中沢なかざわ

三嶋神社

 

三嶋神社庚申塔
石碑石碑
鳥居広場
中沢自治会館石階段
燈籠水鉢
狛犬狛犬
社殿(拝殿)覆殿(本殿)・幣殿
神額
水鉢


飯縄大権現

 

飯縄大権現石階段
石造物石造物
水鉢権現堂屋根替修理
権現堂幣殿・覆殿(本殿)
天狗天狗
津久井の名木 スダジイ
境内境内からの眺め

囃子

 中沢地区では首長囃子が消滅して90余年の間は囃子がなかったが、昭和63年(1988年)に中沢自治会傘下の団体として出発し、翌平成元年(1989年)4月に「中澤囃子連」が結成された。同年5〜6月に隣地区の都畑囃子連より指導を受け、都畑囃子連の師匠筋にあたる町田市無形文化財である大戸囃子保存会の踏襲する神田流下町囃子である「大戸囃子」の伝授を受けた。同年には宝くじ助成金にて山車と備品を整備し、さらに平成3年(1991)年には中沢地区の住民の寄付により太鼓や衣装などを揃えた。
 上述のように、中澤囃子連の囃子の流派は「神田流下町囃子(かんだしたまちはやし)」で、演奏する曲目は「打込(ブッコミ)」・「屋台(ヤタイ)」・「昇殿(ショウデン)」・「印播(インバ)/子守唄」・「四丁目(シチョウメ)」・「車切(シャギリ)」である。演奏は打込で開始して車切で終了するが、途中は自由に演奏する。



柳川長吉と木上家

 木上家と柳川長吉との付き合いは、庄右衛門が三沢村村長時代の明治25,26年(1892,93年)頃に、祭り囃子の師として長吉を招いた時からだと考えられる。その目的等について文献等は残っていないが、庄右衛門は根っからの芸事好きで自らも義太夫の師であり、竹本らん鵬として名取であった程で、地元中沢や近郊に教え歩いたという言い伝えがある。
 明治中期の農村地帯の生活水準は豊かではなく、村人の趣味や遊びも多くなく、遊びと言えば酒やバクチといったことに夢中になるような殺伐とした世相であったようである。庄右衛門は若い衆を芸事の義太夫に気を引かせようとして習わせることを試みたようであったが、旧幕府時代に盛んであった義太夫は上方風でゆっくりとした曲調でテンポも遅いことから、若い衆は目も向けなかったようである。どうしたらよいものかと思案していた頃に、近郊で流行し始めたお囃子を中沢の三嶋神社の祭礼に導入して、賑やかにしたいとする思惑が一致したようである。お囃子は義太夫と比べればアップテンポでリズム感もよく、江戸下町の香りが漂う粋な雰囲気を併せ持つことから、若い衆に受け入れてくれるという考えがあったようである。
 当時、長吉を招くことについては既に青山村や鳥屋村にて祭り囃子が賑やかに行われていた実績があり、お囃子を熱心に教え、弟子たちの人望も相当厚かった長吉が教えれば、若い衆も習うであろうという考えがあったようである。長吉を中沢に招くとその思惑はぴたりと当たり、若い衆も気を向けてくれ、明治20年(1887年)代後半には中沢の若い衆により首長囃子が習得されたようである。後に青山村の関に生まれた長吉の弟子であった上原定吉は、その縁かどうかは定かではないが、明治28年(1895年)12月に木上家に入婿している。このように木上家二代に及ぶ長吉との付き合いはかなりの信頼関係があったようで、晩年には木上家の離れに長吉家族が居住したと伝えられている。
 しかしながら、そのような付き合いは長くは続かず、明治30年(1897年)に大流行した赤痢にて8月に長男の渉が、それを追うように9月に長吉が亡くなり、2人の亡骸は木上家の墓地の片隅に埋葬された。祭り囃子を伝播した長吉が病で没したことから中沢の若い衆は落胆し、次第に祭り囃子を演ずる意欲が無くなり、その後は中沢の地で首長囃子が聴けることはなかったようである。



神輿

  



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