鳥屋とや

諏訪神社

 「諏訪神社」の祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)で、四条天皇の仁治2年(1240年)に菱山肥後守入道隆顕和尚が清真寺建立と同時に、村内の鎮守として信州諏訪大明神を寺原1334番地に勧請し、享禄3年(1503年)2月15日に現在地に遷座した。棟札によれば本願井上対馬守資直とあり、側面に「大日本相模州奥三保鳥屋村云々」、「大工(姓字不明)三郎左衛門盛重、社祠を造営」とある。その後、安永4年(1775年)7月に再建した。
 昭和20年(1945年)12月15日に神道指令により社格廃止となり、現在は宗教法人の神社として神社本庁に属している。

諏訪神社社号柱
燈籠鳥居
鳥屋獅子舞伝承館の碑社務所
大杉(御神木)切株
水鉢石碑
狛犬(吽)狛犬(阿)
石階段社殿
燈籠・祠燈籠
燈籠・祠神楽殿
  
忠魂碑
石碑境内
石像石碑

祭礼の歴史

 例大祭は8月の第2日曜日で、昔は神輿があったが当時は流行り病のために、神輿の御神体を串川に流したといわれ、川下の関地区の神輿はその御神体であるという。例祭当日は大人神輿の渡御と山車3台による巡行が行われ、夜はプロの歌手による歌謡ショーがある。また、当日奉納される鳥屋の獅子舞の歴史は古く


鳥屋の獅子舞

 例祭当日に奉納される鳥屋の獅子舞の歴史は古く、明治時代には既にあったようで、昭和29年(1954年)12月3日に神奈川県の無形文化財に指定されると共に、鳥屋獅子舞保存会を結成した。

囃子

 鳥屋地区には地区内の11自治会(2015年当時)が3つに分かれて構成される「若連」があり、各若連の名称は、地区内を流れる串川(早戸川)の上流から「上鳥屋若連」・「宮本若連」・「興進若連」といい、三若連共に囃子を演奏する。


上鳥屋若連 上青(じょうせい)もどき会

 「上鳥屋若連 上青もどき会」は昭和55年(1980年)6月にお囃子の伝統芸能継承を目的に、「日本の秋まつり」の参加メンバーと青年団に関わる有志15名により結成された。囃子の流儀は「黒沢流 上鳥屋囃子」で、曲目は「屋台(ヤタイ)」・「昇殿」・「四丁目(シチョウメ)」・「こもり」・「もどき」があり、演技順も同様である。上鳥屋の囃子の起源は古く、明治年間に上鳥屋青年部の有志が東京府西多摩郡小曽木村黒澤出身の柳川長吉の指導を受け、「首長囃子」を習得したと伝えられている。鳥屋には以前からも祭り囃子があったようであるが、柳川長吉の指導の元にそれまでの断片的なものから、現在のような囃子が完成されたと伝えらえれている。その後、相次いで発生した戦争や大震災の影響によって祭りが中止となり、お囃子の練習も中断された。
 昭和に入って上鳥屋青年部の活動が盛んになると共に祭り囃子復活の気運が高まり、資金の調達が多変困難な状況の中で昭和6年(1931年)に屋台を建造し、柳川長吉から指導を受けた先輩方が師匠となって「上鳥屋祭はやし」を復活させ、その年の神明社祭礼にて屋台によるお囃子の初演奏が行われた。更に翌昭和7年(1932年)の諏訪神社祭礼からは屋台の村内(現鳥屋地域)曳行と共にお囃子を演奏・奉納するようになった。以後は青年部の熱意により戦時中も絶えることなく続けられた。なお、当時の曲目は9曲であったと言われているが、現在残っているのは5曲のみとなっている。
 平成27年(2015年)頃は、練習として祭礼前の約3週間とイベント参加前の3〜5日行い、練習場所は上鳥屋倶楽部を使っている。出演は8月第2土曜日に開催される諏訪神社の例祭をはじめ、鳥屋囃子交流会(4月)、地元のふれあいまつり(5月)、宮ケ瀬ふるさとまつり(8月)、中澤三嶋神社の「お囃子の集い」(8月)、更に地元の神明社祭礼(9月)、小網の大六天(9月)、貫井囃子保存会祭礼(9月)、地元の鳥屋地区文化祭(11月)に出演している。


宮本若連

 「宮本若連」の創始時期については詳しい記録が残されていないが、昭和初期に青年団活動の一環として祭り囃子が取り入れらたと推測される。その根拠として、前途の上鳥屋若連の囃子が昭和初期に青年団活動として行われていたとされ、その囃子を伝えた柳川長吉の縁者宅が宮本若連の地区内であることから、上鳥屋で囃子が復活したのと同時期か、あるいはその後間もなく伝承されたと考えられる。また、青年団活動の一環であった形跡として、現在伝わる屋台(太鼓)の譜面に「宮本支部」の記載があり、鳥屋地区内の青年団活動が現在の若連と同様に3つの支部に分かれて行われていたと考えられる。
 「宮本」という名称については、諏訪神社周辺の自治会で構成されていることから、お宮の周りにちなんで命名されたというのが通説となっている。更に、囃子開始当初から使用しているとされる鉦の縁に「鳥屋村 中組」との記載があり、諏訪神社は鳥屋の中心部に位置していることから、当初より現在の自治会内に住む氏子により行われていたようである。
 宮本若連の演奏曲目は「屋台」・「子守り」・「四(仕)丁目」・「バカ面(バカ囃子/一般でいう印旛)」で、通し演技の場合はバカ面→屋台(キツネ)→子守り→四丁目→バカ面の順で演奏される。宮本若連が出来た頃は現在と同じ曲目が演奏されていたようだが、昭和40年(1965年)〜平成の初め頃まではバカ面のみであった。しかし、平成3年(1991年)頃から復活させようという気運が高まり、当時の若手と中学生が中心になって屋台などの曲目を年長者から習得した。また、併せてこの時期に屋台の建て替えを行っている。現在は備え付けの屋台(舞台)にて囃子を演奏しているが、一説によると昔は曳き屋台(山車)であったが、転倒により怪我人が出たために、それ以降は置き屋台になったようである。
 平成27年(2015年)頃は祭礼前の2週間で練習を行い、場所は宮ノ前自治会館である。祭礼等の出演は8月の諏訪神社祭礼のほか、鳥屋囃子交流会(4〜5月)、藤野囃子交流会(9月)、鳥屋地区文化祭(3年毎11月初旬)などに出演している。


興進囃子保存会(興進若連)

 「興進囃子保存会」は第二次世界大戦後間もない昭和25年(1950年)に地元青年団により結成され、同年に「首長囃子」を継承する関保存会の指導を受けて祭り囃子を習得した。以後、15有余年に渡り継承してきたが昭和40年(1965年)頃に衰退し、10年後の昭和50年(1975年)頃に近隣の囃子会から囃子を習得した。
 囃子の流儀は特になく、「創作囃子」としており、演奏する曲目は「屋台」・「印幡」・「四丁目」・「子守」・「笑伝」で、屋台(狐)→笑伝→四丁目→子守→印幡(馬鹿踊り)→屋台(獅子)の順で演奏する。平成27年(2015年)頃は諏訪神社祭礼前の3週間、自治会館で囃子の練習を行う。


柳川長吉と首長囃子

 津久井郡下に広く祭り囃子を伝承した「柳川長吉(やながわちょうきち)」は、嘉永6年(1853年)に西多摩の小曽木村黒沢(現・青梅市)で生まれ、明治30年(1897年)に三沢村中沢(旧・城山町中沢)にて赤痢により44歳という若さで没している。柳川長吉が伝えた囃子は「首長(クビチョウ)囃子」と呼ばれ、若い頃に埼玉の間野(現・飯能市)で習い覚えた囃子を、二十歳前後に若者数人と共に鳥屋へ来て教えたのが、津久井における首長囃子の始まりであったという説がある。なお、長吉は首が傾斜していたことから「クビチョウ」という呼び名で通っていたようである。
 首長囃子の伝承は全て口伝であったため、地域によって太鼓および笛は一律ではなく、現存する曲目を全て長吉が教えたかどうかも定かではないが、江戸末期より津久井各地にあったと思われる目黒系や稲城系の祭り囃子に黒沢系の曲が加わった可能性が考えられる。戦中戦後は祭り囃子が各地で途絶え、その後に復活した地区もあるが、現在、柳川長吉の直系の首長囃子を伝承ている地区は数少なくなっている。「クビチョウ」という名前は津久井郡下、青梅市黒沢、あきる野市でも伝え聞き及んでいる人が多く、百年余の年月を経てもなお遠く隔たった津久井と西多摩(青梅市・あきる野市)で同じ曲が演奏されていることは驚きである。
 柳川長吉と首長囃子の詳細は殆ど判明していなかったが、相模川流域調査(無形文化財)における神奈川県立博物館の調査により、津久井を一望できる根小屋雲居寺峰(津久井町)で『柳川長吉君の碑』が発見された。その台座に刻まれていた銘文には津久井郡下で首長囃子に関わった地名や弟子の名前の一部が刻まれており、旧津久井町では上鳥屋(かみどや)・関・寺沢・川和・小網・不津倉(ふづくら)・亦野(またの)荒川、旧相模湖町では阿津(あづ)、旧藤野町では名倉、旧城山町では中沢が判明した。しかし、その後の度重なる道路工事で散逸した部分が多く、雲居寺に記念碑の台座の一部が保管されているとの記録が残っていたが見つかっていない。
 柳川長吉は故郷には戻らずに津久井内に留まり、結婚して子供もあったが若くして没している。昭和40年(1965年)頃に聞き取り調査をした際における中沢の故老の話によると、長吉の息子や娘と遊んだ記憶があることのとである。また、長吉は明治時代としてはモダンで、洋服と革靴を身に付け、中折れ帽子を被っているのを良く目にしたという。長吉が祭り囃子を教えるために津久井各地の村の弟子宅に長い間逗留し、寝食を共にして伝承したという言い伝えがあるが、それが中沢に居を構える前の時期かどうかは定かではない。

○柳川長吉 年表
 嘉永6年(1853年)・・・小曽木村黒澤地区(現青梅市黒沢二丁目)に父柳川文次郎の次男として生まれる。
 明治4年(1872年)・・・霞村(現青梅市師岡付近)の小作與右エ門の遺跡を相続する。
 (不詳)・・・小曽木村の若林仙十郎小若一座(万作踊り・お囃子・歌舞伎・里神楽を演じた)に入り、座長若林仙十郎から黒澤・岩蔵・古武士・荒田等の若い衆約20名と共に伝授する。
 (不詳)・・・間野(現飯能市間野)にてお囃子を伝授する。
 (不詳)・・・引田村(現あきる野市引田)にお囃子を教える。
 (不詳)・・・鳥屋村(旧津久井町鳥屋)の丹沢の山に金塊が出るとの噂を聞き、仲間数人と金塊堀に向かい、金塊が不採掘であったが帰郷せずにそのまま鳥屋村に滞在する。
 (不詳)・・・鳥屋村の上鳥屋地区にお囃子を教える。
 (不詳)・・・青山村の関地区に滞在してお囃子を教える。
 (不詳)・・・鳥屋村の娘と結婚する。
 明治14年(1881年)・・・5月13日に長男渉が出生し、以後数年間に子供三女が出生する。
 明治20年(1887年)・・・三沢村の中沢(旧城山町中沢)の某家の遺跡を相続する。
 明治24年(1891年)・・・長男渉が東京市牛込区矢来町(現東京都新宿区牛込)の真坂家へ養子として転出する。
 (不詳)・・・荒川村(現津久井湖底)や旧小網村(旧津久井町太井)等にお囃子を教える。
 明治26年(1893年)頃・・・三沢村の中沢にお囃子を教える。
 明治28年(1895年)・・・長男渉が離縁して長吉の元へ帰る。霞村(現青梅市師岡付近)へ転住する。
 (不詳)・・・再び三沢村中沢へ転住する。三沢村中沢の木上家の作代として従事する。長吉家族が木上家の離れに居住する。
 明治30年(1897年)・・・8月11日に長男渉が赤痢にて没する(16歳)。9月9日に長吉が赤痢にて没する(44歳)。亡骸が三沢村中沢の木上家に埋葬される。
 (不詳)・・・妻子が鳥屋村に帰郷する。
 (不詳)・・・「柳川長吉君之碑」が根小屋村(旧津久井町根小屋)の雲居寺峰に建立される。
 (不詳)・・・同碑が根小屋村の雲居寺内に移転される。
 昭和44年(1969年)・・・首長囃子関保存会により「首長ばやし由来書」が作成される。
 平成14年(2002年)・・・柳川長吉氏記念碑建立発起人会が設立される。
 平成15年(2003年)・・・「柳川長吉之碑」が城山町中沢の木上家の墓地の一角に建立される。同氏記念誌「百余年の囃子の響き」が作成される。9月7日に柳川長吉之碑建立記念式典が開催される。

○戸籍
神奈川県津久井郡三沢村中沢461番地

(柳川長吉)
嘉永6年8月17日生まれ
明治4年1月1日 同府同郡小曽木村黒澤 柳川紋次郎二男が小作與右エ門の遺跡を相続
明治28年5月10日 東京府西多摩郡霞村師岡に転住
明治30年9月9日死亡

小作 渉
明治14年5月3日生まれ
明治20年11月16日 願満し廃嫡
明治24年9月30日 東京市牛込区矢来町 真坂忍離婚?
明治28年5月10日 父長吉に従い転住
明治30年8月11日死亡

明治40年9月20日 横浜裁判所の許可を得て抹消


神輿

  



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