棚沢たなさわ

皇大神社 (棚沢神社)

  「皇大(こうたい)神社」は棚沢地区の鎮守で、祭神は「天照大神」を祀る。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると「神明社」を小名本村および下川入村飛地の鎮守とし、地社の鐘楼には寛文10年(1670年)鋳造の鐘を掛けていたが、宝暦10年(1760年)の台風で破壊され、同時に神木の椎の老樹囲三丈五尺も倒れて枯死したと記されている。棚沢村の神社と小祠には市島の鎮守である「三島社」と山上にあったとされる「山王社」が記載されている。
  昭和27年(1952年)の神社明細帳には、元亀3年(1572年)創立にて宝暦12年(1762年)7月再建と記載されている。境内には嘉永4年(1851年)奉納の手洗鉢があり、安政6年(1859年)と文久3年(1863年)銘の2対の石灯籠が奉納され、文久2年(1862年)銘の道祖神が祀られている。

皇大神社鳥居
幟支柱神楽殿
燈籠記念碑
水鉢石碑
燈籠社殿
境内

棚沢太鼓

  「棚沢太鼓」は棚沢地区の「棚沢太鼓保存会」によって伝承され、明治43年(1968年)頃には囃子太鼓の「一六」という曲をたたいたという。
  現在は一六のほかに4曲と創作太鼓2曲を演奏しており、囃子は「大太鼓1」・「中太鼓2」・「締太鼓4」・「笛(子ども太鼓のときのみ)」で構成される。子ども太鼓には「かまくら」・「ばかばやし」・「ちょうちょうとんぷ」・「祭りばやし」がある。
  9月の皇大神社祭礼、常昌院の5月下旬の鎮魂祭や8月下旬の万灯祭、リコー祭りなどで演奏される。



神輿

  



例大祭

  『風土記稿』によると例祭日は旧暦の2月15日と6月21日であったが、大正時代に9月5日と変えられ、現在は9月上旬の土曜日に行う。
  当日9時前頃から役員が集まり準備をはじめ、社殿前の清掃や本殿の供物の準備、社殿内のゴザ敷きや座布団の準備、幣束付けなどを行う。
  10時前に来賓の自治会長2名と農業委員1名が参集し、総代長と4名が社殿内に着席する。他の準備などに当たった役員等は社殿の前に集まる。10時になると打ち上げ花火の合図で式が始まり、総代の開会の言葉の後に神主(飯谷神官)により神事が行われる。降臨・祓い・祝詞奏上・玉串奉奠(社殿内の4名と外の2名)の一連の神事を行う。
  その後は神輿殿から出した子供神輿のお祓いを行い、神前から下げた御神酒で乾杯して終える。この後、自治会館に集まって直会が行われる。また、余興は太鼓・花火・演芸(歌謡ショー)などを行ってきたが、平成13年(2001年)度は行わなかった。



棚沢の歴史

  棚沢村は厚木市域の北部に位置し、村域は鷲尾山地最南部と荻野台地最北部および中津川沿いの沖積地にあり、おおよそ1/2は山地である。台地東部には小段丘があり、一段低い段丘面が僅かに認められる。北境から東境を中津川が南流している。中津川の東側には当村の飛び地があり、北側に続く現愛川町分にも飛地があった。また、当村に接して下川入村の飛地があった。村域の東から南境を大山道が通っている。周辺は、東側は「下川入村」と「三田村」、南側は「下荻野村」、西側は「上荻野村」・「中荻野村」、北側は愛甲郡「八菅村」・「半縄村」・「熊坂村」との入会地に接している。
  中世の頃の棚沢村に関する資料はなく、近世前期の正保国絵図にも棚沢村の記載されておらず、元禄国絵図に初めて「棚沢村」と記載される。『風土記稿』の下川入村の項には、「当村(下川入村)は其本郷にして今当郷(下川入郷)に属する棚沢・熊坂・半縄・八菅の四村皆当村の分村なり」と記載されている。近世の支配は旗本領の1給で、明治22年(1889年)の町村制施行に伴い「下川入村」・「三田村」・「妻田村」・「及川村」・「林村」と「三田村外五ヵ村組合」を組織し、この時に棚沢村の1集落「シモダイラ(下平)」は中津村に編入した。昭和21年(1946年)にこれら5村と合併して睦合村大字棚沢となり、昭和30年(1955年)の合併後に厚木市大字棚沢となる。鳶尾団地の建設により、南西のごく一部のところで「鳶尾」の住居表示が実施されている。
  旧集落は台地上に点在し、上段の集落は鳶尾山地の山裾寄りに「カミヤ」・「ナカムラ」・「シモヤ」の3集落があり、ナカムラは下川入村飛地の集落である。「サイド」集落は東側の下位の段丘面と中津川東側の自然堤防上にあり、北部に離れたところには「イチジマ」集落があるが、ここも下位の段丘面にあたる。『風土記稿』には小名として「本村」・「市島」・「小坂」・「才戸」・「下平」が記載され、幕末の戸数は63戸であった。北東の沖積地一帯が「タナザワゴウチ」と呼ばれる水田で、下川入村に隣接する飛地も水田で、台地上は広く畑であった。


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