下荻野
鐘鋳神社
下荻野字中金井の地に鎮座する「鐘鋳神社」を天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』でみると、創立は江戸期寛永6年(1629年)に当所に住んでいた難波富右衛門が本国下総国(現千葉県)から勧請したと伝えられている。また、中金井については「古は金鋳と書し、上中下に分け唱へしなり、此所は鋳工銅銕を鋳し地にて、今も地中より銕屑出ると云」と記されている。中世において荻野の地では鋳物師が活動していた記録があり、当社の「鐘鋳」の社名はこれに因んでいる。
銅製の男神立像の御神体(高さ29cm程)は唐国の武将の鋳像で、刻名に難波盛久とあるのは富右衛門の実名といわれ、その子孫が下荻野村にいて村民持ちとなっていた。なお、『愛甲郡制誌』での祭神は「日本招古皇統珍照尊」となっている。
『神社明細帳』によれば享保10年(1725年)に本殿内陣に御幕を奉納し、その後は数次の社殿の修理が難波氏一族に依って行われてきた。昭和25年(1950年)10月4日には境内地が無償譲与されている。また、神体については次のような奇蹟な話もある。明治41年(1908年)10月頃に当社の御神体が紛失し、氏子一同は驚き各方面に手を尽くしたが発見されなかった。たまたま氏子の一人であり苗木商を広く営む難波菊次郎氏が愛甲郡依知村の六本松(睦合地区の諏訪神社)近くを通った時に、この地の農夫と思われる2,3人が境内の松の根元に高さ30cm程の神像を発見し物珍しげに語っていた。これに立ち寄った菊次郎氏が熟視したところ、幸いにも村中で苦心して探している神体であることが判明し、受け持ちの三田村才戸駐在所へ事情を述べて神社へ持ち帰ったという。
社殿は昭和33年(1958年)10月に再建され、木造入母屋造亜鉛葺の本殿(間口9尺奥行1間)に拝殿(間口3間奥行2間程)が続いている。この時の新築記念碑として仙台石材の石碑(総高2m程)がある。境内入り口には鐘鋳神社と刻まれた石造りの社号柱(高さ1.5m程)があり、石造りの鳥居も奉納されている。また、社前には絵馬等も数枚献額されており、関羽の絵馬は上荻野の絵師井上五川の作である。当社は古く「妙見社(宮)」と称されており、当所満星山日遂書の奉納額と共に妙見宮の扁額も掲げられている。妙見神は北斗七星を神格化して祀ったものといわれる。
鐘鋳神社 | 社号標 |
鳥居 | 石碑 |
社殿 | 覆殿 |
境内 | 参道 |
例大祭