下津古久
稲荷神社
「稲荷神社」の創建年月は不詳だが、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると下津古久村の鎮守は「稲荷社」で、末社には「山王社」・「天王社」・「金毘羅社」があり、別当は酒井村の「一重院」であった。下津古久村には鎮守とは別にもう一つ「稲荷社」があった。
祭神は「宇迦御魂命(うかのみたま)」で、正徳2年(1712年)の再建棟札が残り、江戸時代中期には氏子を持つ神社であった。古くは延享2年(1745年)の銅鐘が鐘楼に掛けられてあったが大東亜戦争中に供出され、現在は鳥居の横に元禄13年(1700年)の天宗寺の喚鐘が掛かる。本殿横には末社として「金毘羅社」・「天王社」・「山王社」の石祠が祀られている。
赤い屋根の木造社殿の中にある本殿は天明8年(1788年)の建築で、木造一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、その内部には延享2年(1745年)の男神像が納められている。入口にある鳥居は大正14年(1925年)の建造で、
例大祭
祭礼の準備は「年番」が行い、これは下津古久を上・中(上・下)・下(上・下)の5つに分けたもので、順番に祭礼の準備を行う。この組織は祭礼の時だけのもので、供物、料理の用意から、飾り花を作ることまで全て行う。また、当時の飾り付けは等は氏子総代皆で行う。
大祭当日は午後11時から式が始まり、大山の宮司により次のように祭典が執り行われる。@総代挨拶、A神主祝詞奏上、B開扉の儀、C献饌の儀、D祝辞奏上、E玉串奏献、F献饌の儀、G閉扉の儀、H一拝、I清酒拝載。終了後は子供神輿が神社を出発して村内を渡御する。
拝殿では直会となり、昼からは自治会館へ席を移して親睦会となる。
昔は「金魚すくい」や「ヨーヨー」などのサントミセが出ていたが、今ではない。戦後しばらくは自治会館のある場所に建っていた神楽殿で、芝居や神楽が行われていた。厚木の柿之助も呼んだが、テレビの普及で芝居は廃れてしまった。
囃子
神輿
子供神輿は昭和40年代に中山氏の発案で始められたもので、他の神社の祭礼にある子供の行事がないので、白木の神輿を寄附して始まった。現在の神輿は2代目である。
下津古久の歴史
下津古久村は厚木市域の最南部に位置し、村域は平坦な相模平野にある。村域の南部を大山道(柏尾通大山道)が東西に貫く、周辺は、東側は戸田村、南側は長沼村、西側は上落合村、北側は愛甲村・酒井村に接している。旧集落は村域の中央部と南部にある自然堤防性の微高地にあり、村域の西・北側が耕地で、そのほとんどが水田であった。
中世の下津古久に関すると思われる資料はいくつか存在し、建武2年(1335年)の「きやうい寺領寄進状」にある「さかみのくにつおくのかう」、観応2年(1351年)の「足利直義御教書」の「相模国石田庄内津奥村」が下津古久に比定されると考えられている。永禄2年(1559年)の『所領役帳』には「中郡津古久」が記載されている。近世の正保国絵図では「津古久」と記載されているが、元禄・天保国絵図には「下津古久」と記載されている。
近世の支配は幕府・旗本領等の4給で、『風土記稿』によると幕末の戸数は17戸、『地誌草稿』によると明治初期の戸数は28戸であった。明治22年(1889年)に上落合村・長沼村・戸田村・岡田村・酒井村と合併して相川村大字下津古久となり、その後に中郡相川村大字下津古久となる。昭和30年(1955年)の町村合併後は厚木市大字下津古久となる。
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