中依知なかえち

神社の紹介

  「浅間神社」の創建を当社の縁起によって述べる。その昔に相模川が氾濫し農地一体が水中に没したが、濁水の中から流れ着いた一体の仏像があった。この仏像を拾い上げてみると阿弥陀如来の像であって、その胎内にはなにか密仏が納められており、部落の人々はこの仏像のために早急にお堂を建てて安置した。その後、宝治元年(1247年)6月1日に村人の霊夢の中で中依知と下依知の土地に時ならぬ大雪が降り、これが五穀の害を除く仏像の霊験であるとされた。それから年月は過ぎて宝治年間(1247〜1248年)となって6月に雪が降り、中依知と下依知一帯は銀世界となった。白一色に包まれた大雪に村人達はこの仏像の霊験を深く信じて尊敬を深め、早急に現社地に新たな社殿を建て、更に参道を作り入口の下依知の地に鳥居を建てた。氏子には中依知と下依知の両部落住民がなったが、例祭は6月1日として両部落が隔年に実施することになっている。
  当社の祭神は6月の大暑に降雪を見るのは富士山より他にないとして「木花咲那姫尊」を勧請し、併せて水中より発見した密仏の像と共に合祀し、五穀豊饒を御祈して社名を「富士ノ宮」と称した。江戸時代の旧称は「浅間社」で御神体は秘封とされ、本殿両脇に「赤城社」と「熊野社」を配祀した。天承19年(1591年)11月に江戸徳川氏より当社に対して高畑1石の御朱印池を賜り、明治初年に上知されるまで続けられた。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると中・下依知村の鎮守を「浅間社」とし、別当は「安龍寺」で、末社に「稲荷社」・「金毘羅社」・「秋葉社」があった。中依知村のこの他の神社・小祠には安龍寺持ちの「天神社」・「山王社」・「御嶽社」が記載されている。
  安永元年(1772年)?の火災にて御神体と銅鐘は無事であったが、その他社殿宝物古文書に至るまで悉く消失した。翌年の安永2年(1773年)?に仮社殿を造り御神体を安置し、その後は現社殿の造営に取り掛かり、安政元年(1854年)に完成して御遷座した。本殿(間口2間半、奥行1間半程)は木造入母屋造千鳥破風にて屋根は亜鉛板葺きで、本殿より幣殿を経て拝殿(間口3間半、奥行4間)がある。社内の内宮(間口奥行共に1間4方)は文化15年(1818年)4月の建立で木造流造の板葺きで、内宮と共に相殿として「赤城社」と「熊野社」が祀られている。古く江戸末期頃迄は当神社の別当として当社地に隣接していた「東泉山安竜寺」の支配下にあり、当社内宮の中一面に経文が記されているが、これは別当安竜寺13世住職の雲和尚が開創当時に謹書したと伝えられている。また、下依知からの参道入口にある石鳥居は文化2年(1805年)の銘文で、天保11年(1840年)の石造水鉢も1個ある
  明治初年には社名を現在の「浅間神社」と改めると共に、例祭は9月19日施行とした。明治8年(1875年)5月には鐘堂が建てられ、天井には竜の画が描かれており、建物は近年修理の手が加えられた。鐘堂には神奈川県の重要文化財に指定された貞和6年(1350年)3月に完鋳された銅鐘が掛けられており、子鮎地区飯山に住した鋳工師「清原宗広」の作で最初は鎌倉の「大楽寺」に掛けられていたが、追銘により長禄3年(1459年)に当社の法器となったことがわかる。明治24年(1891年)9月には木造切妻型亜鉛板葺の神楽殿(間口3間半、奥行3間半程)が建立された。社殿の正面には明治33年(1900年)に奉納された俳句や、明治38年(1905年)9月と銘記されている当所藤野氏奉納の額「富士浅間社」があり、この他にも古く奉納された絵馬数点が掲げられている。明治42年(1909年)には石灯篭1対が、明治43年には石造水鉢が1個が奉納され、境内入り口には大正9年建立の社号標「浅間神社」がある。
  昭和7年(1932年)に石造狛犬が1対、昭和10年(1935年)には石灯篭1対が奉納された。また、末社として中依知附落持ちの「蚕影社」があり、他に石祠として道祖神像2基と庚申塔1基がある。当社の史料として内殿内部の記録や棟札が保管されている。

2008.8.232008.8.23
浅間神社参道
2008.8.232008.8.23
狛犬狛犬
2008.8.232008.8.23
社号柱燈籠
2008.8.232008.8.23
拝殿本殿・幣殿
2008.8.232008.8.23
末社
2008.8.232008.8.23
水鉢
2008.8.232008.8.23
神楽殿鐘堂
2008.8.232008.8.23
境内
2008.8.232008.8.23
厚木市立 中依知児童館

囃子

  



神輿

  



例大祭

  昭和50年(1975年)頃までは10月9日にやっていた。神社崇敬の念を高め、中依知と下依知の自治会員相互の支援を深める。
  氏子総代は中依知と下依知より各3人選任され、任期中は毎年担当し、自治会は一年交代で祭典実行委員を組織して実施する。
  準備は宮殿と舞台の掃除、買い物、子供太鼓連の舞台飾り付けを行う。式典当日は10時までに宮殿内の準備をし、10時より式典が始まり、宮司、氏子総代、自治会長、祭典実行委員長が参加する。祝詞奏上、玉串奉奠、退任氏子総代に感謝状贈呈、神酒乾盃、年番の氏子総代挨拶、同自治会長挨拶、退任氏子代表の挨拶。
  翌日は19時までに舞台と境内の飾り付け、余興奉納用緒準備を行う。19時より余興奉納が行われ、21時に終了する。また、露店は7件ほど出る。



中依知の歴史

  旧中依知村は厚木市域の北東部に位置し、村域は中津原台地にあり、台地東縁・西縁の段丘崖下は沖積地である。概して平坦な土地で占められているが、中程に小段丘があって一段高くなっている。東境には相模川、西境には中津川が流れている。村域西側を八王子道が南北に貫き、南部で西縁に沿う信玄道が分岐している。周辺は、東側は相模川を隔てて高座郡新田宿村(現海老名市)、南側は下依知村、西側は中津川を隔てて三田村、北側は関口村に接している。
  中世には依知郷に含まれ、天正19年(1591年)の「浅間神社への朱印状写」に「相州中郡中依智郷」と記されている。中依知村の鎮守である浅間神社の鐘はもとは鎌倉大楽寺のもので、貞和6年(1350年)に造られ長禄3年(1459年)に当村のものとなった。長禄3年の追銘には「依知郷中村」と刻されている。『風土記稿』の上依知村の項に「上中下三村に分ちし年代詳ならざれど中依智村浅間神社観応元年の鐘銘に、依智郷中村と勒したれば其頃既に分村せし事織べし」とあるが、この追銘を観応元年(貞和6年)のものとする記述は誤りであり、「中村」をもって分村したと認識するには慎重な検討を要すると考えられる。
  旧集落は台地東縁の段丘沿いと信玄道沿いにあり、台地東縁に「カミヤ」・「ナカムラ」・「シモヤ」の3集落が、信玄道沿いに「コガ」・「ハラ」の2集落がある。民俗調査(講)では信玄道沿いの2集落を「ウエムラ」、台地東縁の3集落を「シタムラ」と総称すると報告されている。『風土記稿』では小名として「中久保」・「中島」・「古河」・「梨子木」・「天神」を載せている。なお、台地東縁の段丘崖中腹に井戸の跡があることから、かつてはそこにも屋敷地があったと伝えている。近世期は水田は川欠により度々耕作不能になっていたようで、明治初期も税地のうちに水田はなかった。大正10年頃に段丘下の相模川沖積地で耕作整理が行われ水田となった。
  近世の支配は幕府・旗本領の2〜3給で、『風土記稿』によると幕末の戸数は31戸、『皇国地誌』明治初期の戸数は38戸であった。明治22年(1889年)に金田村・下依知村・関口村・山際村・上依知村・猿ヶ島村と合併して依知村大字中依知となり、昭和30年(1955年)の合併により厚木市大字中依知となる。


戻る(厚木市の祭礼)