の竹を繋いだものを十字になるように結び付け、その両端を上部から垂らした縄で張って弓矢の形にする。その十字部分には表にヒョットコ、裏にオカメのお面を付ける。四方より縄を張って倒れないようにする。この縄には「天下泰平」などと書いた紙の飾りを付ける。オンベには竹を立てて先端に弓矢を東に向けて付け、上から三分の一ほどの高さにオカメの面と扇を付けるといった形式もある。
  各戸への寄付集めは青年団の人たちと一緒に廻った。各家では寄付をしないと子供たちが道祖神を持ってきて「ヤマセ(病ませ)、ヤマセ」というので、必ず寄付をした。



団子焼き(オンベ焼き)

  14日の夕方に道祖神の近くで団子焼きが行われるが、オンベを焼くのでオンベ焼きともいう。点火は秋葉さんが火の神であることに因み、秋葉さんの役員が行う。太鼓を叩いて点火したことを皆に知らせる。10日頃にに山から取ってきた樫の木に団子を指して焼き、この団子を食べると風邪を引かないという。団子の交換はしない。正月に書いて神棚に張り付けてあった書初めを持ってきて火の中に入れ、高く上がると字が上達するという。また、古くなった臼や家の飾りもこの時に燃やす。



前夜祭(宵宮)

  花車は宮地と万随からそれぞれから道祖神の世話人を2名ずつ出し、計4人の世話人を中心にして準備が行われる。マンドウ(万灯)は主に画廊店の主人が作り、14日の夕方に庭廻りをする。宿で役員の奥さんや近所の人たちが手伝ってむすびを作り、屋台曳きが終わると参加した人たちに出す。



  15日に子供たちは宿に集まり、むすびを貰ったり菓子を分けたりする。15日が過ぎると今度は大人たち集まってむすびを食べたり酒を飲んだりする。現在は室生神社の社務所で行っている。



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