七沢ななさわ

七沢神社 ※要調査

  「七沢神社」は七沢集落の北部にそびえる鐘ヶ嶽(かねがたけ)山頂にあり、「木花佐久夜昆売命(このはなさくやびめのみこと)」・「大山祇命(おおやまずみのみこと)」・「誉田別命(ほむだわけのみこ)」の三柱が祀られている。当社の起源は室町時代に扇谷(おおぎがやつ)上杉六代目の主が持城である七沢城の見張りの山として、山頂に鐘を掛け社殿を築いたことに始まるという。
  七沢城築城と同時に上杉定正以下一族の信仰はさらに厚くなり、上杉氏在城の折に四方の鎮護として東に「山王社(日枝神社)」、西に「白山社(観音寺裏山の白山と呼ぶ山頂)」、南には「八幡宮(遥拝所裏手)」、そして北に「諏訪神社(大沢横畑の丘の上)」を設けたことからも、一族の崇敬の念がうかがえる。とりわけ八幡宮はその祭神が軍神であることから、本社殿と共に崇められていた。
  鐘ヶ嶽は尾張徳川家の信仰が厚く、元禄元年(1688年)から元禄4年(1692年)にかけて「浅間神社」と別当「禅法寺」などが再興されている。明治5年(1872年)3月2日に不幸にも火災により社頭以下ことごとく廃滅し、禅法寺より氏子の手で搬出された勢至菩薩などは観音谷戸の観音寺に移されたが、禅法寺は結局再興されなかった。翌明治6年(1873年)8月に浅間神社は旧七沢村の鎮守「八幡宮(八幡社)」と「山王社(日枝神社)」を合祀して「七沢神社」と改称し村社となり、明治12年(1879年)12or9?月に氏子の総意により現在の社殿を再建した。この地に建てられたものは七沢村総社の遙拝所として建てられたもので、この建物は舞台にも用いられ古くは廻り舞台であった。明治22年(1888年)には元八幡社の境内に拝殿を建て、同年9月26日に落成を記念した大祭が行われた。明治37年(1904年)には八幡社跡地に神楽殿兼用の遥拝所が建立された。
  八幡社に関しては天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると、「是も村の鎮守なり、上杉修理大夫定正勧請の棟札あれど文字漫滅す、按ずるに山王社伝に云る、上杉氏が七沢城鎮護四社の一つなるべし」とある。さらに、この中の「山王社」については次の記述がある。「山王社 村の鎮守なり、神体石顆を置、社伝に上杉氏七沢在城の頃、城蹟社の西にあり、四隅の鎮神として勧請ありし四社(東は当社、西白山、南八幡、北諏訪)の一なり、明応年中(1492〜1500年)社頭兵火に罹り、記録を烏有すと云、天正十九年(1591年)社領二石の御朱印を附せられる、徳雲寺持、末社榛石 天神 金毘羅 天王 秋葉 八幡 稲荷 神楽殿鐘楼安永九年(1780年)鋳造の鐘を掛」

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七沢神社鳥居(遙拝殿)
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狛犬狛犬
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社殿御倉殿
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燈籠
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厚木市立 七沢老人憩の家
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境内

七沢浅間太鼓

  「七沢浅間太鼓」は七沢地区の「七沢浅間太鼓保存会」によって伝承され、安政5年(1858年)に現在の大磯町から「松の一坊主」という人物が七沢に来て太鼓を教えたと伝えられる。名称は七沢の浅間山の浅間神社の名をとって「浅間太鼓」とした。
  囃子は「大太鼓3」・「締太鼓7」で構成され、「一六囃子(いちろくばやし)」・「鎌倉囃子(かまくらばやし)」・「宮正殿(ミヤショウデン)」・「四丁目(しちょうめ)」・「神正殿(じしょうでん)」がある。七沢神社大祭のほか、厚木市郷土芸能まつりなどでも演奏される。



神輿

  



七沢の歴史

  旧七沢村は厚木市域の西部に位置し、村域は市内の旧村中で最も大きな面積を持つが、その殆どを大山山地と白山丘陵が占めている。村域東南側にはこれら山地に囲まれた七沢盆地あるいは日向台地と呼ばれる台地があり、ここには4面の段丘面が認められる。周囲の山域からは幾筋もの小河川が流れ、これらが集まった玉川が盆地東側を流れ伊勢原市側から流れてくる日向川と東南端で合流している。この川に沿って津久井道が村域を南北に通っている。周辺は、東側は小野村・上古沢村、南側は大住郡日向村(現伊勢原市)、北側は煤ヶ谷村(現清川村)に接している。西側はずっと大山東側の山地が続き、最西端は大山山頂に至る。
  山地が9割を占めるため田畑は少なく、水田は玉川ほかの小河川沿いにいわゆる谷田(ヤトダ)が開かれてきた。山地での生産物としては薪炭のほか、「七沢石」と呼ばれる切石が主なものの一つであった。石切場は北西の山中の字奥谷と大平にあり、江戸時代前期にはこの石を使った作例が散見される。信州高遠の石工の出稼が知られる中期以降、七沢石の作例は増大し、高遠石工の系譜は続いている。
  七沢村に関する中世資料は多く、至徳4年(1387年)の「甲州塩山向岳庵開山抜隊和尚行実」に記されている「相州七沢」が初見であるが、貞和5年(1349年)の文書等に「七沢左衛門太郎」が現れる。この七沢氏は七沢を本貫としていたと考えられている。大山山地東麓の一角には中世の城跡があり、この城は15世紀中頃の関東の争乱時に「相州七澤山」・「七澤の城」・「七沢要害」としばしば記録にあらわれる。宝徳3年(1451年)の「休畊庵寺領注文」には「相模州愛甲保七澤村」と記載され、「愛甲保」という地域に含まれていたようである。永禄2年(1559年)の『所領役帳』には「中郡七沢」と記載されている。「ナラサワ」と訓ずる資料は天正10年(1582年)の「松田憲秀ヵ朱印状写」に「相州愛甲郡於奈良澤郷」等にあり、『皇国地誌』も「ナラサワ」と訓じている。近世の国絵図では、正保図は「七沢村」、元禄図では「上七沢村」・「下七沢村」の2村を載せ、天保図で「七沢村」の1村に戻っている。郷帳は元禄・天保郷帳ともに「上七沢村」・「下七沢村」の2村である。
  『風土記稿』は村名の由来について「村内に七ツの沢あるを以村名起れりと云」と記し、「南沢」・「大沢」・「蘆沢」・「吉原沢」・「奈加沢」・「みづく沢」・「たたら沢」をその起源としている。また、七沢村の小名として「南沢」・「大沢」・「蘆沢」・「吉原沢」・「奈加沢」・「みづく沢」・「たたら沢」・「大竹」・「金目」・「上ノ久保」・「上谷戸」・「久保屋敷」・「台畑」・「舂米」・「馬場」・「日向川」・「峯岸」・「谷戸」を載せている。伝承調査では旧集落は盆地内の平坦な台地上を中心として、小河川が開いた谷沿いあるいは山裾の平坦部に点在しており、合計29の集落名が確認されている。七沢村内にある広沢寺の幕末期の世話人議定書には「上七沢村」として「大沢」・「足ヶ久保」・「上谷戸」・「峯岸」・「中沢」・「上之久保」・「観音谷戸」・「カンノヲ」が、「下七沢村」として「台」・「水汲沢」・「月米」・「川端」・「大竹」・「日向原」・「馬場」・「日向川」・「門口」が記されている。『風土記稿』によると幕末の戸数は155戸で、『皇国地誌』によると明治初期の戸数は172戸である。
  近世の支配は、元禄期までは幕府直轄領で、以後は旗本の2給であった。明治22年(1889年)に岡津古久村・小野村と合併して玉川村大字七沢となり、昭和30年(1955年)の合併により厚木市大字七沢となる。


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