下荻野しもおぎの子合こあい

日吉神社

  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には村の鎮守として「妙見社」と称しており、「熊野」・「天神」・「稲荷」・「山王」を相殿に置き、末社はは「山王」があった。天正19年(1591年)に徳川家康より社領1石を賜り、社後に妙見松と呼ぶ老樹があり、鐘棲には元禄10年(1697年)の鑄鐘を掛けていた。別当は曹洞宗の「永照山妙見寺」で、秋葉神明の号社があった。下荻野村のこの他の神社・小祠には「山王社」・「石神社」・「東権現社」・「御嶽社」、智恩寺持ちの「稲荷社(宝珠稲荷と号す)」が記載されている。
  『愛甲郡制誌』によると日吉神社は鳶尾山の東麓の高地の下荻野子合字神谷にあり、古くは「妙見社」と称し「妙見寺」の持社であったが、廃寺になると三田清源院の持社となった。明治6年(1873年)に至って村社に昇格した。なお、明治3年(1870年)10月に現在の日吉神社に改号されている。
  かつては社殿の後ろに「妙見松」と呼ばれた大老松があり、現在社殿横に祀られている3つの兜はこの松が枯れて根を掘った折に発掘されたものという。また、当社には嘉元3年(1305年)の板碑と年不詳の板碑3点が保管されており、嘉元の板碑は市内の板碑の中で林福伝寺のものに次いで古く、唯一碑面に天蓋(てんがい)を画いたものである。

日吉神社社号標
鳥居水鉢
狛犬(吽)狛犬(阿)
神楽殿燈籠
拝殿本殿・覆殿
記念碑水鉢
秋葉宮再建碑
石祠奉祭 三兜大神
境内厚木市日吉神社児童遊園

囃子

  



神輿

  



例大祭

  『風土記稿』では祭礼が旧暦の9月9日で、その後も戦後までは9月9日で、その後に5月となり、4月8日に桜祭りを兼ねて行うようになった。現在は4月第1週の土・日曜日に行う。当社は明治期まで「妙見社」と称していたので、以前は「妙見さんのまつり」といった。
  昔は余興もあったので人が集まったが、現在は式だけになり、総代・当番の組の人と各組の代表者だけ参加して行う。昔は宵宮に幟立てを行った。
  大祭当日は準備に携わった総代以下20人ほどが参列し、神官(安部氏)により神事を行う。祝詞、お祓い、玉串奉奠、2拝2礼1拝、総代以下氏子拝礼で式は終了となり、神酒で一同乾杯する。式終了後は鐘鋳神社のまつりの式典終了後に子合公民館で行う。



下荻野の歴史

  旧下荻野村は厚木市域の北西部に位置し、村域は、北東部は平坦な荻野台地にあり、南西部は中津山地末端部に続く開析が進んだ標高の低い丘陵にある。この台地と丘陵の間には荻野川が流れ、川沿いはやや広い沖積地となっている。また、鳶尾山地の最南端部が村域最北部にかかっている。本村域には南北に大山道、東西に甲州道が貫いており、両道が交差するところは中世後期に六斎市が開かれた要所であった。周辺は、東側は三田村、南側は及川村・飯山村、西側は中荻野村、北側は棚沢村に接している。なお、本村から離れた北西の中津山地と鷲尾山地には飛地がある。
  中世の頃は「荻野郷」に含まれていたと考えられているが、中世後期と思われる資料には「を木の村上下」の記事がみられる。分村の経過に係り『風土記稿』の上荻野村の項で、「慶長八年改あり、此時上下二村に分る、中村は後年下村より分析せしなり、按ずるに正保の改には既に三村となる。」と記している。天正19年(1591年)に豊臣秀吉が村内妙見社に発給した寺領寄進状には「相州中郡下荻野郷」と記されている。
  旧集落は荻野川に沿った台地縁辺部に「マスワリ」・「ナカガナイ」・「シュクハラ」の3集落で、大山道沿いに「シンシュク」集落があり、内陸部に入ったところに「コアイ」集落がある。『風土記稿』では小名として「子合村(古は小合)」・「新宿」・「公所村」・「升割」・「中金井」を載せている。このうち公所村は現在の旧中荻野村であるが、同書では公所・中金井・升割の3小名を本村と中荻野村の両村に載せて「犬牙の地」と註しており、両村の村境はこの頃は未だ明瞭ではなかったようである。耕作地は台地の畑地が大部分で、水田は荻野川沿いの沖積地にあり、南西の丘陵部の浸食谷には谷田(ヤトダ)を開いてきた。北西部の中津山地の飛地、西山には中荻野村とで管理した松林があった。
  近世の支配は中期まで幕府直轄領、以後は大名大久保氏の所領となり、『風土記稿』によると幕末の戸数は165戸であった。明治22年(1889年)に上荻野村・中荻野村と合併して荻野村大字下荻野となり、昭和31年(1956年)の合併後に厚木市大字下荻野となる。昭和52年(1977年)に村域北部の鳶尾山南麓の地に鳶尾団地が建設され、「鳶尾」の住居表示が実施、南西の丘陵部一帯はゴルフ場となっている。


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