恩名おんな

神社の紹介

  「三島神社」の起源は定かではないが、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると、「三島社」を恩名村の鎮守としており、末社に「八幡社」・「天神社」・「稲荷社」が記載されている。別当院は神社前方にあった「満光院」であったが明治初期に廃寺となった。恩名村のこの他の神社・小祠には村民持ちの「第六天社」、村持ちの「稲荷社」3社と「弁天社」が記載されている。天正19年(1591年)11月に徳川家康公より社領1石の御朱印状が下附され、天保10年(1839年)9月に修復されたとこが文献に残されている。祭神は「積羽八重事代主(つ(み)はやえことしろぬし)命」とし、諏訪山王を相殿とする。
  旧社殿の位置は現在の石段の踊り場付近にあったが、地域住民の要望もあり広場を造成するために現在の位置に移設新築された。また、昔は恩曽川左岸台地の谷戸で恩名と浅間山の堺のところ湧き水があり、ここの水を田んぼに利用していたが、ここは三島神社の地所であった。
  当社の幟は明治19年(1886年)に初代厚木町長で能書家の斎藤藍江が書いたもので、平成8年(1996年)に再製されている。

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社号柱鳥居
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狛犬狛犬
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参道社務所
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水鉢三島神社
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燈籠手水舎
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狛犬狛犬
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拝殿幣殿・覆殿
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境内
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恩名自治会館

囃子

  



神輿

  子供神輿



例大祭

  昔は農作業が一段落する頃の9月16日が祭日であったが、第二次世界大戦後は4月16日の春祭りとなり、その後は現在と同じ4月16日に近い日曜日となった。
  宵宮の日に幟立てをし、大祭当日は神主が祝詞を上げて式を行う。昔は御神楽をやったが、現在はカラオケや歌手を頼んだりする。昔の芝居では「源五郎の綱渡り」とか、「柿之助」、「座間のゴンチャン芝居」などを頼んだこともある。



恩名の歴史

  旧恩名村は厚木市域の中部に位置し、村域は尼寺原台地南東縁とその東に続く沖積平野にある。ほぼ中央部と南側には台地東南縁の段丘崖があり、一部浸食谷が発達しているが、その他は概して平坦な土地が占めている。南側を恩曽川が東流しているが、現在の流路は改修によるもので、かつては段丘崖のすぐ下を流れていた。北東境から南に糟屋道が通っている。周辺は、東側は厚木村、南側は温水村・大住郡岡田村・西側は温水村、北側は戸室村に接している。
  中世では観応3年(1352年)の「鶴岡脇堂供僧次第」に載る「女名」が所見であり、当村に比定される郷名と考えられている。「女名郷」は以降いくつかの文献に現れ、永禄2年(1559年)の『所領役帳』で「中郡恩名」と記載され、以後は「恩名」の字が使われている。『風土記稿』では小名として「上分」・「下分」・「片岸」・「横町」を載せており、伝承調査ではこれらの小名とほぼ同じく「カミ」・「ナカ」・「シモ」・「ヨコチョウ」・「カタキシ」が確認されている。
  旧集落は段丘崖下に沿ってある沖積平野微高地にあり、集落東側の沖積平野は水田で、台地上は広く畑であった。江戸中期には台地西側の恩名村から周辺の村々にかかる尼寺原と呼ばれる広い一帯のところで両村の農民が開発を実施し、享保17年(1732年)に検地が行われた。この開発地は111石の石高があり、尼寺原新田と呼ばれたが、入植者はなく両村の持添となってきた。
  近世の支配は幕府領・旗本領等の4給で、『風土記稿』によると幕末の戸数は75戸で、『皇国地誌』によると明治初期の戸数は70戸であった。明治22年(1889年)に戸室村・温水村・長谷村・船子村・愛名村・愛甲村と合併して南毛利村大字恩名となり、昭和30年(1955年)の合併により厚木市大字恩名となる。その後、厚木市中心部の都市化の進行に伴って、一部で「栄町」・「田村町」・「旭町」の住居表示が実施されている。なお、昭和37年(1962年)に西側の台地一体で尼寺原工業団地の造成が始まり、厚木市域で最も大きな工業団地となった。



尼寺原新田

  江戸中期、尼寺原台地中央部の戸室村・恩名村・飯山村・温水村にかかる尼寺原と呼ばれる原野一帯で、戸室村・恩名村分が両村民によって開墾された。享保17年(1732年)に検地が行われ、戸室村分48石余、恩名村分62石余の石高であった。広さは26町余で入植者はなく、2村の持添で「尼寺原新田(あまでらはらしんでん)」と呼ばれた。『風土記稿』では尼寺原について恩名村一乗尼寺の項でその由来を、「一乗尼寺、古は尼寺原にあり、聖徳太子の建立にて玉照尼の住持せし旧蹟なりと云、尼寺原の名も当寺より起これり」と記している。また、飯山村と温水村にかかる原野は引き続き両村の秣場に利用された。


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